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陳腐化したジャーナリズム:価値基準から「なぜ」の提供へ

『マスゴミ』という言葉。字面だけを見ると、マス(民衆)をゴミ扱いしているので、本来ネットを中心に叩かれている方々が意味する所とは少し異なってくる。私は、最初この言葉の意味を知らなかった。*ネットでニュースを叩いている方々の自虐かと思った。

色々調べて、ジャーナリズムというここ一世紀に台頭した伝統的なメディア媒体が、ネットを中心に「マスゴミ」と呼ばれている(ディスられている)ことを知った。

この字面(ゴミになった民衆)自体は、古代ギリシャの時代に、民主主義を「低俗」と嘆いた「アリストクラシア」(貴族の支配層)と、はからずとも同じ意味になっている気がする。

何故マスコミさんは「マスゴミ」さんと呼ばれるのだろうか。

それは、マス(民衆)が、マスコミ(メディア媒体)が与える情報の解釈という「視点」を嫌い、自分で見つけた「視点」こそ正しいと信じたからだと思う。歴史を通して、いつの時代でも見られる、民衆が神の視点を勝ち得る瞬間だ。

昔のマスコミュニケーション:権力が歴史(視点)を作れた

日本の最もポピュラーな神様は、「アマテラスオオミカミ」だと思う。場所によっては、「ワカヒルメノミコト」、「オオヒルメノミコト」、「オオヒルメノムチノカミ」などとも呼ばれており、全国の神社の多くでご神体として祭られている。*学者によっては海神族の「アカルヒメ」、魏志伝にある「ヒミコ」や「神功皇后」も「アマテラス」だと説く人もいる

「神道」という「宗教」の神様だ。古くから、昭和に亘るまで、「権力者」にとって、想像の共同体である「日本人」を形作るため、日本という列島に住む民衆(=マス)に伝えるべき「情報」だった。

その媒体(メディア)は、様々だった。

文字という媒体(メディア)が七世紀に日本に渡る前、それは神社や寺という物理的に意味を持った媒体(メディア)が担った。共通して「民衆」(マス)が「信じるべき・信じたい」対象を予め定め、神社で祭り、住民と一緒に祭ることで、村長だろうが、豪族だろうが、中央の朝廷だろうが、「権力者たち」は、共同体の一体感・社会の治安(マツリゴト)を担保出来た。

アイヌの先祖や、もともと文字を持たなかった国栖、土蜘蛛、隼人、海人と古事記や日本書紀で描かれる人々たち。彼らは、古事記や日本書紀を読むと、恐らく入れ墨という物理的な媒体(メディア)で、伝えるべき「情報」を後世(マス)に伝えよう(コミュニケーション)とした。

朝廷に取り込まれる中で、彼らの入れ墨という媒体(メディア)を持つ習慣も消えて、文字というメディアにとって代わった。

近代、神社が最も影響を受けたのは、明治政府による神仏分離政策だと思う。アマテラスやヤマトタケルが「ご祭神」として全国で最も多いのは、この分離政策による。神社に習合された「訳の分からない」仏教の神様や、地域独自の「古事記や日本書紀に載っていない」神様を、女ならアマテラス、男ならヤマトタケルに書き換えた結果でもある。

私は、現在の神社の形態(建築様式・祭る対象・祭司様式)が日本列島で大体似通っているのは、面々と古くから重ねられた「権力者たちによるマスコミ」の成果だと思う。

そして、アマテラスが「日本人の共通の神様」として広く「今の日本人」の中で認識できるのは、明治政府による、神社という媒体(メディア)を使った、立派なマス(民衆)コミュニケーション(伝達)の結果だ。

権力が歴史を作る、と言えるのは右思想、左思想関係なく、時代時代に併せて、権力側にいる人間が、最も効率的かつ独占的に媒体(メディア)を使い、管理できるからだと思料する。

「知る」という万能:人間が神になれる時

2020年現在、恐らくよほどの勇者以外、本気で「アマテラス」が太陽だと「科学的」に信じている人はいないだろう。

公式の日本の歴史書に書いてある、という理由で、アマテラスが岩戸隠れをして、天細女(あまのうずめ)が岩戸の前で性的な踊りをした、神々が大勢で笑ったから、太陽(=アマテラス)が岩戸から出てきて、世界に明かりが戻った、と「科学的に」信じている人はいないと思う。

現代であれば科学的に、「日食」という現象で説明できるかもしれない。若しくは、噴火による火山灰や雨により、「太陽が消えた」ように見える、と合理的に推測することも可能だ。

だが、科学が発達していない当時(恐らく天皇の権力が機能していた室町初期くらいまで)、この話は、神社という媒体(メディア)システムと併せて、文字という媒体(メディア)を通して、広く人々(マス)に信じられていた。

何故なら、この科学的な仕組みや事実を、「知っている人」は当時いなかったからだ。

知らないが故に、世界から突然、いつもそこにある「太陽」という「神様」が消えることは、どれだけ恐怖だったかは想像に難くない。

当時の民衆に、記紀にある通り、アマテラスという太陽の神様の話を「情報」として与え、この情報が、太陽が消えた「合理的な説明・解釈」だと促すこと(信じさせること)で、多くの民衆(マス)の恐怖心が、救われたと思う。

「アマテラスの岩戸隠れ」が、日食かもしれないと知っていることは、信仰を語る上で大きな示唆がある。

この事実を知った瞬間、アマテラスという神々しい存在は、「太陽」という科学的な宇宙の仕組みを前にして、急に嘘っぽくなる。本気で信じるための必要な「理由」が色褪せるのだ。

「知る」ということは、物事の認識を相対化する入口だ。そして、「知る」ということは、事実上、民衆が、「アマテラス」という神の宗教性と権威を奪う行為だ。

即ち、知るということは、人間が神を超越する手段になる。

旧約聖書の創成記で、蛇が人類最初の女であるエバに、知恵の実を「食べても死なない」と教えた。この時、エバは、エホバ(神)が開示しない、アダム(人類最初の男)も知らない真実を得た。

ソフィア(知恵)を得たエバは、神を超えたが故に楽園を追放された。エホバはエバを地上に追放し、産みの苦しみを味わわせる必要があった。神の権威・超越性を保つために

「知っている」ということを、誰よりも担保している状態が、「神ってる」(=神威性の高い)状態なのだ。

そうであるが故に、より多くを「知っている」状態を独占することは、古今東西、宗教だろうが政治だろうが、「権力者」として必要不可欠な行為になる。

近代になり、この「権力者の知っている」事柄を、「国民のために」暴き出そうとする媒体(メディア)が現れた。

「新聞」などに代表される、近代の伝統的なジャーナリズムだ。

新聞メディアの誕生:情報伝達≒解釈(視点)提供

大手メディアの一つである「新聞」。現在に続く日刊紙としての「新聞」の始まりは、明治四年創刊の横浜毎日新聞だと言われている。

明治政府は、富国強兵を目指し、和魂洋裁で「Nation State(国民国家)」作りに邁進した。

伊藤博文さんが、明治憲法づくりの際、西洋の憲法政治を支える「宗教(キリスト教)」に匹敵する「機軸」が何かを思案し、「天皇」を中心とした「国体」を主張(*1)した。

当時の西洋が定義する「国民国家(Nation State)」作りを一から日本で行う、という意味においては、戦略的な発想と言える。

国民国家作りのために、簡単に反対勢力や〇〇一揆にひっくり返されないよう、明治政府の軍事行使やその正当性を担保する必要があったからだ。

国民主権を授権している「政府」が、国民「みんな」の主権を代表しているが故に、「法」という拘束力を自由に作れる。伊藤さんが、その法(憲法)の後ろ盾となる、「日本の国体」に定めたものは「宗教」ではなく、「天皇」だった。*神社の古い神々の系譜が、何でもかんでも「天皇」に結び付けられるようになったのも、明治政府の「功績」の一つだろう。

ルソーによる社会契約論にもある通り、「国民みんな」が自分の主権(権利を主張すること)の一部を、政府という媒体(メディア)に譲る。譲ることで、政府は「全ての国民」を代表しているが故に、日本国の中で最も拘束力が強い法を作れるし、その法を根拠に、国民に一定の「義務」を課したり、「命令」をしたり、「殺したり」(死刑)することが出来る。

ここに右も左もない。伝統的な教科書通りの「国民国家」、「三権分立」に基づいた、「立憲君主」政治があるだけである。

明治時代、貴族制度が色濃く政治に反映され、貧富の差は今よりも大きかった。教育格差も当然あった。インターネットもなければ、政党の数も今より少ないし、与党以外の野党と呼ばれる政治家も、「選ばれた金持ち」がなりやすいシステムで、税金の金額に関係なく、誰でも(但し男性に限る)選挙権が与えられるようになったのは、大正14年(1925年)だ。

この時代に、西日本出身の一部の人々による大きな政治改革により、多くの「西洋的」ではない、「悪習」と見做された仕事、中央集権に逆行する仕事に就いていた人々が職を失った。

ルソーの言う社会契約論を見ると、国民「みんな」の権利が、「政府」に譲られているにも関わらず、「政府」の人間は、税金15円以上を払った(払うことの出来る)男性が選んだ、「金持ち」に限定されている。この人達が決めた政策や法律で、「日本」人として、税負担などの様々な義務を負い、職を追われる平民もいた。

勿論、明治政府の政策により、富んだ人もいるだろう。だが、大正デモクラシーの流れにまで繋がったのは、主義主張の以前に、根本的な理由があると思う。

戦争の海外派兵(私の曽祖父はド田舎出身だが、日露戦争に出兵している。地域の男性殆どがいなくなり、働き手が減り地域全体が困窮したと祖父から聞いた)負担、生活必要品の高騰(1917年の米騒動)など、「今ここにある生存の危機」を人口のマジョリティだった平民が、実感したからだと、思料する。

こうした、平民の窮状を、「反体制派」の知識人(=金持ちでエリートだが、政権の人達を心良く思っていない人々)が、当時台頭してきた、新聞という媒体(メディア)を通して訴えた。「言論」という「解釈付」で。それが、普段は「主義主張」に、何の興味のない平民の琴線に触れたのだと思う。

個人的に、こうした当時の時代の背景(明治から大正にかけて)が、「新聞」という新興メディア(媒体)に、「国民(平民)の味方」という意味付けを施したのではないか、と思う。*勿論、貧富の格差は平民間にもあり、文字が読める「平民」に限る。

国民という名のマジョリティである平民に、「明治政府」は「国民」の脅威であり、真の「デモクラシー」を妨げている、というメッセージを幅広く行き渡らせることに成功したのではないか。

解釈は、情報とは異なる、新しい「知」だ。日刊紙という性格上、新聞は、当時では驚異的な速さで、情報と「その解釈」が民衆(マス)に届けられた。

権力とマスコミの在り方が、変わった瞬間だったと思料する。新聞台頭までは、権力が伝える・伝えたい情報の媒体(メディア)は限られていた(掲示板などの公告)。限られていたが故に、権力による民衆への伝達の方法も、手段も、「権力側」で管理出来た。情報の解釈も意味付けも、「権力」がコントロールできた。

「知っている状態」を独占出来たが故に、権力側はいつも「神っている状態」でいられた。

だが、新聞はそこにメスを入れた。単純に「情報」を与える媒体(メディア)という役割だけではなく、「情報の解釈・意味付け」、即ち「視点」を提供する役割だ。書籍よりもずっと早く、見やすい形で。

「実は〇〇という政府が知らせない事実がある」「何故なら、政府は〇〇を国民に知られると都合が悪いから」とか、「〇〇という出来事は酷く良くないことだ」とか。

新聞は、誕生から、昭和の体制翼賛期を除き、IT革命までの間、大なり小なり、「政府」と同等な程、民衆(マス)とコミュニケーションをする強大な「権力」を得たのだと思う。

新聞を始めとする新興媒体(メディア)は、この一世紀の間、その新しい性格故、「神っている状態」を謳歌してきたのだ。

「マスゴミ」ではないジャーナリズム:民衆と神のゼロサムゲームからの脱出

そして今、その「国民の味方」だったマスコミ代表の新聞社各社含め、「解釈や視点を情報と共に提供すること」で成長してきたマスメディアが、「マスゴミ」さんと罵られている。

IT革命後、インターネットの普及により、「知っている状態」は皆に開かれている。そして、解釈も、「新聞」などの伝統的なメディアだけではなく、「私」という個人もネットを使って発信できる(例えば今)。

新たな解釈という知は、別にマスコミと呼ばれる媒体でなくても、可能になった。この社会は、一億総「知ってる(=神ってる)」社会だ。

大手○○新聞社、記者歴XX年以上のベテランが、懇切丁寧に書いた記事に、「これは嘘だ」とか、「何言ってんの?馬鹿じゃない?」と言うこともできる。

しかも匿名でものすごく簡単に。

同様に、それは「マスゴミの視点でしょ」という、合理的なコメントもネット上にある。

ネット上に溢れる数々の発信の中には、以前別の記事で書いたが、メンタル上の理由で叩いている方々もいると思う。

「解釈や視点という知」を提供することは、この一億総「知っている」社会では、もはや付加価値にもならない気がする。

むしろ、大手媒体が行うことで、社会や政治の深刻な分断を招くと思う。

皆が皆、書きたいことを書き、信じたいものを信じることが可能なこの社会で、本当に必要な「情報」とは何なのか。

私は個人だろうが、大手媒体だろうが、一人一人が「何故」を促すことが出来る情報だと思う。「私」が、「俺」が、何故そう思ったのか、という点にフォーカスすることが重要だと思う。

「何故」あなたはそう思ったのですか?「何故」こう解釈したのですか?「何故」この情報が「今」大事なのですか?「何故」この情報の視点は右派と左派で違うのですか?

こうした「私・俺」の「何故」という問いと、そのロジックを公開していくことが、権力VS国民、金持ちVS平民、神VS人間という「知」を巡る、社会の分断から、多様化する社会で、共生に向かう「情報」を引き出すヒントになるような気がする。

単なる価値判断や解釈・視点の知を提供している(この意見はダメだというディスリやこの新聞の社説が言う通りという賛同)だけではなく、一言で終わらない、「何故」という論理展開を、ネット民からも大手メディアからも聞いてみたいと、私は思う。

この「何故」を問う時、「非難している対象が、〇〇だから」というロジックではなく、「私が、俺が〇〇だと考えるのは〇〇が理由だから」というロジックにこそ意味があると思う。

何故なら、「何故私が、俺が非難しているのか」を「私が、俺が」丁寧に言語化(公開)することで、情報の発信者と受け手の間で、意図や背景、理由の齟齬が減る。

非難している対象だけを主語にして言語化すると、「発信している私・俺」の意図や背景や理由が分からない故に、情報の発信者と受け手の間に、齟齬が出来たままの情報になる。

これは、「マスゴミ」と呼ばれてしまう媒体同様、受け手の意図、背景、論理を考えない、自分の価値判断の押し売りと変わらない。

「私・俺」が、非難している対象を主語にする限り、「マスゴミ」と内容が違うだけで、実は全く同じ、自己満足の「解釈や知」を提供しているだけの媒体(メディア)に変わらない。コインの裏表であるだけだ。

丁寧に言語化することで、他でもない「私の、俺の」社会的立場、心理状況、価値判断の傾向を、「私が、俺が」良く理解した上で、物事を把握し、理解し、解釈することが出来ると思う。

「マスゴミ」的な解釈や視点という知から抜け出し、主語を「非難している対象」から「私・俺」にずらした、独自の「情報」は、自分の内面に踏み込むが故に、言語化が難しい。

Twitterで一言で表現できるようなものではなくなる。すると、そこら中に溢れた言語や言説では、決して語れなくなる。

この時に、初めて「誰でも発信できる」この環境だからこそ、「私・俺・わが社」の情報としての意味が出てくると思う。

そして、こうして苦労して言語化した「情報」は、知っている私・知らないお前、という神性(権威)を携えた、分断する「知」にはならない。

何故なら、苦労して自己の深淵と「言語化」を通して向き合うことは、大変であるが故に、「神」という安易で簡単な概念以上に、「苦しんでいる・もがいている他者(=非難している対象)」という自分と何ら変わらない存在を浮き彫りにするからだ。

この時、初めて、「非難している対象」について、「私・俺」の中に、新たな、「私・俺」にとって本当に価値のある情報が生まれると私は思う。

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