現象としてのゲーム

学習説の世界――積極的学習行為としてのゲーム―― | 井上明人

今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第10回です。今回からは、ゲームの本質を「学習」にあるとみなす立場を中心に検討を進めます。研究者のみならず、ゲーム開発者から見ても非常に強い説得力を持つ「学習説」とは何か。国内外で展開されている「ゲーム」と「学習」にまつわる議論を参照していきます。

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』
第10回 学習説の世界――積極的学習行為としてのゲーム――

3−1 「ゲームの学習説」とは何か

3-1-1.学習説の興奮

 「ついにゲームというものの本質がわかった気がします…!」
 筆者に対して興奮気味でこういったことを伝えてくれる人が、毎年一人ぐらいいる。時にはメールで、時には口頭で、時にはSNSのメッセージで。それらは、毎回違う人物であり、だいたい、コンピュータ・ゲームの開発に関わる人たちだ。
 そして、彼らの言う「ゲームの本質」は、表現には少しずつの違いはあるものの、だいたい同じ点を突いている。
 それは、ゲームをプレイするときにゲームプレイヤーに「積極的な学習行為が成立しているのではないか」といったことだ。もう少し丁寧にいえば次のようになる。
いわゆる「ゲームにハマっている」と言われるような状態のことを考えると、ハマっているゲームプレイヤーたちは、ゲームをどんどんと習熟していくようなプロセスの中にいる。ゲームにハマるということは、ゲームの腕を上達させていくプロセスであるであることと、しばしば近似する。もちろん、それほどゲームに習熟できないプレイヤーというのもいるが、そういう人は、今ひとつゲームにハマりきることができずにゲームをやめてしまう。

 そういったゲームプレイヤーたちの行動が成立しているということを前提に、ゲーム開発者たちはゲームを作る。ゲームプレイヤーたちが、それまで習熟してきたことを土台としつつ、プレイヤーにとって少しだけ予想を超えるような課題をほどよいタイミングで与えつづけることができれば、プレイヤーはその状況を嬉々として受け入れ、課題に挑戦し続ける。
 設計の勘所はそのタイミングや、難易度の設計だ。プレイヤーがまったく乗り越えられないと感じるほどに、与えられた課題のハードルが高いと、プレイヤーはモチベーションを保てずに挫折してしまう。他方、ゲームをしていて、次に何がでてくるかということを予測し、その予測と完全に同じものがでてきて、予測された状況に、プレイヤーが完全に適応できるようなことが続くと、プレイヤーはそのゲームを徐々に退屈に感じはじめる。すなわち、難しすぎても、簡単すぎてもいけない。

 概ね、以上の点が多くのコンピュータ・ゲームの開発者が、ある日「はっ」と気付きによって得られるような「ゲームの本質」とされやすいことの中身だ。こういった感覚は、実に多くのゲーム開発者が抱くもののようで、こうした立場を公表し、より洗練された議論を目指そうとする人も少なくない。たとえばオンラインゲームの開発者だったラフ・コスターの議論[1]や、日本の家庭用ゲーム開発で長年のキャリアを積んできた渡辺修司らの議論[2]なども、基本コンセプトは今述べたような発想をベースとしている。
 「ゲームの本質」に関するこうした考え方を支持するのは、コンピュータ・ゲームの開発者のみにとどまらない。2011年以後、日常行為のなかにゲームの要素を組み込んでいくことを意味する「ゲーミフィケーション」という言葉が世界的に言われるようになってきた。筆者自身も2012年に『ゲーミフィケーション』という書籍を出版した[3]ため、この議論には深く関わっているが、この文脈のなかで「ゲーム」の面白さの中心をなすものとして紹介されたのは、ほとんどのケースで、これらの議論の一種といえるものだった。
 特にゲーミフィケーションをめぐる議論のなかで「ゲームの本質」として紹介されたのは、「フロー体験」と呼ばれるものだ[4]。「フロー体験」自体は、1980年代から1990年代にかけて広まった心理学者のミハイ・チクセントミハイによる概念であり、上記の要件に加えて、状況に対して自発的に参加を行っているかどうかとか、自己コントロール感があるかどうかといったいくつかの条件が追加される。
即時にフィードバックがかえってくるような環境下で、限定された分野について、難しすぎず、易しすぎない課題が提示されているときに、人間は、非常に高度な集中力を発揮し、その課題を苦と思わずに、積極的に取り組むことになるという。
 ミハイ・チクセントミハイの提唱した概念はゲームそのものについての議論ではないが、ゲームを遊んでいるときに生まれる楽しさや、集中した感覚に近いということで「フロー体験」はゲームの面白さを説明するための理論として好んで使われることが多い。

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