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「悪は存在しない」考察! バランサー(父親)としての罪と自然(あの世の妻)が下す罰! 自然の中立性が人の自意識を映し出す!

 こんにちは! 今回は、濱口竜介監督作品「悪は存在しない」について話していきたい。ベネチア国際映画祭で賞取ったという事で、アート寄りの映画だと想像していたのだが、普通に話しとしても面白かった。他に人の感想も見てみたのだが、ほとんどの人がラストに起こるある出来事について話している印象だ。だからこそ今回は、僕もあえてそのラストの解釈についてを話していきたい。なぜならラストの解釈を考える事で、タイトルの意味や、映画全体としての解釈にも繋がっていくからだ。それでは初めていこう。

長野県、水挽町。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

 あらすじにもあるように、今作のストーリーとしては、自然を尊重し、維持しようと考えている水挽町の住人と、その町にグランピング計画(変化)を持ち込もうとした芸能事務所の面々、そして、その2つの間でバランスをとろうとする巧(主人公)の物語である。

 そして、その問題のラストに起きた出来事について先に説明してしまうと、芸能事務所の高橋と黛が、巧に計画への協力を申し込み、対話を試みる中、巧の娘の花が行方不明になる。町民総出で花を探す中、巧と高橋は、銃で撃たれた手負いの鹿と対峙している花を見つける。そこで花を助けようとする高橋に対し、急に巧は高橋の首を締め気絶させる。

 巧のこの行動は、作品内でその動機が説明される事もなく、多様な解釈が出来るため、観た人達のなかで話題になり議論が起こった。

 一応の主流の解釈としては、高橋達が持ち込んだグランピング計画により、今まで巧を始めとした水挽町の人々が保ってきた自然のバランスが崩れ、その結果、ある種の罰として自然(鹿)が花を連れ去ろうとした。だから、巧はバランスを崩した原因の1人である高橋を排除する事で、崩れたバランスを戻そうとした(花は連れ去られる事を防いだ)という解釈がある。

 他にも珍しい解釈としては、巧は子育てに疲れ、花の事を疎ましく思っており、そういった気持から、ほとんど衝動的に、花を助けようとした高橋を絞め落とした(花の救出を阻止した)などの説もあった。他にも様々な解釈があり、要はそれだけ多様な見方が出来るシーンという事だ。

 では、ここからは僕の解釈を話そう。そのためには、まず最初に今作のタイトルである「悪は存在しない」という言葉の意味について考えたい。僕の考えでは、「悪は存在しない」とは、1つは「自然」のことを意味しているのだと思う。自然というのは、人間を助けてくれる事もあるが、災害などで命を奪う事もある。しかし当然ながら、自然そのものは人を苦しめてやろうとか、そういった悪意(意思)があるわけではない。自然とは「現象」であり、「法則」であり、それそのものは善でも悪でもなく、ただの中立である。そこに悪は存在しない。だからこそ、それをみる人間の解釈(内面)が鏡のように反射され映し出されるのだ。

 花の前に現れた手負いの鹿は、人間に侵食された自然の象徴だと考える。鹿(自然)はあの時、それを見た者達の内面を映し出したのだ。まず、高橋であるが、高橋はもともと自然に対する信仰心や畏怖の心を持っていない。だから、単純に野生の鹿が花を襲おうとしているように見えた。次に花だが、花は未だに亡くなってしまったであろう母の喪失を受け入れられず母の影(楽器に使う羽)を追っている。つまり花の内面にあるのは、母を求める気持ちだ。だから花には鹿(自然が)あの世の母親に見えていた。だからこそ鹿を恐れず帽子を脱ぎ、受け入れるような動作をみせた。

 そして巧の内面にあったのは、公的なバランサーとしての迷いと私的な父親としての負い目である。巧は、今まであの町のバランサーとして、人間と自然の均衡を保ってきた。しかし、高橋達の登場により、巧は高橋達の計画内容や言い分も聞きながら、水源を汚さない事や鹿の生息地を守る事なども考え、自然とのパランスをとろうとする。しかし、巧には自分が正しい事をしているかがわからず葛藤している。自分でもわからないうちに、高橋達を町に招きいれた事で、自然のバランスを崩してしまったかもしれないという不安感が巧の内面にはあり、そのことから、巧にはあの鹿(自然)が、均衡を崩してしまった自分たちへの罰として、花を連れ去りに来ているように見えたのだと考えられる。

 そして、もう一つ巧の内面にあったのは、父親としての負い目である。花同様、巧も亡くなった妻の喪失を受け入れられておらず、そのせいで、自分の娘である花としっかり向き合えていない。実際、花の迎えの時間を頻繁に忘れたりと、明らかに巧は、父親としての欠落がある。そして本人もその事を自覚し、負い目に感じている気持ちがあったからこそ、あの鹿が、人に罰を与えに来た自然であると同時に、花と向き合えていない自分に対する罰として、あの世から花を連れ去りにきた奥さんにも見えていたのだと考えられる。 要はあの世の奥さんが、夫の育児放棄にキレているような状況だ。

(実際、人間が何か自然的なタブーを犯した時、あの世とこの世のバランスが崩れ、あの世の存在が現世に現れるという話は日本の民話や神話などでよくあるらしく、そういった文脈で巧の亡くなった妻が鹿の姿をして現れたという解釈をしている人もいた)

 これは、あくまで巧にはそう見えているというだけである。実際は、自然の怒りでもあの世の妻でもなく、ただ単に野生の鹿が花を襲おうとしているだけかもしれない。ここでは巧の自意識が自然に反射され映し出されたのだ。

 そして、なぜ巧が高橋の首を締めたかであるが、先程いったように、巧は町のバランサーとして、高橋達を招き入れたことにより、その均衡が崩れてしまった事に責任を感じている。さらに、父親としても自分の娘に向き合えず、欠落した父親である事に負い目を感じている。この2つの罪悪感から、巧はバランサー(父親)として自然(あの世の奥さん)から罰を与えられ、それを受け入れるべきだと思っている。だからこそ、自分が受け入れるべき罰を高橋に邪魔されないために巧は高橋の首を締め気絶させたのだ。その罰で花を失うことになろうと、巧は受け入れようとしたのだ。バランスが崩れれば、どこかでその代償を払わされる。それは自然も家族関係も同じだ。巧はそれがわかっていたから、自分への罰を、バランサーとして、父親として受け入れようとしてのではないか。これが僕の解釈である。

 とはいえ、そのあと巧は倒れた花を抱え走っていく、これは花を助けようとしている行動にも見えるし、父親として花を思う気持ちはのこっているように見える。罰を受け入れる気持ちも巧の本心なら、花を失いたくない気持ちもまた本心なのだ。

 僕の感想はここまでだが、最後に少し気になるのが、そもそも自然のバランスが崩れた原因は高橋達の計画のせいなのかは疑問が残る。実際にグランピングが始まってから自然のバランスが崩れるのならわかるが、まだ計画を話している段階でそこまで自然の怒りを買うのだろうか? 実は高橋達は関係なく、水挽町の人々の行いが限界にきてバランスが崩れてしまったのかもしれないし(映画内で水挽町人々も生活する上で、少しではあるが自然を汚してしまっている描写が何度かある)、花が羽を探す途中で、人が踏み入れてはいけない自然の聖域を犯してしまったのかもしれない。この辺も含めて色々考える所が多い作品で楽しかった。ではまた!

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