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凪良ゆう「汝、星のごとく」

『わたしは愛する男のために人生を誤りたい』
 このコピーを読んだ時の第一印象は良い方向に裏切られた。それくらい、本作の主人公・暁海あきみは、ずっとダメな大人の尻拭いで一杯一杯で、自分のことは後回しなのだ。

 You, 君は君の人生を生きちゃいなよ。と、言ってあげたくなる。

 暁海の人生で一番大切な男になるかいもまた、母一人子一人。しかも情緒面でも後には経済面でも、むしろ息子の櫂のほうが親のように甲斐甲斐しく面倒を見る。

 途中、私は、暁海の両親と櫂の母親に対して猛烈に怒りを覚えイライラした。そして、その怒りの理由にも気づいた。

 私の母は「ASD」だ。”Autism Spectrum Disorder (Disability)” 日本語では「自閉スペクトラム症」。昔は、まだ発達障害という概念はあまりなかったし、困った親を持つ子どもあるあるだと思うが、私も暁海や櫂ほどではないにせよ、まあまあ大人に頼られるしっかりした子だったから、自分の母はちょっと変なところがあるなと思いながらも、離れるとか見放すとかいう発想はなかった。
 そして、私も暁海と同じく東京の大学に進学したかったが、叶わなかった。違いと言えば、暁海には経済的スポンサーはいたが、私にはいなかったことだけだ。彼女は経済的に頼れる相手はいたが、メンタル的に限界な母を一人にできないと地元に残った。私は「そんな金はない」と父に通帳を見せられ、涙を呑んで現実を受け入れ、実家から通える国公立大学に進んだ。

 私はその地方で一、二を争う進学校にいたし、同学年内での成績も悪くなかったから、地元に残ると言ったら多くの同級生に驚かれた。「もっと良い大学行けるでしょ?」と。同級生は医者や銀行員、公務員、地元有名企業の社長の子供が多く、私みたいに経済的理由で進学先が制限されるケースはあんまりなかったと思う。

 自分の努力だけではどうにもならないことがあるという社会の現実を、私はその時に思い知らされた。

 世の中には、もっと苦労してる人もたくさんいるだろう。だから、わざわざ人様に言うようなことでは無いと、これまでずっと黙ってきた。

 大学生の頃には、母との軋轢は耐え難いものになっていた。別に虐待されていた訳ではないし、「良い母」として子どもを愛してくれてはいたと思う。ただ、人として一人前ではなかっただけだ(こういう言い方に、ASDご本人の方がお気を悪くされたら大変申し訳ありませんが、適切な治療や療育を受けずに野放しになっていたケースを端的に表現する意図であり、決して差別したりdisったりする意図はありません)。その必然的な帰結として、彼女はいわば「毒親」となり、私が就職で地元を離れると言ったら、寂しいとか家にお金を入れて欲しかったのにと、あくまで彼女の都合で私を引き留めたがった。病気にすらなった。(のちに、スーザン・フォワード「毒になる親」を読んだ時は、我が意を得たりと思った。私がその本を読んだのは二十年前で当時はまだ「毒親」という概念はそれほど世間に浸透してはいなかった)その執念が怖かったが、心を鬼にして上京を諦めなかったことは、人生最高の選択のひとつだったと今でも思う。

 今も薄情もの呼ばわりされるし金を無心される。それを当たり前のように言う彼女に苛つきはする。「それが娘の義務だと言うなら、あなたは自分の母親に同じことをしたのか」と言いたくなる。認知症になって入院した自分の親を一人では見舞いに行くことすらできない。たぶん怖かったのだと思う。その彼女の姿は、『汝、星のごとく』の櫂の母親にダブる。息子に精神的にも経済的にも依存した挙句、病を患った息子を見舞いにすら行けない櫂の母は、私の母と同じだ。

 自分はやりもしないこと・できもしないことを他人には当然のように要求する。神経を疑うが、仕方ない。人間にはそれぞれキャパというものがあるのだと、今は諦めている。

 こんな風に自分自身の過去を思い出してムカムカするくらい、この小説に登場する親たちの弱さはリアルだ。この本を読まなければ、私がnoteに不完全な自分の母への複雑な思いを吐き出したりなどしなかっただろう。

 田舎の小さな町では白眼視されるようになった暁海に私は言ってあげたい。

 あなたは人生を誤ってなどいない、と。
 むしろ、愛する男の人生最後の時間を共にすると決断し、実行した勇気を称えたい。

 この小説に描かれた男女の関係は、どれも正しいんだか正しくないんだか微妙である。そのことは、恋愛に対する著者の懐の深さを感じさせ、作品としては魅力になっている。そもそも、正しい恋愛って、正しい人生って何なんだ。暁海をさんざん苦しめてきたのは、「これが正しい女の生き方」という思考停止した固定観念ではないのか。

 この作品にはひとつだけ残念な点がある。ある意味、作品そのものの欠点ではなく、今の日本の現実をうつしているだけなのだが、暁海の経済力の弱さだ。暁海は、大学進学時の費用を実父とその愛人に。実母がこさえた借金の穴埋めを櫂に、それぞれ頼る。頼らざるを得ない暁海の弱さが悲しい。だが同時に、言ったらスンナリ通ってしまうある意味恵まれた環境は、経済的に頼れる相手がいなかった私には羨ましくもある。(小説的には、その点、暁海の父の愛人である瞳子さんが、経済的にも自立していて、不倫だからと言って必要以上に攻撃的にもならず卑屈にもならない、理想的な女性像として描かれている)

 学校の教師と結婚することで、「先生の奥さん」として確固とした地位を得、結婚式で纏った自作のヴェールが評判となりキャリアも拓ける。このことが、社会に出るパスポートとして既婚者である必要があった中世近世ヨーロッパの女性のような苦しさを惹起させる。

 私は、経済的に他人に生殺与奪を委ねるのが怖くて仕方ない。だから地元で一番の大学に進み、堅い職業につき、しぶとく働いている。というか就職する時点で「生涯働ける会社」であることを念頭に置いて会社を選んでいる。この執着は、大学進学で自分の夢をあきらめざるを得なかった挫折から来ているんだろうと思う。自覚はしている。その執着や必死さのお蔭で会社で評価されたのかもしれない。仕事で外国にまで行くようになった。世の中を見渡せば、私より遥かに成功してるキャリアウーマンはたくさんいると思うが、親の学歴や職業を考えると、自力で掴めるキャリア上の成功は、まあまあ掴めたほうだと思う。大病も離婚も経験したけれど(今の旦那は二人目)その時可能な限り、自分が後悔しないと思える選択を自ら行ってきたからこそ自分の人生を悪くないと思える。

 作中、漫画家として大成功していく櫂と、地元でいわゆるOLをしている暁海の会話が次第に噛み合わなくなり、暁海から別れを切り出すシーンにはひりついた。どっちかと言うと、私は櫂側だったのだが。当時の夫が、こういう気分だったのかなと思うと、仕方のないことだったんだけど、申し訳なくはなる。

 好きだから追いかける、好きだから一緒にいるというのだけが恋ではないと思う。必ずしも、長さが恋の尊さと比例するものでもない。

 ただ暁海が、与えられた環境の中で彼女的に納得できる決断をしたことには救われた思いになる。もし仮に、愛人を作っても、次の夫を作っても、一生櫂の思い出を抱いていくにしても。

 繰り返し言う。
 暁海、あなたは人生を誤ってなどいない。


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