【倒木 三部作 3】八人目の侍
『倒木』三部作 マガジンにしました。
一人目
鳩子は痛み始めた足を庇いながら、もと来た道をノロノロと引き返した。
最初に倒した街路樹まで戻ると、折れて鋭く尖った根元に跪き、手を合わせた。
「ごめんなさい」
悔やんでも悔やみきれないが、謝ること以外何も思いつかなかった。
「痛かったぞ」
低い声が響き渡った。
「わしだ。さっきお主に倒された者だ。目の前に倒れておろうが」
「話せるんですか?」
「わかる御仁にはな。なかなかおらんが。それより、まずわしの下敷きになっとる女どもをどかしてくれんか?」
鳩子は立ち上がり、ひょいと幹を持ち上げた。
女二人は呻きながら幹の下から這い出ると、腹を押えながら走り去っていった。
「這這の体というのは、こういうのを言うのだな。まあ座れ」
鳩子はそっと幹を降ろし、木の根元に座り直した。
「へそ出し女め、わしに唾吐きおって」
「私はそれで我を失ってしまいました」
「よいよい。あの女はな、わしらの間でも嫌われモンでな。常日頃から唾は吐くわ、へどは吐くわ、酷いものだった」
「そうだったんですか」
「お主、名は何と申す?」
「鳩子と申します」
「そうか、覚えておこう。もう行くがよい」
折れたばかりの木の香がむせかえるほど辺りに立ち込め、鳩子はずずっと鼻をすすった。
二人目
「これからどこに行かれるのですか?」
「わしらか? 厚切りちくわの如くぶつ切りにされて、どこかに打ち捨てられるかもしれんな」
「そんな・・・・・・」
「ここにいるよりはましだ」
「ここはそんなにひどい所でしたか?」
「ひどいなんてものではなかったぞ。一体何人がわしに小便をかけていったことか」
「ああ・・・・・・」
「あの時ほど次の雨が待ち遠しかったことはない。ここを去れるとなれば、せいせいしたものだ。しかし、お主に蹴られた時は痛かったがな」
「ごめんなさい」
「もうよい。次の木のところに行ってやれ」
鳩子はうなづき立ち上がった。足はいよいよ腫れあがり、地に着く度にひどく痛んだ。
三人目
「なかなか見事な立ち回りであったぞ。侍と呼ぶに相応しい」
「褒められたことではありません」
鳩子は手を合わせたまま顔を上げた。
「蹴りの強さは大したものだ。何しろ一蹴りで我らを倒したのだからな。ただ、精度はいまいちだったと言わざるを得ない」
「はい」
「一蹴りで皆まとめて倒せとは言わんが、わしら六人を倒すというのはさすがに多過ぎた」
「おっしゃる通りです」
「精進しろよ」
「はい」
「最後にいいものを見せてもらった。お主のことは忘れまい。さあ、もう行け」
鳩子はもう一度手を合わせ立ち上がった。先に倒れる街路樹に向かって歩き始めたが、足はもう引きずることしかできなかった。
四人目
「ごめんなさい」
「何度謝るつもりだ? もう充分わかっておる。少し前にわしらの長老が倒れてな。ほれ、隣の幼木はその後に植えられた仔だ。お主はその仔を蹴らなんだ」
「できませんでした」
「わしらがお主を許す理由はそれなのだ」
「だからといって、許されることでは・・・・・・」
「人間界ではな。だが、わしらの世界に比べれば、人間界なぞ小さきものだ。侍も随分少なくなってしまったしのう」
「それでも私は人間界に生きております」
「見ようによれば、お主は鳥に見えんこともないが。なにしろお主はわしらを味方につけたのだ。これは大きなことだぞ。わしらはいつでも見ておる。お前もそれをわかっておろうが」
「はい」
鳩子の頬を伝うはずの涙は、チューバッカのピンクの毛に吸い込まれていった。
五人目
「お待ちください」
最後に倒した木の元に向かう鳩子を誰かが引き留めた。
「あなたは・・・・・・」
「ここに来たばかりの者です」
まだ若いソメイヨシノの前で鳩子は足を止めた。細い幹はまだ白みを帯びていた。
「あなたは私を蹴りませんでした」
「あなたにはつぼみがありました。それで咄嗟によけただけなのです」
「そうかもしれません。けれどそれだけではないようにも思うのです。ここへ来てから蹴られた数は五指では足りません。長老達はそれが運命、それに耐えうる強い者のみがここへ送られてくるのだと言いますが・・・・・・」
幹はあちこちすりむけていた。
「それはそうと、なんとお恥ずかしい。この時節に花を咲かせるなんて。不慣れなもので、先走ってしまったのです」
枝先の開きかけたつぼみがぽっと赤らんだ。
「遅咲きでも早咲きでも、咲かぬよりはいいのです。私はもう葉桜でもありませんが」
鳩子はそう言ってソメイヨシノを見上げた。チューバッカの毛に絡まった細い枝がだらりと枝垂れた。
「私もやがて葉桜となり、冬になれば葉は枯れ落ちます。それがいいと言う者もいるのです」
「昨今はそう言う者もずいぶん少なくなってしまいました」
ソメイヨシノの枝がうつむく鳩子の両肩をぽんと叩いた。
「ひよっこですが、これでも武家の娘。あなたのことは決して忘れません」
「私も忘れません」
「赦されぬことかもしれません。けれど赦す者もいるでしょう。さあ、行ってください」
引きずることさえままならなくなった足を無理やり立たせた。
六人目
「かまへん」
鳩子がひざまずくやいなや、五人目の御仁がそう言って片枝を揺すった。
「上方のお方ですか?」
「そうや。ここではわしだけな。わしらは皆、田舎の生まれでな。そりゃ江戸は最初こそよかったが、何しろ空気が薄うて、薄うて。かなわん」
「そうでしたか・・・・・・」
「これで田舎に戻れるかもしれへん。願ったり叶ったりちゅうもんや」
「森に帰れるかもしれないのですね?」
「交渉はするつもりや。庭師もわしらと話せる奴が多くてな。頼めば故郷の山に返してくれんこともなかろう。帰ったら今日の話を仲間に聞かせてやれるなぁ」
「森で自然に還っていくのですね」
「それが本来の姿や」
「最後は・・・・・・、最後ぐらいは痛みはないということですよね?」
「心配なんぞせんでええ。もうええから泣くな」
チューバッカの顎先の毛から、鳩子の涙がぼたぼたと落ちた。
七人目
鳩子は幹を持ち上げたが、下敷きになった男はピクリとも動かなかった。
「毬栗坊主め、目を回しておるな。放っておけばよい」
「不快ではありませんか?」
「かまわん。その毬栗はな、わしの皮膚で煙草を消して、そのまま捨てていくような不届き者でな。ちと灸を据えてやりたいと思っておったところだ。これもいい薬だ」
鳩子は幹をそっと戻し、根元にひざまずいた。立って座ってを繰り返し、足の感覚はもうほとんどなくなっていた。
「ごめんなさい」
「それはこの毬栗坊主どものセリフだ。お主はもう充分に詫びておる。それに、わしらも痛かったが、お主の足も痛んでおろうが。早く手当てをせい」
「これはじきに治るものですから・・・・・・」
「それは治るであろうが、お主の心はどうだ?」
「それもやがては・・・・・・」
「時だ」
「時?」
「時が癒しとなるであろう。だが、お主はちとかかりそうだな。わしらもな、折れはしたがしばらくはこうして生きておる、次の世代のためにな。それに終わりのようで終わりでもない」
「廻り続けるということですか?」
「さよう。ゆえに尚更お主にはこれ以上悔いて欲しくないのだ」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「迎えがきたようだな」
「いってまいります」
「ああ、また会おうぞ」
「はい。必ず」
「わしの葉を一枚持っていけ。約束の印としよう」
鳩子は枝先の葉を一枚とり、ポケットに入れた。立ち上がり歩き出そうとしたものの、足は感覚を失い、ガクンと膝をつきそのまま動けなくなった。
「ここで待っておれ」
それが最後の言葉だった。ぐいと拭った鳩子の両目からとめどなく涙が溢れ、徐々に近づいてくる赤色灯が目の端でゆらゆらと揺れた。鳩子はもう一度目を閉じ、手を合わせた。
潜っても 潜っても 青い海(種田山頭火風)