彼氏とは量である。(恋愛と量の不思議な関係)

存在するものは全て量である。

その中の、一定の割合のものに意識が宿っている。

すなわち意識とは、量なのである。

人間、個人、私、あなた、みんなみんな量であり、量でなくなることは許されない。

そう考えると、私がこの間別れたばかりの彼氏もやはり量なのである。

つまり、私が今抱えている寂しさは、量を失ったことに由来するものであり、実質的に量の問題なのである。

いや、これまであった量がそこにないと人は落ち着かない気分になるというのは、すでに、多くの人が経験として知っていることでもある。

日常的にご飯を2杯食べていた人が、1杯しか食べなくなったら、お昼を待たずにお腹がクークー鳴く。つまりはそういうことだ。

それを解消する方法がある。ご飯をもう一杯食べることだ。なんならさらにもう一杯。ホカホカの量が胃の空間を満たすことで、心もまた満たされる。これが、量と意識の関係である。つまり、彼氏という量を失って戸惑う私の心も、量によって満たされることは間違いない。

と言っても、彼氏という量は予想以上に多い。ご飯茶碗に換算すると30杯はくだらないだろう。よほどの大食漢でもなければ、食べられないのではないか。

いや、そもそも彼氏は食べるものではないから、ご飯に換算するのは正しくない。無理に食べる必要があるか?いや、ない。では彼氏という量は、何に換算したらいいのだろう。

私が一番良いと思うのは、砂袋である。大きめの砂袋を一つ用意し、そこに彼氏と同等の砂を入れれば良い。安価に手に入るし、ぎゅっと詰め混むことでコンパクトに量が手に入る。欲張りたいなら、少し多めに入れてもバチは当たらない。金属にするという方法もあるが(密度的にはさらに圧縮されて小さくはなるが)、押したら凹むくらいの流動性があったほうが、色々な隙間にも入れられるし、収納的にも良いような気がする。これは個人的な意見だが。

さて、こうして量(砂袋)ができたら、然るべき彼氏として、自分のそばに置いておけば良いのである。これまでの恋人の作り方に比べて、100倍簡単だということにお気づきだろうか。彼氏が量だということに気づくだけで、かくも簡単に、理想の彼氏が手に入るのである。

ただ、この量を、あちこち運ぶのはとても大変な作業だ。持ち運び用にはキャスターが必須である。インターネットなどを通じれば、キャスターは比較的ラクに手に入るとは思うが、私としては、そこまでして持ち運びに必要性を感じない。量は量として存在してほしいときに存在しうれば、それで良い と思っている。

(従来の彼氏には足があり、自律的に動いてくれるという面で大変優れてはいるが、量の彼氏には足がないという理由で嫌いになるのはどうかと思う。むしろ良い面に着目していきたい。)

彼氏が量として最も存在してほしい瞬間は人それぞれだと思うが、私の場合は、やはり夜、寝る時である。横に、自分の量と同様にどっしりとした量を感じることは、とても安心するものだ。

だから、私は量を自分の寝室に置くことにしている。寝るときにそっと押してみることもある。量はいつも優しく凹んで、だけど量自体はなんら変わることなく、いつも私を安心させてくれる。

ただし、今、私と量の間で一つだけ問題になっていることがある。それは、砂が溢れることである。少し多めに入れたこともあり、量自体が減ってしまうということはないのだが(減ったら足せば良いし)、寝返りを打ったときにザラザラとして心地が良くない。砂を入れた麻の袋もよくなかった。ガサガサとして肌に突き刺さるのである。

量とつきあうというのは、思った以上に難しいことである。それもまた、彼氏と付き合うことと同じように、というと皮肉のようだが。

私は今後も、量との関係について、じっくり考えていきたいと思っている。もしかしたら、来月あたり、新しい量に乗り換えるかもしれない。そうやって簡単に取り替えがきくところも、量の良いところではあるが、一抹の寂しさを感じるのは、一体なぜだろう。


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