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脱「幸せ主義」のすすめ

 「幸せ」という漠然とした難しい概念がある。
 幸せという言葉は、他人との比較の物差しに使われることも多い。「人並みの幸せ」など。

 幸せという言葉に、私は若干の嫌悪感を覚えている。
 というのは、私は「その時が楽しければ、それで良い」という刹那主義なのである。
 私は高笑いしてしまうような、思わず「楽しい!」と叫びたくなるような経験を人生で何度かさせてもらっている。その楽しい記憶を糧に私は頑張れる。何度持病が悪化しても這い上がってくる。私の人生はジェットコースターのようにアップダウンの繰り返しだ。

 「いい歳をして将来を見据えていないのか。その日暮らしのプー太郎が」と糾弾されてしまうかもしれないが、刹那主義とはいえ私もまったく将来を見据えていない訳ではないし、その行為を否定するつもりもない。だが、昨今の人たちは幸せ主義に傾いているために、色々と気負い過ぎている。
 誰にも分からない未来に想いを馳せても、それは徒労というものだ。「心ここにあらず」で、今この瞬間を生きていない。
 そんな人は決まって「幸せになりたい」と呟く。

 幸せ主義と刹那主義は対極にある。
 幸せとは基本、長く続いてこそ(の幸せ)という世間一般の認識がある。一発屋のお笑い芸人のことを幸せと呼ぶ人は少ないが、まあまあ夫婦円満で子供がいる人のことを幸せと呼ぶ人は多い。そう。幸せとは、その状態が長く続くことを大前提としているのである。
 
 幸せ主義の弱点は、長期的であるために抱えるものが多く、将来の不安が募るところである。「妻子がいてマンションも持っている。俺は幸せ者だ。でもローンは20年も残っている。会社の景気は良くない。倒産かリストラになった暁にはどうしよう」と、必然的に将来の不安が募っていく。
 そこへ来ると刹那主義は、その名の通り刹那的に生きていて、一時的な快楽を重視するから長期的に抱えるものは何もない。極論だが、明日住処を失うとしても「まあ、その時は公園にテントでも張ろうか」と気楽に構えることが可能だ。

 無論、完全無欠な主義はない。刹那主義にも弱点はある。
 私が言いたいのは、昨今の人は幸せ主義に傾いていて、色々と気負い過ぎているということである。私は煽っているのではなく、その実は心配しているのだ。
 せめて一部でも自分の生活に刹那主義を取り入れないと、あなたはストレスに倒れてしまう。心療内科と製薬会社が繁盛する世の中が良いものとは私は思わない。