「〇〇なんて死んじゃえばいい」って思うほどの感情
どうにもならなかったことへの怒りや憎しみって誰だって持っている。
けれど、そういう感情は出さないことが良しとされる。
「そんな風に思うものではありませんよ」「相手にだっていろいろある」
ある程度真面目に教育を受けていれば、そういう感情・言葉は出してはいけないと子供のうちから知っていく。
その感情自体が、他者を悲しませるいけないことであること。
わかっているのに黒い感情を持つ自分への複雑な感情。
そして、どうにもできない自分に対する無力感、憎しみ。そのエネルギー。そのエネルギーから、頭に浮かぶ薄暗くて強い言葉。
汚い言葉は使ってはいけないとわかっているから押し込めて閉じ込める。それが積もる。苦しくて仕方ない。
そして、そういうのがいつのまにか積もり日常の苛立ちとして
大人になってなんだか変な歪みとしてでるのではないか、と思う。
けれど怒りの発露は難しい。
その熱量を受け止める場がない。大人にもその力がない。
「〇〇なんて死んじゃえ!」「いなくなればいい」
子供はまだ、言語化する力が弱く
その衝動やエネルギーを、知っているイチかゼロのような強い言葉で示してしまう。
そして、その飛び出てきた言葉が強いと、大人はまず叱責してしまう。
その感情を受け止めるより先に。
その言葉尻から良い悪いを決めてしまう。
汚い言葉は悪いこと、そう判断が先に出る。
そうでなくても、憎しみの対象とされた相手と本人、どちらの言い分が正しいか、そういうものの見方をどうしても持つ。
そこにある感情は一旦置いておいてしまう。
激しい言葉になるほどのその強いエネルギーを正面から受け止めるのは、大変なことだから。
相手が子供であっても。もしくは言語化が進んでいない分、直接的な表現になる分、まっすぐな瞳がある分、子供のそれは避けようとする。
感情は置いておき、ややベクトルをかえることで、どうにか対応しようとする。
そして、子供はその弱さには気づく。そのずるさに隠れて落胆する。言わない方がいいとわかる。そうして自分の中に積もっていく。怒りへの対処がわからないままで。
じゃあ、私たち大人はどうすればいいのだろう。
私たちは怒りをどう扱えばいいのだろう。
今書いているのは、上の記事を書いた時に書こうとしてた続きである。
ツイッターで障害を持った兄弟への怒りを語った質問箱の文章を見た後にまとめた記事の、半分続きである。(ただ書きたいことが二転三転しているのでうまく続いていません。ので読まなくて大丈夫。)
彼女が兄弟に対して、死ねばいいと思ったというやりとりを見ていて、あの怒りにどんな言葉をかけてあげられるか考えていた時、昔読んだ本の一説が浮かんだ。
「ああ、時どきすっごくお姉ちゃんのことがうっとうしくなるんだ。さっさと死んじゃえばいいのにって思うこともある」。
『「死ぬ瞬間」と死後の生』( E・キューブラー・ロス 鈴木晶 訳)
この言葉は、この本の中の、病気で死期が迫る姉とその兄弟に精神科医であるエリザベス・キューブラ・ロスが関わった、きょうだい児の言葉である。
ロスは精神科医で、死期が近い患者家族と向き合った医師である。その中で死期にある子供、家族が死に扮しているきょうだいと向き合っており、そのやりとりがこの本ではいくつか紹介されている。
上記に引用した言葉は、あと数日で死にそうな姉を持つ、6歳の弟ペーターの言葉である。
リズの父は子供達に姉の死が近いことを知らせておらず、ロスは父に許可を取り子供達と話し、ペーターが死ぬんでしょとロスに答える。
「そのとおりよ、ピーター。 リズの命はひょっとするとあと一日二日なの。もし何かリズに対してやり残したことがあったら、いますぐやりなさい。 延ばし延ばしにして手遅れになってしまったら、とってもとっても気持ちが悪いと思うわ 」。
「ええと、たぶんお姉ちゃんに『大好き』とか言わなくちゃ」。
「だめ、言わなくちゃなんて思っているなら言わない方がいいわ。それはインチキよ。あなたの口ぶりからすると、リズに対して悪い感情もいっぱいもっているんでしょ 」。
すると、彼はようやく本音をもらしました。「ああ、時どきすっごくお姉ちゃんのことがうっとうしくなるんだ。さっさと死んじゃえばいいのにって思うこともある」。
この言葉にロスはこう答え、それに対してペーターも話す。
「そうね、こういう状態が長く続いているものね。でも、何がいちばんいらいらするの 」
「テレビが見られないし、ドアをばたんと閉められないし、友だちを家に連れてくることもできないから」
人によっては、そんなことで「死んじゃえばいいのに」というなんてと憤る人もいるかもしれない。それぐらいのことで。
しかしロスはこう話している。
六歳の子供にしてみれば、ごく自然な感情です。私はそれを彼の口から言わせたかったのです。 私は子どもたちに言いました。 ーどんな子もピーターと同じ感情を抱いているものだけれど、それを口に出して言えるだけの勇気のある子はめったにない。ピーターは勇気を出して、自分の言いたいことを言ったのだ。素晴らしいことではないか……。
私はこの部分を最初に読んだ時、(私の感覚も受け止めてもらった。)そんな感覚を受けた。
まだ言語化できない、コントロールできない感情は誰だって持ったことがあるはずだ。強い言葉で呟けば、ぴったり来てしまう言葉。頭の中で呟く。
でもそれに罪悪感を持つ。大人にいったら怒られる。
家族なのにそんなこと言わないのって悲しそうにされる。本人はもっと辛いんだって、そんな小さいことで怒るなと叱られる。その静かな生活の中でどういう態度が喜ばれるか知る。
彼で言えば、死を迎える前に姉に大好きということ。それが理想のことだとそうしなければと思う。
果たして、亡くなる姉に愛していると言わなくちゃといった子に、(彼の目に正直でない様子が見えていたとしても)他に言いたいことがあるでしょうとちゃんと向き合える大人がどれくらいいるのだろう。
「そう伝えましょう、それがいいわ」と言って目をそらす、そのことをせずにいられる大人がどれくらいいるだろう。
そうやって黒い感情は見逃されていく。
質問箱の彼女の言葉を見た時に、その苦しみは子供のように叫んでいたから、なんとなくこのやりとりを思い出した。
私たちはどう受け止められるのだろうか。
個人的には「死ねばいいのに」と関係性の中で語るものの中で、本当に死ねばいいのにと言いたい人なんてそう多くないのではと思う。
ただそういう言葉でしか表せない黒く溜まった思いがあるか、ただ単純に言葉の意味すら思えないアホウか。そのどちらかである。
怒りは強い力があり、伴う言葉も強い。
怒りというか、もしかしたらその根本は悲しみよりも絶望かもしれない。
絶望を伴う怒りの言葉。それは、押さえつけるものでなく、条件反射のように叱責されるものでもなく、強い言葉に反応して受けた側が「じゃあ死んでやる!」と悲嘆するものでもない。
汚い言葉を使ってでも、言いたい底の底。それを大人は掬い出してあげてほしいと思うし、動揺せず受け止める度量は私自身も欲しい。
ちなみにこの話の中で、ロスは、姉にそのまま思っていることを伝えるようにピーターに勧める。
しかし彼はすでに大人の影響に染まっていて、こう答えました。「こういうことは言っちゃいけないんでしょ」。
「あなたが感じたり思ったりしていることを、リズが知らないと思う?あなたがそれをちゃんとお姉ちゃんに伝えることができたら、どんなに素晴らしいかしら。自分に心を開いてくれる人がいると知ったら、リズもすごくうれしいんじゃないかな」
そういって、ピーターは言葉を選びながらも姉に伝え、姉は嬉しくて泣く。その理由は本を読んでもらうと、なるほどと思う。
*
ちなみにこれを書きながら、進行中のきょうだい児の発言がヘイトになることに言及した関連のツイートについても色々考えたけど、複雑だから一度切る。
ただ浮かんだことだけ下につらつらと。そして全部見てないので、誤読があったらスミマセン。
そのヘイトになりうるリスクのツイートを見て、確かにきょうだい児が公で辛さを語ることはそうなり得るのだなと、そのリスクは見えてなかったと思った。
上に出て来たピーターだって、彼がロス先生ではなくSNSでそれを言えば、もしくは対象に恨みを持つ他者に言えば、ヘイトとして盛り上がり、相手を責めることに集中する、そのリスクがある。たった一つの強い言葉は、ネット上では安易に肥大化し、その象徴に使われやすい発言をした者は他者に担ぎ上げられるリスクがある。それを知っていなければいけない。
私自身も匿名のSNSで、自分の感じた痛みや苦しみを吐き出していたことがあるからそれはよくわかる。あれもきっとそのリスクのすぐ近くにあるものだったと思う。
苦しくて、吐き出した言葉に共感が得られる。その高揚感は、いいことを書いた時にいいねをもらうより、狂気的な熱を持つことがある。
いつだって他者批判が含まれるものは、そうやってヘイトになるリスクがある。批判を目的としていなくても、いつのまにか同質の苦しみを持つもの同士で引っ張りあう。怒りのままに従って、周りの同調に乗せられて、何かを否定することに意固地になってしまえば、いつの間にか自分自身の怒りや他者の怒りに利用されてしまう気がする。
自分自身ではなくてヘイトだけが動き回るような。
何かの扇動者になれるのは、快感もあるし、人は強い言葉に嫌悪感か爽快感を感じて注目するから。それが最終的に当事者で苦しんでいた訳でもない、そんな他者に利用され、ヘイトになる可能性は十分にある。
そうなると公平にジャッチされ、その名前がつく自分たち自身が批判されるリスクがある。
本当は、最初はただその怒りを持つほどの苦しさを誰かに受け止めてほしいだけだったはずなのに。ただ自分の感情の落とし所をつけたかっただけだったはずなのに。
その理由が変質する。そして、変質をさせて巻き込ませたいだけのやつも世の中にはいる。
彼女たちをこどもたちを守りたいならば、その感情の根っこを大切にしたいならば、周りは先導して煽動せずにいなければいけない部分というのがあるのだと思う。
それが、あの流れでヘイトスピーチという言葉をつかったところではないかと思っている。
SNSもマスコミもセンセーショナルなものが好きなのだ。
そこに子供が巻き込まれなくてもいい。自分のレッテルを自己の中心におき自分の正しさのために立ち上がる。それをしないで逃げていい。
そんなに嫌だったのだし。違う場所で幸せを求めていいのだ。今はそれができる社会であると思う。
個人的には、やりとりの一部に私は子供を守れるようにしたい大人の視点を感じた。多少窮屈にさせても。ただSNSで匿名でも全くそういうことは言ってはいけないように聞こえる部分もあったから、反感もあるし、私もえっと思ったところもある。
ネットで自分の感情のための言葉を呟くのは、個人的にはありと思っている。私がそれに救われた面もあるから。ただ宣戦布告する、社会に問題定義する流れに身を任せない方がいいし、飲まれそうな若いうちは、鍵付きとか、匿名性が高いもので(リアルな知り合いがいない。個人情報に値するものを出さないとか)、より慎重に身を守ってほしいと思う。
今のレベルのSNSが発達したネット環境になったのはこの10年にも満たない。大人が大人になってからのことだ。だからこそ大人は過度になる部分もある。子供達は自分たちで身の守り方を身につけていかなければいけない部分があるのだ。
本当は地域で支えるとか、共通認識を進めて福祉や医療の現場の社会的サポートの中で彼らを支えることが普通になればいいけれど。まだまだ不足があるからそれまでは。
でも、こども病院で働いていた時も、大学の研究ボランティア主催だったり、病院自体でも取り組みが始まっているところも多い。見捨てられてはいないから。
そして結局嫌な話だけど、結局はその怒りや絶望の答えは、社会でも相手でもなく、自分が認めてあげて受け止めていくしかない部分ではあるのだろうって思う。
その道のりで、こどもらが傷つきすぎないようにあれればいいなと、そんなこと思いつつ
ひとまず、おしまい。
果ノ子
(ロスさんはグリーフケアの第一人者で文献を読むと勉強になります。けれど往年、臨死体験にのめり込んでしまっていて、この本も後半はそれなので個人的には残念。いや悪いことではないんだろうけど…)
(グリーフとは悲嘆のことで、グリーフケアは主に死別の悲しみに対して発展したケア。人の感情の反応などは、死別以外にも広義に当てはまる考え方なので、辛すぎる何かがある人は知っておくと、私は今この出来事についてこういう段階なんだなと楽になるかもしれない考え方です。)
(ちょっと誤字直して、文章足しました。同日7時)
引用『「死ぬ瞬間」と死後の生』( E・キューブラー・ロス 鈴木晶 訳 文庫)p56-58
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