【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「花駕籠街道」
玄関前に停留所がある。そういう旅館だった。
「ごめんください」
声をかけると、女将と思われる顔立ちの整った女性が顔を出し、
「これはどうも、坂木様でいらっしゃいますね」
といって、坂木道夫をなかへと引きずり込んだ。
――いつまでもそこにいてはいけない。
そういわんばかりの強引さに戸惑いを覚えたが、人里離れた場所には、特有の無遠慮な善意があるとも聞く。
ここもそういう土地なのだろう、と思うことにした。
「私からの説明は以上になります。ご検討のうえで後日お返事をいただければと思います」
用件を済ませた坂木が「私はこれで」といいかけたとき、女将はすかさず引き留めた。
「今晩は泊まっていってくださいね」
「ですが……」
断ろうとする坂木を細い目で見つめ、「お代は結構ですので」といって女将は微笑んだ。
本部からは日帰りを命じられていたが、断れるような空気でもない。命令違反はいつものことだと開き直り、坂木は女将の厚意に甘えることにした。
通されたのは、玄関の真上にある、街道に面した部屋だった。
休前日にもかかわらず宿泊者は坂木しかいない様子で、静まり返った階下の気配が、どうにも不気味に感じられる。
なんの気なしに外を眺めると、旅館の前にある停留所が目に留まった。
よく見ると、停留所の隣には小さな祠がある。軒先からは、細く白いものがはみ出しており、上から見ているだけでは、それがなんなのかわからない。じっと見つめていると、祠のなかから誰かが手招きしているかのような錯覚に襲われた。
「ここはなにもないところですので……」去り際の女将の言葉が思い出される。「どうぞお部屋のなかでおくつろぎください」
遠回しに部屋から出るなといわれているようで、一度意識してしまうと、外の様子が気になって仕方ない。階下に女将の気配がないことを確認した坂木は、外履きをつっかけ、停留所の隣にある祠へと向かう。
「なんだよ、脅かすなよ……」
坂木の部屋から見えていた白いものは、供物を載せるための器だった。人の手に見えた部分が単なる持ち手だとわかり、坂木はほっとした気分になった。
そのまま部屋へ戻ろうとした坂木だったが、ふと思い立ち、明日のために帰りのバスの時間を確かめておくことにした。
「一日に三本か……」
覚悟はしていたが、やはり本数は少ない。
落胆した坂木が発車時刻に指を這わせていると、触れる指先に違和感があった。
「ん?」
時刻表の下に、もう一枚、別の紙があるような気がする。
そっと剥がしてみると、時刻表の下に黄色く変色した古い紙が現れた。紙には時刻を表すと思われる漢数字が三段に渡って記されている。
昔の時刻表なのだろうか。それにしてはなにかがおかしい。なにがおかしいのか考えて、気づいた瞬間にはっとした。書かれていたのは深夜の時刻だった。
気にならないといえば嘘になる。とはいえ、所詮は過去の時刻表。バスが来るのを期待するのは間違っているが、それでも確かめてみないことにはどうにも気持ちが悪い。夕飯と風呂を手早く済ませた坂木は、時刻表の時間がやってくるまで仮眠を取ることにした。
るるるるる。
携帯のアラームで目覚めたとき、窓から入り込む冷気によって、身体はすっかり固くなっていた。
まもなく一段目に記された時間がやってくる。
坂木は窓のそばへと忍び寄り、外の様子を窺った。
街灯に照らされる停留所に人の姿はない。
そのとき、窓の外で小枝を折るような音がした。断続的に聞こえるその音は、徐々にこちらへと近づいてきている。
視界の端で奇妙なものが動いた。
駕籠だ。前後の運び手が人力で乗客を担ぎ上げる、もはや時代劇でしか見ることのない旧時代の移動手段。それが、滑るように停留所へと向かっている。
担ぎ手の姿は見えない。あたかも宙に浮いているかのようなそれは、停留所の前でぴたりと動きを止めた。
その様子をじっと見つめていた坂木は、やがて姿を現した駕籠の乗客を見て言葉を失った。
駕籠のなかから現れたのは、全身を花で装飾した人型の化け物だった。
化け物は祠の前の器になにかを置くと、再び駕籠に乗って去っていった。
来た道を引き返す駕籠を見送った坂木は、急いで部屋を飛び出し、祠の前へと駆け寄った。供物のつもりなのだろうが、化け物がなにを置いたのか気になったのだ。
供物は虹色に輝く花形の石だった。
天然ではありえない形状でありながら、人の手で加工が施された形跡もない。月の光を反射して虹色に見えるその石は、坂木の目にはたまらなく魅力的に映った。
供物を盗むのは極めて背徳的な行為だが、坂木は石の魅力に抗うことができなかった。
石を懐に隠し、坂木は逃げるように部屋へと戻る。誰にも見咎められることなく、部屋のなかでうっとりしながら石を眺めていると、瞬く間に時間が過ぎ去った。
気がつけば、時刻表の二段目に記された時間が迫っていた。
小枝を折るような音で我に返った坂木は、前回と同じように外の様子を窺った。
駕籠に乗って再び現れた化け物は、祠の前の石がなくなっていることに気づくと、子を奪われた親のように取り乱した。祠や停留所の周囲をぐるぐると回り、必死になって石を探している。
三十分はそうしていただろうか。その場のどこにも石がないことを悟ると、最後には新たなる石を祠の前に置いて、化け物は駕籠に乗って去っていった。
引き返す駕籠を窓から見送った坂木は、二個目の石を盗むために部屋を出る。
その夜、坂木は、三度現れた化け物からすべての供物を奪い取り、最上の幸福に包まれながら朝を迎えた。
朝食を食べているあいだ女将が妙な視線を向けてきたが、坂木は気にも留めなかった。
――文句があるなら、取り返しに来やがれ。
心のなかでそう呟き、出された朝食を完食して坂木は旅館をあとにした。
停留所でバスを待っていると、風の音に混じって覚えのある音が聞こえてきた。
空耳だ。そんなはずがない。
断続的に聞こえる、小枝を折るような音。
懐のなかの石が重みを増したように感じられた。
真っ昼間にあれが来るはずがない。
視界の端に動くものが映ったとき、バスが来たのだと思い坂木はそちらに顔を向けた。
心臓が止まりそうになった。
駕籠。いるはずのない駕籠がそこにいる。
取り乱した坂木は、とっさに停留所の裏に身を隠した。
懐からぼろぼろと零れ落ちる供物の石。
停留所の裏面に恐ろしいものを見て、坂木は絶句する。
裏面の時刻表には、休日ダイヤが書かれていた。
(了)