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【時を重ねる江戸のまち】飯田橋駅周辺の景観形成史

序論
 JR飯田橋駅を西口から出ると興味深い光景が広がっている。早稲田通りを石垣が挟み込んでおり、その眼下ではJR中央本線が堀に沿って走っているのである(写真1)。また、牛込橋上で駅の方を振り返ると、今度は黒色でモダンなデザインの飯田橋駅舎と、背景に佇む2棟のビルが存在感を放つ(写真2)。これらの光景は果たしてどのような経緯を経て完成したのだろうか。本稿では、飯田橋駅周辺に広がるこの光景を出発点とし、当地域の都市景観がいかに形成されてきたかを整理・考察する。

【写真1】飯田橋駅西口から望む牛込見附跡とJRの線路, 牛込濠(筆者撮影) (備考:本稿に用いる筆者撮影の写真は全て2024年1月18日に撮影したものである)
【写真2】飯田橋駅西口駅舎と飯田橋セントラルプラザ(左), 飯田橋プラーナ(右)(筆者撮影)


1. 江戸期 〜外濠の完成と見附の設置〜

 現在の飯田橋駅周辺の都市景観がいかに形成されたかを説明するにはまず、江戸時代初期に行われた河川工事について触れなければならない。江戸には古くから平川と呼ばれる川があり(現在は残っていない)、家康入府以前の時代、太田道灌によってその流路は「現在の一橋付近から神田橋−常盤橋−日本橋−谷田川河口の線」(『江戸の川・東京の川』, p.94)へとつけかえられていた。すなわち平川は神田山のすぐ南を通りながら東南への常盤橋方面へと流れていたのだが、徳川幕府の治世に入るとこの平川下流の流路は元和年間(1615-24年)の工事で再度新しくつけかえられることとなった。洪水を防ぐ目的で行われたこの工事は、神田山の南端を切り崩して御茶ノ水に人工の堀割りを作り、平川の水を神田川経由で直接隅田川に流すというもので、この際に平川の三崎橋から堀留橋間も埋め立てられた。これにより、かつて南東に向かって(=江戸城に近づきながら)流れていた平川は、江戸城の北を東西に(隅田川に向かって)流れる外側の流路(=神田川)と、江戸城のすぐ周りを取り囲む内側の流路に切り離された(図1)。平川沿いに存在していたかつての外濠は内濠となり、神田川が江戸城の外濠となったのである(『歴史細見 東京江戸案内』, p.238)。なお、この時に成立した内濠・外濠が、現在にも引き継がれている江戸城(皇居)の内濠・外濠である。

【図1】平川のつけかえ(上段:工事前, 下段:工事後) (鈴木理生『江戸の川・東京の川』より)

 この河川工事を経て、現在の〈四ツ谷−市ヶ谷−飯田橋−水道橋−御茶ノ水〉にあたる地域は江戸城の外濠として結合された。水運が主な運送の手段だった江戸時代、神田川・外濠は運河として重要な役割を果たした。現在の飯田橋駅北側には新宿区揚場町という地名が残っているが、これはかつてこの場所に飯田濠(現在の牛込橋以東の外濠の名称)に面した荷揚げ場があったことに由来する。また、外濠となったこれらの地域は、江戸城を防衛する役割も与えられ、各所に見附(番兵が見張りを行う城門)が置かれた。例えば、牛込(現在の飯田橋西口付近)には牛込見附が、四谷には四谷見附が置かれ、現在もそれらの遺構が残っている。飯田橋西口に出てすぐ視界に入る石垣はまさしくその牛込見附(牛込門)の遺構(写真1)である。牛込見附(牛込門)は四角形型の空間を作るように二重の門を配した枡形門(写真3)で、現在では遺構として東西の石垣が残されているほか、かつての枡形門の位置が道路上の舗装で表現されている。

【写真3】旧江戸城写真帖 第六十一図 牛込見附図 (東京国立博物館蔵, 横山松三郎 1871年撮影)


2. 明治期 〜甲武鉄道の開通〜

 江戸時代、現在の飯田橋駅周辺には主に旗本などの武家地が広がっていたが、江戸幕府が滅び明治政府が興ると武家地は廃墟に変わった。その武家屋敷の跡地を新たな方法で活用したのが榎本武揚である。明治の始め、榎本武揚はこの地域に北辰社牧場を開場、最盛期には40~50頭の乳牛を飼育していたという(「北辰社牧場跡」石碑;写真4)。北辰社牧場がいつこの世から姿を消したのかは定かではないが、地理院地図を参照する限り1900年前後にはすでにこの地は複数の学校を含む市街地に変わっていたようである。
 明治日本の近代化に伴い、鉄道技術も発達した。1895年、八王子から走る甲武鉄道が飯田町まで延伸される。甲武鉄道は八王子を中心とする多摩地域と新宿とを結ぶ路線として計画・建設された私設鉄道で、現在のJR中央本線の前身に当たる。この頃にはまだ飯田橋駅という駅はなく、現在の飯田橋三丁目あたりに飯田町駅が、牛込見附のそばに牛込駅が置かれていた(図2)。のち1906年の鉄道国有法で甲武鉄道の路線は国有となり、路線名も1911年に中央本線となる。1928年には牛込駅と飯田町駅が統合し、中間地点に飯田橋駅が開業した。現在にも続く「中央本線飯田橋駅」はこの時に誕生したことになる。

【写真4】「北辰社牧場跡」石碑 (筆者撮影)
【図2】 左:飯田町駅・牛込駅(1986~1909年頃) 右:現在の当該地域 (「今昔マップ on the web」より作成)

 地図を見ればわかるように、旧甲武鉄道および現中央本線は外濠に沿って走っているが、これは偶然ではない。前節で述べた平川のつけかえの際、御茶ノ水の堀割り工事で出た土を利用して、神田川の南岸には土手が作られていた。現在の中央本線の線路はその土手の一部を削り取った面上に敷かれている。江戸時代の土木工事で生まれた土手は、明治期以降に鉄道の線路敷となったのである。外濠を生み出した平川のつけかえなしには、この地域での鉄道の開業はありえなかっただろう。


3. 昭和期 〜飯田町駅の盛衰〜

 昭和期の地理院地図(図3)を見ると、飯田町駅の名は飯田橋駅の開業後も残っている。飯田町駅が貨物専用の駅として機能し続けていたからである。特に重要な貨物は紙だった。1972年には製紙メーカー8社と国鉄及び通運業者との共同出資で飯田町紙流通センターが誕生する。駅と一体化したこの流通施設は2階に線路を引き込む構造になっており、「16工場において積荷された貨車(パワム〔15t車〕)を20輔に編成して, 7~8列車が毎日到着」していた。この地域に紙の流通施設を設けることには、「大口消費の需要家である新聞社,出版社,大手印刷所との至近距離に立地しているので,極めて効果的な輸送ができる」(以上、長船 1974)という利点があった。飯田町駅が紙流通の拠点となったことで周辺へのビジネスの集積も進んだ。交通事情としては1974年に営団地下鉄有楽町線の、1996年に営団地下鉄南北線の飯田橋駅がそれぞれ開業している(なお、残りの地下鉄2路線の飯田橋駅は営団東西線が1964年、都営大江戸線が2000年の開業である)。

【図3】 左:飯田町駅・飯田橋駅(1975~1978年頃) 右:現在の当該地域 (「今昔マップ on the web」より作成)

 1984年には飯田橋駅直結の『飯田橋セントラルプラザ』がオープンするが、この際、飯田濠の大部分が埋め立てられ暗渠化された。現在、牛込橋とセントラルプラザの間には飯田濠跡としてその一部が残されているほか、セントラルプラザの北西に隣接する緑地には複数の橋(写真5)が架けられており、かつてこの場所に飯田濠が存在した名残を感じさせる。
 こうして飯田橋駅周辺の土地利用が進展した一方で、飯田町の紙流通センターは輸送手段の変化といった社会環境を受け次第に縮小、飯田町駅自体も1999年に廃止されることとなった。

【写真5】飯田橋セントラルプラザに隣接する緑地(筆者撮影) (暗渠化された飯田濠の真上にあたる)

 

4. 平成期以降 〜再開発とこれから〜
 飯田町駅の廃止後、紙流通センターの跡地は再開発を経てオフィスや商業施設の入った「アイガーデンエア」へと変貌した。現在でも街路にはレールが埋め込まれた場所(写真6)があり、いまはなき甲武鉄道の面影を残している。
 21世紀に入ると飯田橋駅南側の再開発も加速した。2009年には千代田区富士見に複合開発地「飯田橋プラーノ」が竣工、2014年には牛込濠沿いのエリアに「飯田橋サクラパーク」が誕生するなど、商業施設やオフィス、住居の整備が進んだ。また、2020年にはJR線にて新ホーム(従来のホームより200mほど西側に移動)の使用が開始されたほか、牛込橋前の西口駅舎がリニューアルを終えた(写真2)。

【写真6】甲武鉄道のレール跡(筆者撮影)

 しかし、特定地区における再開発・再整備の進行が地域の一体性の創出にとって有益であるとは限らない。特に、飯田橋駅周辺の地域は千代田区・新宿区・文京区の区境に位置しているが、各区が独自に計画を進めても全体のまちづくりは望ましいものにならない。こうした課題を解決するべく、東京都は2023年2月に飯田橋駅周辺基盤整備方針(案)を策定、飯田橋駅周辺の現状やまちづくりの目標を取りまとめている。これによれば「東京都と関係3区は、国土交通省、JR東日本、東京メトロ及び東京都交通局とともに」当地域のまちづくりの検討を進めている(飯田橋駅周辺基盤整備方針(案):図4)。今後、関係各所の連携により理想的ななまちづくりが進んでいくことが期待される。

【図4】飯田橋駅周辺基盤整備方針(案), p.2


5. 総括 

 飯田橋駅周辺では、江戸期に築かれた地形的基盤の上に線路や駅が作られ、それらは時代とともに名称や性格を変えつつも今日に通ずる時間的連続性を有している。また土地利用の変化のなかで、飯田濠の埋め立てや飯田町駅跡の再開発を経ながらも、歴史的構造物は飯田濠跡や甲武鉄道線路跡としてその一部を保存されている。このように、地域の歴史的な特徴や遺産を尊重しながら、現代のニーズにも応える形での土地利用や再開発が行われていることは注目に値する。
 現在の飯田橋駅周辺は多様な変遷を経ながらも時間的な連続性を有しており、その過程が現在の都市景観の形成に多分に寄与している。今後の都市計画にも、歴史の重層性を尊重し深化させるようなまちづくりを期待したい。

参考文献
・JR東日本旅客鉄道株式会社飯田橋駅前・駅構内説明版(参照日2024,1,18)
・佐藤 正広(1989)明治20年代における鉄道網形成の諸要因−甲武鉄道の出願をめぐって.社会経済史学 = Socio-economic history / 社会経済史学会 編,54(5):p615~643 
・佐藤 正広(1991)甲武鉄道の開通.国分寺市史編さん委員会編「国分寺市史」下巻(1991年, 国分寺市)所収 第8章 
・古澤 誠一郎(2021)飯田橋駅130年の歴史を歩く~江戸もバブルも感じる多層的な歴史の街~.さんたつ 散歩の達人 
・国土交通省(2012a)鉄道主要年表(,1,17)  
 https://www.mlit.go.jp/common/000227427.pdf(参照日2024,1,17) 
・国土交通省(2012b)日本鉄道史(,1,17) https://www.mlit.go.jp/common/000218983.pdf(参照日2024,1,17) 
・小佐野 景寿(2020)「飯田橋駅」ホーム移設、急カーブ消え危険解消 カーブだけでなく実は急勾配の緩和工事も(,1,18) https://toyokeizai.net/articles/-/362441(参照日2024,1,18) 
・東京メトロメトロアーカイブアルバム(,1,18) https://metroarchive.jp/(参照日2024,1,18) 
・東京都交通局都営大江戸線全線開業20周年 | PROJECT TOEI(,1,18)  https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/project-toei/oedo20th/(参照日2024,1,18) 
・東京都歴史教育研究会(2005)東京都の歴史散歩. 上(下町).
・山川出版社 東京都都市整備局都市づくり政策部広域調整課(2019)東京の都市づくりのあゆみ.
・東京都都市整備局都市づくり政策部広域調整課 東京都飯田橋駅周辺基盤整備方針検討会(2023) 飯田橋駅周辺 基盤整備方針 (案)(,1,18) https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2023/02/07/documents/04.pdf(参照日2024,1,18) 
・桜井 正信(1979)東京江戸案内 : 歴史細見.八坂書房 
・桜井 正信(1980)東京江戸今と昔 : 歴史細見.八坂書房 
・鈴木 理生(1989)江戸の川・東京の川.井上書院 
・長船 寛(1974)紙・板紙の流通機構 問題点と動向.紙パ技協誌 = Japan TAPPI journal,28(8) :339-344 
・飯田橋商店街振興組合 北辰社牧場跡碑(参照日2024,1,18)
・不動産情報サイトアットホーム(2023)【最新】飯田橋の再開発情報まとめ!飯田橋駅周辺で進むまちづくりとは(,1,18) https://www.athome.co.jp/town-library/article/122982/(参照日2024,1,18) 

その他参照先
・時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二) https://ktgis.net/kjmapw/ 


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