見出し画像

子どもの名前に関する音楽教育学的考察

こんにちは,音楽教育学者の長谷川です👓タイトルで子どもの名前がどうのこうの言ってますが,結婚する予定もありません。この年になると一周回って親からのプレッシャーとか無視できるようになってきたのでもう無敵です。

さて,上述のとおりめちゃくちゃもしもの話なのですが,もし自分が子どもに名前をつけるとしたら「白(ハク)」とか「透(トウ)」とかなんかそんなのにしたいとふと思った,という内容について書いてみた。

* * *

僕の名前は「諒(りょう)」なんですが,由来としては15画という画数に拘ったらしいのと,あとこの字には「誠実」みたいな意味があるらしく,そういう人間に育ちますように,という祈りが込めらていたみたいだ。

僕の人生の序盤において両親の願いは見事に結実したようで,僕は小学生くらいまで本当にクソ真面目な,いわゆるいい子だった。勉強もちゃんと頑張っていたし,学校もサボらなかったし,「テレビゲームは水曜日のスイミングの前に一時間だけしかしてはならない」というルールを厳格に遵守していたし,なんなら幼稚園くらいまで両親のことを「お母様」「お父様」と呼ばされていたらしい(幼稚園で「お母様だって…長谷川家なんかやばくない…?」という噂が立っていたのではないかと思う)。結局この生真面目な性格は,基本的には大学院1回生(23歳くらい)まで続いていた。

そんな僕を親は心から愛してくれていたと思う。僕の親は常に子どもファーストの生活を貫いていて,長谷川家という核家族の構成員は僕たち子どもたちのために右往左往していた。今振り返ってみても感謝しかない。反抗期もあったと思うけど,基本的には良好な親子関係だったのだと思う。

親の子育てプランが大きく瓦解した(おそらく)最初で最後の事件は,僕が高校2年の終わり頃になって「音大に行きたい」と言い出したときだった。地元では1番か2番くらいの進学校に通っていてかつ成績も中の上〜上の中あたりをうろうろしていた長男が,当然それなりの大学に行ってそれなりの企業に就職するものと思っていたのに,まさか音大に行きたいなどと言い出すなんて…この子はまともな社会通念をもっているのだろうか?と思われたに違いない。実際めちゃくちゃ反対されたし,喧嘩もしたし,今でもたまに「あの時は地獄だった」などとマジな顔で言われる。結果,「国立大学でかつ総合大学の音楽科であれば認める」という合意に達し,なんとかそれに該当する広島大学の教育学部音楽文化系コースに合格して通うことになった。そして,広島大学を受験することが決まった時点で,親は全力でサポートしてくれた。やっぱりすごい親なのだ。

その後,4年制の学部を卒業した後,あろうことかこの長男は大学院に行くなどと言い出し,結局博士課程までいって今の今までフラフラと任期付き教員をやっている。中学のころの同期が子どもをつれて僕の母親が働く学童保育に行っているというのに(こういうのは相変わらずチクチクと報告を受ける…はやく孫が見たいらしいが,悪いけどその気はない),僕といえば「若手音楽家を支援したい」などと言いつつ大学生と家で飲み会をしている始末である。COVID-19が落ち着き次第この若手音楽家支援活動を再開したいものだ(ただ俺が飲みたいだけ)。

きっと親は,僕の周りの同級生みたいに,20代半ばくらいで結婚して,それなりの企業に勤めて,年に数回帰省して孫の顔を見せる,といった一般的な意味での誠実な社会人像を期待していたのだろう。でも僕は全くそうはならなかった。それどころか,学部生のころまで真面目や誠実を貫きすぎたせいで,今になって「もっと楽しくふざけれたかもしれない経験」みたいなものを取り返そうとしている感さえある。「誠実」という属性の加護を受けて生まれたはずの諒少年は,すっかりいろいろ拗らせてしまったのだ。

何がいいたいかというと,「子どもは名前の通りになんて育たない」ってことなんですよね。

僕はこの「諒」という名前が嫌いというわけではないし,親の想いも十分理解している。ただ,「誠実さこそが自分の個性だ」とずいぶん長い間思い込んでいて不器用に立ち回っていた感は否めない。その結果,自分で自分を傷つけていたことも多々あったように思う。特に音楽の世界では「ぶっ飛んでいるからこそ魅力的」みたいな人が多く,彼らみたいになれないことが一つのコンプレックスでもあった。

僕がラッキーだったのは,大学に入って一人暮らしをさせてもらえたことだ。親元を離れて一人暮らしを始めたことでいろいろなことが俯瞰で見え始め,「全ての人に対して誠実であることが必ずしも正しいとは限らない,そもそも誠実の概念は人によって違う」という気づきを得てから,生きるのが少しだけ楽になった。

名前の意味は,僕を助けてくれもしたし,それと同じくらい僕を縛りもした,と今となっては思うのである。

いうまでもなく親から期待される経験は子どもにとって重要だし,子どもに「こんな人間に育ってほしい」という願いを込めて名前を与えることはとても素敵だと思う。一方で,「意味の力」はとても強力だ。名前の由来を聞いたその日から,僕を指して発さられる「りょう(ɾʲo\ː)」という音声には常に「誠実」という意味内容が伴っていた。親の気持ちに応えたいという僕個人の意思も当然働いていただろう。そこから僕は「真面目で誠実」であることが絶対の正義だと思うようになったのである。そして,それは結果的に大きな間違いだった。そもそも,普遍的な「誠実」の概念などは存在しないのだ。両親の願いは間違っていない。僕が言葉の意味の世界に捉われていたのである。

* * *

音声(形式)と意味(内容)の関係性に注目した考察は,音楽教育学や美学,そして記号学の領域の話である。僕はどちらかと言えば,音(形式)をそれ自体として味わい,そこに意味や内容を見出さない,いわばハンスリックのような形式主義的発想の持ち主だ。そのことがこの名前観にも当然影響を与えている。そして,僕自身は,「意味内容」に縛られない音楽の世界こそをリスペクトしているし,音楽はロゴスの外側に存在し得るからこそ学校教育に必要だと考えているのである。そういう僕の音楽教育観に照らして考えれば,「りょう」という音声(形式)と「誠実」という意味(内容)を必ずしも結びつける必要はない,ということになる。「諒」という音の響きや漢字のカクカクとした造形(形式)自体は気に入っているが,この漢字が意味する「誠実」を「僕を構成する意味内容」として採用するつもりはない。そもそも,形式と内容の結びつきは日本語圏でのみ通用する恣意的なものだ。僕は今後も「りょう」というシニフィアンと「誠実」というシニフィエの関係性を無視し続けるだろう。

とにかく僕は,自分の個性や持ち味は,名前なんかに縛られずに自分で見つければいい,と思っている。だからこそ,もし自分が子どもに名前をつけるとすれば(そんなことはないと思うけど),「意味のない名前」にしたい。例えばオノマトペみたいに「音声としての響きがきもちいい」みたいな言葉とか。もしくは「意味がない」という意味を込めて「白(ハク)」とかにしたい。もはやカタカナで「ハク」とかでもいいかも。ジェンダーレスな名前という意味でもいいですよね。でも,小学校で「名前の由来を聞いてきてね」みたいな宿題が出た時説明するのが難しそうだなぁ。

ということで何の話かよくわかりませんが読んでくださった方ありがとうございました🙇‍♂️

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?