見出し画像

母の旅立ち、私の見送りへの道 1月編⑧ 1/27 後編(病院で検査を受けて失意の帰宅まで) 第12回/全35回

この記事は母が旅立つまでの道のり、私が母を見送るまでの道のりを綴ったものです。

今回は頭部MRI検査の為にH病院へ行った時の出来事を紹介。いくら紹介されたとはいえ、初見の患者なんかこの程度の扱いだよ…というのを肌で感じた日。まあ対応そのものよりも診断結果を受けてのショックの大きさと家に帰るまでが大変だった…。



1月27日 後編【病院で検査を受けて失意の帰宅まで】


【頭部MRI検査を受ける為に訪れたH病院内での詳細】

【受付と検査を受けるまで】

受付の事務処理が進む間、車いすに座った状態が母には辛すぎて待合室の長椅子の上で横たわる事になる

現れたH病院の担当看護師(看護師と思われる女性?)にストレッチャーでの移動をお願いするが、かなりの塩対応。

「そんな状態(起き上がれないような状態)でどうやって検査するの?」

とストレートに言われ、まるで忙しいんだから帰れと言わんばかりの対応をして頂く。何とか堪えてストレッチャーへの移動をお願いすると、私に対してかなり文句を言いながらも、他の職員を数人を連れてきて3人がかりでストレッチャーへの移動させる。これでようやくMRIの検査場所へ。

MRIの担当技師もかなりの塩対応。
かなりの時間をかけてストレッチャーに乗せた母上の現状と今までの症状を説明する。医師はストレッチャーで横たわった状態にあまり納得が行っていなかった様子だが、上体を起こすと目眩が激しいという事をかなり力説する事で渋々納得してもらえた。

説明の中でここで(H病院で)検査をするようにと言われた訪問医師のI先生の名前も出したが、I先生から連絡がいっているという医師が不在という事で中々話が進まない要は母の検査の一件の話が通っていないという事になる。実際にMRI検査の予約時間は14:50だったが、実際に検査を受け入れてくれたのは15:30を過ぎる。

【MRI検査開始と思いきや…】

MRIの検査場は本来ストレッチャーでは入れない場所らしいが、症状を説明して何とか対応してもらえた。母の検査着への着替えも私が手伝ってようやく検査開始…と思いきや、セレネース(安定剤)を投入している装置(右胸付近に装着、中にバルーンがある)が何の器具か分からないと言われる

訪問医師や訪問看護師の元で取りつけた安定剤であると説明したが、
「ウチでは使わない物なので分からない」
の一点張りで検査を拒否される事に。

ここで検査をするようにと言われた訪問医師(I先生)に確認を取りましょうか?と再度言ってみるも、「器具の素材が何か(金属が入っているかどうか)が分からないと話にならないと」言われてとにかく話が進まない
中に金属があった場合はMRI検査は出来ないと強く言われ、こっち(病院側)で素材を調べるからといって更に30分近く待たされる。
最終的にたぶん金属では無いだろう…という「だろう判断」のまま頭部MRI検査を実施する事になる

【何故か救急センターに運ばれる母上】

頭部MRI検査中、付き添いの私にMRI検査の医師から詳しい症状の説明を求められる。検査前に丁寧に話したつもりだが、先程の話を全くと言っていいほど伝わっていなかったようだ。

改めて母上の現状とこの検査をするに至った経緯を説明するが、今度は何故か結構親身になって話を聞いてくれる。

その後で母のMRI検査そのものは終了したが、終了後に何の説明もなく母は救急センターに運ばれる(勝手に運ばれて私としては意味が分からない)。その運ばれた事だけを伝えられ、私自身はそのまま待つようにと言われる。結局そこから更に30分以上も待たされる事になる。

【脳出血が見つかり、このまま家には帰せない】

しばらくして救急センターの医師に呼び出され、母の現状説明を受ける。
そこで「頭部MRIで脳出血が認められ、このまま帰すわけにはいかない」という通告を受ける

しかもその出血具合は結構大きいらしく、「以前からこの状態だったのか、最近ここまで大きくなったのかの判断が出来ない」と言われ、母が急に救急センターに運ばれた理由をここで初めて知った。H病院としては頭部MRIで脳出血を認めておきながら、そのまま放置するような事は出来ないという判断らしい。そこでH病院から他に入院できる病院を探した様子である。

しかしH病院としては入院を前提としてO病院に連絡(母が以前に診察、入院した病院がO病院だった為)したが、O病院の病床に空きが無いと断られたとの事。ここでようやく私(家族に)に選択権が回ってくる。

医師から提示されたのは「O病院以外に他に入院できる病院を探す事、それかこのまま自宅に帰る事」の二択を提示され、家に帰る事を選択。母もその場にいたがこれに同意してくれた。

【この後に及んでの脳出血の判定は最終通告と同様】

ただ入院できる病院が見つからなかったのと、現状の母の担当医師である訪問医師のI先生の名前を出す事でやっとI先生と連絡を取ったらしい。そこで改めてI先生の方から救急センターの医師に説明があった様子。救急センターの医師もI先生からの母上の状況説明、そして母の治療の意思が無いという事でやっと納得したみたい

救急センターの医師とI先生の電話で話している際には途中で私に替わって頂き、I先生からが「こういう事になっていた(脳出血とその大きさ)とは思わなかった、わざわざH病院まで行ってもらってこんな結果になってすまない」というお言葉も頂いた。

H病院の救急センターの医師も最後は私に「力になれずに申し訳ない…」と深々と頭を下げられたのが忘れられない。

覚悟は出来ていた私自身にとってもこれは最終通告と同様でもあり、流石に動揺を隠せなかった。

【北摂病院から帰宅まで】

16:30 

母の検査が長引いており、もしかしたらO病院に入院させられるかもしれない…と聞かされた時点でケアマネージャーのYさんに介護タクシーの件で相談。家への帰りをH病院周辺で待機してもらっている介護タクシーのSさんに、まずは現状説明として第一報を入れたが「私が一度帰ってしまうと、再び迎えに来ることは難しいです」と言われる。

でもSさんに「もうしばらく待ちますよ」と言ってくれたので、そのまま待って頂くようにお願いしていた。

17:20

救急センターの医師との面談の上で帰宅を決意。
介護タクシーのSさんに連絡して家に帰る事を伝え、改めてH病院に迎えに来てもらうようにお願いする。

母の現状からも帰りは車いすでは無理と判断して、介護タクシーのSさんにはストレッチャーをお願いした。もう遅い時刻で正面入口は閉鎖されているので、ストレッチャーで救急センターの中まで迎えに来てくれて、病院のストレッチャーからの移乗も手伝ってくれた(救急センターの職員の方も丁寧に対応してくれたし、私と母の状況は理解してくれていたのだと思う)。

帰りに病院の事務員の方から請求書の案内と手付金を納付して帰宅の途へ。

17:30 

もう外は真っ暗であり、完全に失意のうちに帰宅の途へ。 でも母上は意外と落ち着いた感じ(H病院内で点滴や安定剤を打ってもらえた様子)で、とりあえずは家に帰ることが出来て私も母もホッとした。

18:20 

ようやく帰宅。
母上をキャタピラー付の車いすに移乗させて6階まで運んでもらう。
介護タクシーのSさんには、長い時間の拘束と母の為に色々なお手伝いをして頂きました…感謝です

18:30

H病院からの帰宅とほぼ同時に、A看護ステーションの看護師さん(Oさん、Tさんのお二人)到着。おそらく訪問医師のI先生の指示だと思うが、さっそく母の診察と症状を見てもらう。

19:00

セレネース(安定剤)のバルーンがしぼんでいるとの事で、Oさんが看護事務所に薬を取りに帰る(最終的にIクリニックの事務所まで薬を取りに行ったらしい)。その間にTさんと少しお話しをする。

色々あり過ぎた一日の中で、Tさんと僅かながらお話しする事で少し気が紛れるありがとうございました。

20:00過ぎにすべての処置が終わる。

20:30
A看護ステーションの看護師さん(Oさん)が再訪。セレネース(安定剤)のバルーンを交換した件でもう一度だけ確認をしたいという事だった。結果として確認しに来て良かった…という結果だったらしい。ひたすら謝っておられたが、こちらとしては完全にお任せの状態だし(何が悪かったのか未だに分かっていない)、確認の為にわざわざ再訪されるとは丁寧な人だなとすら思えた。

21:00

遅い夕食。リンゴゼリー少量とジョアを少量飲む。
その後トラベルミン(酔い止め)とランソプラゾール(吐き気止め)を服用するも、直後に強い嘔気
それでも母は何とか我慢してみせた

21:20

トイレ(小)と歯磨き(車いすで移動)

21:40

就寝

【1/27後編の補足とまとめ】

激動の一日がようやく終了した。今日が土曜日である事を深夜になって気付いた。H病院での一連の出来事はあっという間だったが、それでも強烈な出来事が多すぎた。

H病院に行っての看護師と医師の塩対応は私だけでなく母も少なからず傷ついたと思う。特に最初に出て来た看護師の言葉使いはキツいし、「帰れ」と言わんばかりの言動はやはり初見の患者に対しての扱いだなと思った

でも後になってみればこの看護師やMRIの技師の対応なんてどうでもいいと思える。なにせトドメは救急センターでは脳出血(しかも大きい)が判明し、このまま入院が妥当という診断の方が私的には大ダメージだった。

私の中では最後に母の脳出血を言われた時は「もういよいよダメなんだな」と思った。最後にようやく他の病院か帰宅かの二択を迫られた時に、何とも言えぬ感情の中で母に「家に帰ろう」と言うのが精一杯だった。医師の説明からも今日、明日の命という風に受け取ったし、こんな所まで苦労してやって来てこの診断を受けるとは…という悔しさもあった。後になって思えば家に帰る選択が出来ただけでも幸運だったのだが、あの当時はそんな風には思えない心境だった。

自宅への帰宅を決断した時の時刻は17:00を過ぎており、もう外は真っ暗。帰りはストレッチャーに乗せらた母の側に居ながら、いろんな感情と共に介護タクシーの中から外の景色を見ていた。母上とも数回言葉を交わしたものの、何を言ったかも聞いたかも覚えていない。完全に失意の中での帰宅であるが、あの光景だけは忘れてはいない。

激動の1月27日が失意のうちに終わる…と思いきや、帰宅早々に看護師さんのOさんとTさんが母の様子を見に来てくれる。病院での様子を聞いたのち、母の状態を診察をしてもらった。この時セレネース(安定剤)が無くなっている…との事で急遽Oさんが事務所に取りに帰る事になり、留守番じゃないけどTさんが母の様子を見て残ってくれることになった。

時間的には30分くらいだっただろうか。Oさんが薬を持って帰ってくるまでの間、Tさんと少しだけお話をした。何気ない会話だけだったが、あまりにも失意のうちに帰宅した私にとっては、Tさんとの会話は十分すぎるほど気が紛れる要素となった。今振り返ってみても、あの激動の1日を失意のままで終わっていたら私の精神状態はどうなったのだろうか…?。母だけでなく私も助けられたと思う。

20:30にセレネース(安定剤)のバルーンの件で再訪された看護師さん(Oさん)を玄関先まで見送った際に、玄関から見える大阪市内を見下ろす夜景を見て「この夜景は凄いですね~」と言われた。また昼にH病院に向かう際に迎えに来てくれた介護タクシーのSさんも、玄関からの景色を見て「ここの眺望が凄いですね~」と言われた。このお二人の言葉を母に伝えると、母は満足げな笑みを浮かべたのが今でも覚えている

前にも書いたがこの家は母が選んだマンションであり、広々としたテラスと大阪市内を見下ろせる眺望がこの家の最大のウリである。いろいろあったこの一日の中で2人の来訪者が母自慢のこの家の眺望を褒めてくれたことは、母上にとっても嬉しい事だったと思うし、母の笑みを見てこの私も少しだけ嬉しい気持ちになれた一件だった。


【注意事項】

この記事を書いている私は医療に関しては素人なので記事の中で間違った認識、表現、名称を記述している可能性は高いです。さらに一部で感情論に走っている面もあると思いますが、なにとぞご理解と温かい目で見て頂けるとありがたいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?