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第7回 君、音、朝方、etc 【私的小説】

一人の記憶。
「もう苦しまなくていい」
誰に言われれば嬉しいだろう?
 

 留まり、避ける。その季節の間、午後11時まで待った。
 母が二階の寝室に戻る音。階段のリズムは安堵と絶望を与えた。空腹だった。朝に汲んだグラスの水が底をつかないように、用心深く飲んだ。 
 水はどこまでも透明で滑らかだった。
 口内を巡る感触は僕の存在と不釣り合いだった。

 野球中継が終わると音楽を聴いた。兄が実家に置いて行ったCDを一枚一枚、数えてラジカセに装填する。30分から一時間超からなる旅路は安息だった。
 何も考えなかった。考えないようにしていた、感じていた。

 家族が寝静まる時刻が来た。イヤフォンを取り天井を見つめた。
 どれだけ眺めたところで変わらなかった。
 染みも模様もない、のっぺりとした表情は何も語りかけなかった。

「帰りたい」
 時々、そう思った。どこにかは分からない。誰に会いたいのか、もしくは会いたくないのかも分からない。帰る場所はここ以外にないのか。
 多分、過去に帰りたいのだと思った。自分を意識せずに済む世界へ、空白が自由に思えた時間に。
 階段を音が立たないよう一段一段下りていった。明かりが足元の僕を照らした。一階には明かりが点いてなかった。台所の常夜灯だけを点ける。伸びた紐を下に引く。何度か点滅して、蛍光灯が灯る。夜が始まる。

 誰をも傷つけはしなかった。自分に手を上げることはなかった。
 母に手を上げることはなかった。信念があったわけではない。想像もしなかったのだ、何かが変わることを。

 一度、自室の本棚を倒したことがあった。粗暴な音と共にCDや本は散乱した。部屋中にある全てを手に取り、壁に投げつけた。破壊衝動に取りつかれたようだった。
 現実を、僕自身を壊したかった。
 奇声を発していたかもしれない、黙って着々と任務を遂行したかもしれない。それは今、覚えてない。

 母が、ドア越しに二度僕の名前を呼んだ。一度静まった気持ちは部屋に静寂をもたらした。その後、僕は再び投げつけた、物を。
 壁越しにあった、普段、下着やスウェットを収めている衣装棚を元に戻し、その上に座った。

 前を見つめた。壁を、世界を。何かを征服したようだった。気持ちは落ち着いていた。清明な気分になったのは久しぶりだと感じた。
 どれだけの時間が経過したかは分からない。探る様な父の声が聞こえた。彼もまず、僕の名前を呼んだ。久しぶりのことだった。
 ドアは開かれた。散乱している室内を彼は一瞥した。
「大丈夫か?母さん心配してるぞ」
 彼の声は平静だった。それで少し苛立った。

「どうした」
 彼はまるで日常みたいな声で僕に呼び掛けた。
「今話せるか?」
 声を出した。「うう」
「今日、夜話せるか?」
「いや」と僕は言った。
「何をやっているか分かっているのか?」
 僕は彼を見た。 それがおかしくないかのように。
「どうした。何を今やったか分かるか?」
 息を吸い込んだ。

「何がしたいかは、分からない。今は、息して、動く」
「そうか」
 彼は椅子を起こし、座った。
「お前とゆっくり話さなければと、父さん思ってたんだ、」
 彼が自分のことを父さんと呼ぶのを、初めて聞いたような気がした。
「後でのほうがいいか?」
 彼は目を見た。全く知らない誰かの顔だった。
 無言で頷く。何も意味しなかった、少なくとも僕にとっては。
「お前は何がしたいんだ?時間ならこれからいくらでもあるぞ」
 黙っていた。十分、黙ったような気がした。
「オナニーだけだ、」
「俺がやりたいのはそれだけ、」
「飯を食う、目が覚める、考える。考えているんだよ、これでも、」
 頭がくらくらした。 今、現実にいることを僕は信じられなかった。
「オナニーしてるだけだ、」
 再び、そう言った。
「できるのはそれだけなんだよ」

 彼は笑わなかった、深刻な顔をしていた。戸惑いは見せなかった。
 適切な言葉を探しているのかもしれなかった。
「話せてよかった。いつでも父さん、お前と話せるからな。大丈夫だからな」
 彼は言い残し、部屋を出ていった。

 僕は扉を閉めた。何故、こんなにも部屋が散らばっているのか一瞬分からなかった。階下では人間が言い争っている声が聞こえた。
「それは僕のためだろう」
 
 そう思い目を瞑った。
 もう自分も父母もどこかに行ってしまったと僕は感じた。

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