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【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「五右衛門風呂」

 カーラジオが臨時ニュースを伝えている。殺人教唆の疑いで会社員が逮捕されたとのことだった。
『――も発見されており、警視庁は余罪や詳しい動機について調べを進めています』
 逮捕された人物の名前が、殺したいほど憎んでいる同僚と同じ名前だったことに興奮して、坂木道夫は思わずアクセルを強く踏み込んでいた。
 その結果、坂木が運転する車は、田舎道のカーブを曲がりきれず、林に突っ込み大破。身動きが取れない状況となってしまった。
 事故の衝撃で携帯電話は壊れ、手元に助けを呼ぶ手段は残っていない。やむを得ず坂木は、電話を求めて民家を探すことにした。
 林道を歩くこと三時間。足を棒にしてようやく発見したのは、周囲を草木に侵食された古い寺だった。
 とても人がいるようには見えないが、念のため声をかけてから敷居をまたぐことにする。
「すみませーん」
 すると、どうだろう。どこからともなく住職が現れ、坂木を寺の奥へと導いた。
「どうぞ、なかへお入りください」
「あの……」
「詳しくは、なかでお聞きします」
 仏に身を捧げた僧侶とはいえ、こんな場所に一人でやってくるような素性のわからない人間を無警戒に招き入れるなどということがあるのだろうか。
 むしろ訪問者である坂木のほうが警戒してしまうほどに住職は無防備だったが、腰を下ろして休みたいという欲求には抗うことができず、促されるまま本堂の隣にある小屋へと足を踏み入れた。
 入り口で「夕飯は?」と聞かれ、まだだと答えると「ではまず、夕飯ですね」と食事を提案された。
 ちゃぶ台の上の奇妙な料理で腹を満たし、食後の茶を飲みながら住職との会話に興じる。
 ここに至ってようやく、坂木はそれまでの出来事を住職に話すことができた。
「それは、大変でしたね」
 話を聞き終えた住職は、手にしていた湯のみ茶碗をテーブルの上に置くと、細い目で、ご安心くださいといった。
「明日になったら電話のあるところまでご案内します。今夜はこちらでお休みになってください」
 ここから一時間ほど歩いたところに、ダムを使用した水力発電の中継施設があるのだという。
 それならば、と住職の厚意に甘えて、寺で一晩を明かすことにした。
「今日はたくさん歩いて疲れたでしょう。湯浴みをして汗を流してきてください」
 風呂場に案内するといわれて、半裸のまま連れていかれたのは、小屋の裏手にある空き地だった。
「あちらです」
 空き地の中央には、山小屋のドラム缶風呂よろしく、吹きさらしの風呂釜が置かれている。
「古い鐘をひっくり返して五右衛門風呂にしているのですよ」
 よく見ると、たしかに風呂釜には紋様のようなものが描かれていた。釣り鐘を逆さまにしたものだといわれれば、そのように見えなくもない。
 五右衛門風呂といえば、鉄の風呂釜に薪をくべて湯を沸かすものを指すが、寺の鐘を風呂釜にしてしまうという話は聞いたことがなかった。
 信仰心のない坂木でさえ不敬ではないかと感じるなかで、当の住職は、その使い方に関して少しも気に留めていない様子だった。
「さあ、どうぞ」
 いつの間に沸かしたのか、五右衛門風呂からは湯気が立ち上っている。
「では、失礼します」
 坂木は五右衛門風呂にゆっくりと身体を沈めた。
 住職が尋ねる。「お湯加減、いかがでしょうか」
 少しぬるいと感じたので正直に伝えると、住職は積み上げられた薪の山から太い塊を一つ手に取った。
「熱ければいってくださいね」
 そういうと、次々とかまどに薪を放り込んでいく。
 じわじわと湯が温められていくなか、薪が爆ぜる音に混じってブツブツとなにかを呟く声が聞こえてきた。
「あの……なにか、おっしゃいました?」
 住職に尋ねたその瞬間。
 ぶぅぉおぉん。
 境内に鐘の音が響き渡った。
 共振なのか、湯に浸かる坂木の身体にまで振動が伝播する。
「あの音……、いったい誰が鐘を叩いているのでしょうか」
 坂木の質問に住職はなにも答えない。
 鐘は鳴り続け、そのたびごとに、かまどに薪が追加されていく。
 まるでなにかの儀式を行っているかのように、住職は黙々と薪をくべ続けた。
「すみません。熱いです。もうやめてください」
 泣きつくような坂木の懇願にも、住職はいっさい反応を示さない。
 すぐにでも湯から上がりたいのだが、どういうわけか坂木の身体は、金縛りに遭ったかのようにいうことを聞かなくなっていた。
 ――もう駄目だ。茹で上がる。
 そう思ったとき、無反応を貫いていた住職がようやく口を開いた。
「先ほどのお話のなかで、あなたは、殺したいほど憎んでいる相手がいる、といいましたよね」
 薄気味悪い風が林の奥から流れてきて、坂木の首筋をさっと撫でた。
「そういう場合、相手のほうも同じように思っているものなのですよ」
 坂木は無意識のうちに「まさか」と呟いていた。
「そのまさかですよ。いまのこの状況は、殺したいほどあなたを憎んでいる人物の、強い怨念が具現化したものです」
 かまどに薪を放り込んでいた住職が、その手を止めて、ぬるりと立ち上がった。
 三白眼から向けられる色のない視線が坂木に突き刺さる。
「あなた……、彼女を警察に売りましたね」
 カーラジオが告げる臨時ニュース。逮捕された会社員の名前が思い浮かぶ。
 彼女は坂木の同僚であり、許されざる犯罪者でもあった。殺人教唆の証拠を偶然にも入手した坂木は、その証拠を警察に提出。その結果、彼女は逮捕されることになった。
「怨念に波があるとしたら……。そのピークがいつになるか、わかりますか?」
 住職は坂木の返答を待たずに続ける。
「明確な殺意を伴った憎悪。それが発露した瞬間が、最も強い、怨念のピークです。彼女の場合、逮捕されて、あなたの裏切りを確信した瞬間が怨念のピークでした」
 膨れ上がった憎悪は、怨念へと形を変え、坂木のもとへと忍び寄ってきた。住職の話が本当であれば、昼間の事故の時点ですでに、怨念の具現化は始まっていたことになる。
「鐘の音を聞いて、殺意の代行者である免獣ウロコ・オイルが目覚めました。まもなく、ダムの底から這い上がってきて、あなたを喰らい尽くすことでしょう」
 最後の言葉を告げると、住職は景色に溶け込むようにして林のなかへと消えていった。
 朦朧とする意識のなかで、坂木は考える。
 怨念からは逃れることができない。
 だが、同じように怨念を具現化することができれば、相手と対等な土俵に立つことができるのではないだろうか。
 殺意と殺意の戦いであれば、自分にもまだチャンスがあるかもしれない。
 どちらが先に息絶えるか。怨念の深さが勝敗を決める。
 ――絶対に許さない。
 熱湯で満ちた五右衛門風呂のなかで、殺意を伴った憎悪が、いま発露する。

(了)