中心をもたない現象としてのゲームについて

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中心をもたない、現象としてのゲームについて 第40回 第5章-5.4 遊び-ゲームにおけるルールを循環モデルとして再記述する|井上明人

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我々は「事件」の起こらない世界をどのようにして見つめればよいのか|井上明人

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なぜ異世界は、100周目ではなく2周目なのか|井上明人

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アジアを羽ばたいてしまっている異世界転生|井上明人

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キーボードの「沼」から、プラットフォームの「速度」を考える | 井上明人

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創発的現象としてのゲームの二次的フレーム | 井上明人

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駆け引き(学習説の他説との整合性④-2) | 井上明人

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認知的作品 〈いま・ここ〉を切り取ることをめぐって・後編 | 井上明人

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リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 前編<番外編> | 井上明人

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駆け引き(学習説の他説との整合性④) | 井上明人

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リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 後編 | 井上明人

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物語からゲームへ | 井上明人

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トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか? | 井上明人

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どこまでが「ゲーム」なのか? | 井上明人

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日常行為としての「ゲーム」を考えるということ | 井上明人

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概念の中心性――分けることとつなぐこと | 井上明人

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議論手続きとリサーチクエスチョン | 井上明人

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