恋をすることと死について考えるのが怖かった
すやきです。いつもありがとうございます。
路線とはだいぶ外れますが、休暇中に見つけた昔のメモの回想をします。
ではいきましょう。
まず、死についての話を。
僕が尊敬するじいさんは、去年の二月に亡くなった。97歳の老衰だった。
神風特攻隊の飛行機の整備士をしていたじいさんは、死ぬ間際の若者がじいさんの上空真上で機体を二度旋回させ、「ありがとう」と合図するのを、悲しい気持ちでいつも見ていたそうだ。
人が死ぬ直前のお見送りをしていたじいさんは、生前から僕にこの話をしてくれた。
そのせいなのかそのおかげなのか、物心がついた時から僕は死について考える機会に恵まれていた。
幼稚園の時にジャングルジムから突き落とされた僕は、気が狂って、ポケットに入れていた毛虫を突き落としたやつの服に全部入れてやった。
同じくその頃、寝る前に「このまま死んで目が覚めなかったらどうしよう」と思って寝るのが恐怖になって、眠くならないように夜中中発狂して、近所が大騒ぎになったこともある。
しかし、考えれば考える程、僕の中で「死」について謎は深まるばかりだった。
死んだら精神はどうなるのか、痛みはなくなるのか、眠りにつくのと本当に同じ感覚なのか、そして自我は生まれ変わるのか。
謎が深まるにつれて、答えのない死について、大人になった今でも以前以上の恐怖心を抱くようになった。
家庭教師で勝どきの高層マンションに伺った時、リビングから地上を見下ろして足がすくみ動けなくなった。
雨の中UberEatsのバイトをしてマンホールで滑って転けた時も、「あと数秒遅れていたら車と衝突してどうなっていただろう」と思いしばらくしゃがみ込んでいた。
渋谷の道玄坂でハイボールを飲みすぎてぶっ倒れそうになっても、ここで死ぬまいと、日吉まで5時間かけて歩いて帰った。その時から「Heavy Walker」というあだ名がついた。
多くの問いには答えがあると思っている。中高の部活では、顧問から怒られても修正すればそれ以上なにか問題は起きなかった。会計士試験にだって明確な解答があったし、仕事だってわからない監査調書のことはマネージャーに聞けば解決してきた。
だからこのようなことで悩んだことは、そうそうなかった気がする。
だけど、
死については、このように結論が見つからないことが僕の恐怖心を今も助長させている。
これからも、この結論のなさそうな問いに苦しめられ、向き合っていかなければいけないのか。
もう一つ、万年、僕にとって答えのない悩みがある。
それが、恋という概念。
恋をすると、再び何も見えなくなるのではないかという恐怖がある。
それを経験したのが高校三年生の時。初めて恋をした年上のお姉さんと受験予備校で一緒に勉強し帰った日々はドキドキして快楽的だった。全力で童貞少年だった。
だけど自分は同時に二つのことを両立できないのか、受験勉強は全く手につかなくなり、数ヶ月後にふられた時、初めて、感情に操られる恐怖を感じた。
それからの僕は、大学に入ってからも、恋愛することが怖くなった。
正直言って、大学受験ほどの大きな重大挑戦なんて大学生活にはないし、恋したら恋したで溺れてみるのも良かったのかもしれない。でも高校三年の時の経験がトラウマになり、異性を好きになることが怖くなってしまった。
僕は慶應義塾に入学して、キャンパスの華やかな女性を見て、「キレイだな」と思って舐めるようにガン見することがあっても恋愛感情に結びつくことは滅多になかった。だから、「ちょっと気持ち悪いけど友達キャラ」として、女性の友達が少ないながらもいてくれたくらいだ。
多分だけど、異性を好きになったら依存してしまい、自分が20代でかなえたいことが遠ざかっていくことが怖いんだと思う。
あれ、、今、答えが出てしまったのかな。。
うーん。
僕が20代でやりたいことについての将来の話を共有してくれる人、お互いが自分軸と目標があってお互い依存せずに並行に走ってくれる人がいたら、万年の悩みが解決するのかな。
こんな超絶自己中心的なエゴの塊みたいなこと思ってるからちっとも解決しないのかな。。。
結局恋というものも、僕にとっては結論のはっきりしない曖昧な何者かである。
今日のnoteには結論がなく、今までとは違って、メモを回想しながらつらつらと文字を並べているだけだ。
最近は、卒業、就職、リモートワークと、環境が目まぐるしく変わり新たな出会いというか、新たな感情の変化もあった。だから万年の悩みとか言って逃げている場合じゃない焦りがあるし、もうチャンスは二度と来ないかもしれない。
死については共感してくれる人はいるかもしれない、しかしこの恋の悩みについては、なかなか共感してくれるひとはいない気がする。
いや、それでも共感してくれる人がいるなら救いになると思う。
僕はこれからも恋と死ぬことにつて、答えのない悩みを抱えながら生きていく。
あてもなく砂漠を歩いている感覚だ。しかし共感してくれれる人が現れてくれないだろうか、もしくは気づいてくれないだろうかと、ないものねだりをしてしまう。
全力で童貞少年だった僕に共感してくれるひとがいるならば、僕はその人とくたくたになりながらも、新たな街を探しあてられる気がする。
その時は、Heavy Walkerの僕について来れるように、履き慣れたスニーカーやパンプスを履いてご一緒してくれたら、筆者すやき、望外の喜びである。
いつも読んでいただきありがとうございます!