人気の記事一覧

背中のカーブで老けて見える と日本スポーツ協会公認スポーツドクターでヨガ指導者の高尾美穂氏(先日の『キュレーターズ_マイスタイル×ユアスタイル』)。背中が丸いと肺が膨らまず呼吸が浅くなって自律神経も乱れるとか。タレントも背中のカーブまで気が回らない人が多い。気を付けないと。

私が私であるために必要な行為 と作曲を表現したのは、4人のバリトンで結成する「ハンサム四兄弟」の長男・宮本益光氏(先日の『ベストオブクラシック』)。仮に自信がなくても周囲が批判しようとも、私であるために必要と定義づければ迷わない。私が私と認めなければ生きる意味はないのだから。

パンダを想像しないで。 と目を閉じた人に言うと殆どパンダの姿を想像するから、保育では「走っちゃダメ」でなく「静かに歩いて」と言うと、てぃ先生(先月の『TIME AND TIDE』)。「正しい方法を根気強く言う」という考えに、ビジネス書の依頼も来るとか。その方がスッキリする。

「生きづらさ。」

この世で一番強いのは、水です。 中学時代のブルース・リーが不良に殴られた後で入門した香港武術の道場主・イップマンの言葉だ(先日の『yes!?明日への便り?』)。相手に合わせ姿を変えるのが真の武術と諭された。硬直せず拘泥せず柔軟に臨むのを良しとすれば、人生も水の如く、と言えるか。

「サボればサビる。」 「Beauty Body Protocol大人のための下着の教科書」に掲載の20世紀のオスカー女優、ヘレン・ヘイズのこの言葉を先日の「あったかタイム」で紹介。美容の教訓にしたのだろうが、習い事や健康法など継続が価値を生む物事に共通する助言ではないか。

93歳の駆け込み乗車。 を9年前に行って右肩骨折、膝にヒビが入ったというのは102歳の野見山暁治氏(先月の『日本経済新聞』朝刊)。「日本人はこのごろ年齢のことを言い過ぎではないですか」と言われれば、そうかと思う。93歳でまだ駆けられるように、また目標となる人物が現れた。

僕じゃない人の生活を送ってる。 若者のUターン率3割の鳥取県伯耆町(ほうきちょう)で、どぶろく醸造会社を承継した遠藤社長を杜氏として補佐する請川雄哉さんは「会社の価値でモノを売る」営業マン時代をこう振り返る(先月の『いいいじゅー!!』)。ここまで自分を信じられれば何でも挑める。

井戸を掘るなら水が湧くまで掘れ 全国の農村を立て直した成果を見た農商務次官に頼まれ開拓の指導を行った石川理紀之助が、宮崎県の村民に向けて言った言葉だ(先日の『yes!〜明日への便り〜』)。彼は奉公先のために始めた午前3時の起床も71年の生涯を通じ続けた。勝つまでやれば負けない。

無駄な時間を使いたくない。 とテレビを倍速視聴する若者の意識を代弁した「映画を早送りで観る人たち」の稲田豊史氏(先月の『週刊テレビ批評』)。「ググれば分かるのに引っ張り過ぎ」とクイズ番組への早大生の感想。「タイパ(タイムパフォーマンス)」を重視し過ぎるから失敗に弱いのでは?

「果物を食べない理由。」 を1位から順に「値段が高い」「日持ちしない」「皮むきが手間」「他の食べ物がある」と挙げた先月の「ワールドビジネスサテライト」。消費量が年々下がっているらしいが、賞味期限を管理しナイフを握ればいいじゃないか。私は毎朝、妻のために果物を切る(写真)。

「たのしみは。」 に始まり「~時」で結ぶ52首を詠んだ幕末の歌人・橘曙覧の連作「独楽吟(どくらくぎん)」を本日の「讀賣新聞」朝刊/編集手帳で紹介。昼寝から目覚めて見た濡れた草木で涼を運んだ雨を知る時など、日常のごくささやかなひと時に楽しみを見出す心こそ見習いたい。

「共同注意。」 とは心理学で「同じものに注意を向けさせること」と阿部公彦氏(『GINZA』5月号)。SNSは多くの人の「注意」に価値があり、立派かどうかは意味がないと斬った。現代社会は共同注意に重きを置くが“多くの人が注意”する対象にはむしろ冷静な眼をもちたい。

犀の角のようにただ独り歩め 「ブッダのことば」にあるこの一節を紹介した渋川清彦氏(先日の『ACROSS THE SKY』)。インドサイは群れでなく単独で行動する事から、その一本角は孤独を表す。「独り生まれ、独り死し」と説く仏教に照らせば、独りで生きねばならぬ人間への激励に似る。

「ごめんなさい。」 と火葬された母の遺骨を前に言った松尾スズキ氏(『GINZA』APRIL)。「八年、寝たきりだった。口も利けなかった」という関係がその一言に表れる。2か月近くリビングに遺骨を置き「眺めまわして、甘えたい」という気持ちも高齢の母がいる私はよく分かる。

「そのとき小学生でした。」 「2009年に入社した」と言うと、こう返す人がいると田中みな実氏(先日の『あったかタイム』)。「苦手でしたが好きになった」と言われたとも。「ふかわさんの全盛期、知らないんです」とスタッフに言われたのは、ふかわりょう氏。余計な事を人はなぜ言うのか。

「指に力が入っていない。」 と「ボソボソしゃべる」日本人を評した萩本欽一氏の言葉を小堺一機氏が紹介(先日の『TOKYO SPEAKEASY』)。夥しい平板読みもこれと同じか。指に力を入れ「私の言葉」という思いで言わず平板な音の羅列にして意味を薄めたい意識が背後にある気がする。

「愛しき人よ、安らかに。」 というタイトルで今年亡くなられた著名人を特集した「週刊文春」(12.23号)。1月に物故された方には今年、という実感がなく、この号の発売後に亡くなられた方も自ら命を絶った方もいる。人は自らの死さえ予想できず、私は祖父母と叔父叔母の冥福を毎朝祈る。

「変わらなきゃいけない。」 という決意を、地球社会の現況を受け多くの番組で聞くが一様にマーケティング的な対応やワークスタイルの見直しという側面で語られる。このまま開発が進めば再び地球はウイルス禍に陥るかもしれないのに「喉元過ぎれば」には早過ぎるし悠長過ぎる間違いなく世界は。

「死ぬこととは生きること。」 という、ある僧の言葉を倍賞千恵子氏が紹介(先日の『日本経済新聞』朝刊)。そして「死ぬ瞬間まで生きていて生と死は繋がっている」と気づく。なれば死ぬまで歩けて生きていられる健康を保ちたい、と思った。死に様にこそ生き様が出るだろうが不確かなまま生きる。