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音楽科の授業の存在意義について考える

こんにちは,音楽教育学者の長谷川です👓

いきなりですが質問です。

あなたが中学校で音楽の先生をしてるとして,鑑賞の授業でバッハを聴かせる場面を想像してみて欲しい。生徒に「僕たちはなんでバッハの曲を聴かなきゃいけないんですか?」と否定的なニュアンスで質問されたら,あなたは何て答えますか?

僕は中学校の非常勤講師として音楽を教えてたことがあるのだが,実際に男子中学生にこれを聴かれて,結構悩み込んでしまった記憶がある。なんて答えたのかは覚えていない。ただ,その中学生を納得させるだけの答えを提示できなかったことだけは鮮明に覚えている。

当時は修士課程の大学院生だったんですけど,子ども達に西洋音楽を教えることの意義については当然ながら(未熟なりにも)考えた上で教壇に立ったつもりだった。

でも,いざ面と向かって質問された時に,うまく答えられなかった。「西洋音楽を教えることの意義」について自分なりの結論を出していたつもりでも,その結論に自分でも納得できないまま授業していたのだろう。こういうのは子どもにはあっさり見破られる(言うまでもないことだけど「教科書に載ってるから」という答えはあまりに無責任だと思ってます)。

この中学生の疑問はある意味的を得ている。自分で好きな音楽やそれにまつわる知識をネットで拾ってこれる現代において,教師が聴かせる音楽を一方的に決めて一斉に鑑賞させることの意味ってなんなんだろう?

そう,結局のところ,この中学生の質問に答えるには,「音楽の授業の存在意義」について明確な見解をもっていないといけなかったのだ。当時の僕はそこを一番大事に考えていたはずなんだけど,力及ばずだった。すごく申し訳ないことをしたなと思う。

ということで今回のnoteでは,その中学生に対する懺悔の気持ちも込めて,「学校の音楽科教育って何のためにあるの?何を教えたら意義深い教育だってことになるの?」という疑問に,僕の研究領域の話にも触れながら答えてみたい。

よかったら読んでみてください。


▶︎「美しい」は誰が決めるのか?

「美しい」は誰が決めるのか?これは僕が授業でよく学生に出す問いでもある。

結論から言おう。特定のジャンルにおける「美しい」は文化的にある程度決まっている。

クラシックやジャズといった既存の音楽ジャンルには,「歴史と伝統が培ってきた美しさや良さ(オーセンティシティ)」が存在する。

過去に作られた楽曲を再現するクラシック音楽においてはそのオーセンティシティの力が特に強く,音楽表現の「良い・悪い」の基準の大部分があらかじめ文化的に規定されている。

例えば,モーツアルトのピアノ曲をペダル踏みまくりの豊潤な響きでロマン派風に弾いていっても,音大の先生からは多分褒めてもらえないだろう。「時代の様式を考えて演奏してね」と言われるのがオチだ。クラシックの演奏は常に歴史と伝統によって形成されてきた「オーセンティックな美しさ」をある程度求めているのである。この文化的な基準を把握せずにクラシック音楽のプロになることは現状難しいだろう(少なくともオーケストラのエキストラの仕事はこない)。

なので,音楽大学における最大のミッションは,「何がクラシック的に良い音なのか」「何がクラシック的に良い表現のか」を教えることになる。「これが良い音なんだよ,覚えてね」「フランス音楽ではこういう発音を使うんだよ」といったレッスンだ。

多くの音大の先生が,入学したての一年生に「好きに演奏して良いよ」「あなたの好きな音で吹いていいよ」などと言わず,エチュードを使って「変な癖を矯正する」ようなレッスンをするのは,クラシック音楽がヨーロッパの伝統芸能であり,音楽大学は「伝統の継承」を行う場だからだ

「クラシックの演奏家になりたいです」という学生は「クラシック音楽という伝統芸能を再現者という立場で正当に継承者したいです」といっていることになるので,「その癖も個性だよね」という指導はむしろ無責任になりかねない。歌舞伎や能では幼少期から徹底して「型」の指導を行うことでそもそも「変な癖」がつかないような指導をするが,それが文化の継承に直結するからであろう。基本的には西洋音楽も一緒なのである。


▶︎西洋化された学校の音楽

そして,そのような西洋音楽の専門教育のモデルは,義務教育課程にも踏襲されている。

明治時代に文部省が伊沢修二をアメリカに派遣し,「近代化=西洋化」だと信じて西洋音楽を輸入した結果,日本にもともと存在していた五音音階の民謡に,長調と短調による伴奏がつけられるようになった。

それまで素朴な単旋律の音楽に慣れていた国民の耳は,規則的な拍節構造の中で全音階(長調・短調)と機能和声が織りなす西洋音楽っぽい響きを「自然」だと思うようになったのである。今考えると信じられないくらい大胆な西洋化政策だ(この辺の話は今田匡彦先生の『哲学音楽論』に詳しい。僕が音楽教育学関係で最も繰り返して読み込んでいるのはこの本です。普通に読み物としてめちゃくちゃ面白い!!リンク貼っときますね)。

余談だが,日本の五音音階を「ヨナ抜き音階」などというがこれはちょっと奇妙な呼称だなと思う。なぜなら,日本の民謡には最初から5つの音しかなかったというだけで(もちろん例外はあります),昔の日本人が長音階から4と7の音を抜いて旋律を作っていたわけではないからである。「ヨナ抜き音階」という呼称自体が,西洋の音楽理論の立場から日本の民謡の音階構造を説明したものだと言えそうだ。

このような過程で,日本の音楽文化は西洋化され,学校教育でも,遠い異国の伝統芸能に影響を受けて「西洋音楽っぽく改造された音楽」を教えることが命題とされるようになった。西洋音楽における「美しさや良さの基準」に則った教育(「音程が合っているか」「リズムが揃っているか」といった表面的な体裁の指導)が,音楽科の授業でも実施されるようになったのである。


▶︎子ども中心の音楽教育とは

このような西洋音楽の「みんなで合わせる」「みんなで黙って聴く」的な方針は,高度経済成長期における日本の教育方針とも合致するものだった。つまり,「みんなで一斉に同じことを正確にやろう」という工場的な発想だ。一つのシステムにそって生産性を上げることが国力を高めるための最適解だった当時の日本にとって,西洋音楽の表層部分の教え込みは,時代の気質に適ったものだったことが予想される。

しかし,順調に経済が発達し,日本もそれなりの新興国となったあたりから,「一方的な教え込みはだめだよね」といわれるようになる。すごく簡単に言えば,「子ども中心主義」みたいな教育だ。最近では,「主体的・協働的で深い学び」というキーワードをもとに,子どもたち自身が主体的に,そしてクラスの友達と協働的に思考することで物事を探求する姿勢を身につけさせましょう,という風潮になっている。

でもね,僕から言わせれば,いくら教え方を「子ども中心」にしても,西洋音楽という「文化の継承」を目的にしている限り,本質的には「子ども中心」にはなり得ないんです。

例えば,「子ども中心」の活動を通して「主体的・協働的で深い学び」を生起させようと,以下のような段取りで合唱の授業が行われることがある。

①特定の合唱曲の楽譜を,強弱記号(クレッシェンドとかpとかfとか)を消した上で配布する。
②音取りをした後に,その楽譜を見ながらグループごとに音量表現を工夫させる。
③みんなの意見を取り入れてクラス全体で合唱する。

以上の授業は,先生が一方的に音量表現のあり方を提示するのではなく,子どもたちの発想を引き出してから表現を決めている点で,一見すると「子ども中心主義的」である。

でもね,こういう授業をしても,結局子どもたちの発想は「前向きな歌詞×リズミカルな伴奏×上行型の旋律=クレッシェンド」みたいな,それまでに刷り込まれた西洋音楽の公式をなぞる思考に収束することがほとんどだ。クリエイティブな工夫というよりも,単純な公式を用いた演算をする際の思考に近い。

言い方を変えれば,「前向きな歌詞でリズミカルな伴奏で上行型の旋律か〜…むせび泣くように歌ったら面白んじゃね?」という発想が許容される環境にはなっていない,ということだ。多少工夫の余地はあるにしても,「自由な表現」ができるスペースは限りなく狭い。既存の合唱曲とその背景にある西洋音楽の文化が,子どもたちの思考のリミッターになっているのである。

もちろん音大生がコールユーブンゲンを歌う際に「リズミカルな伴奏で上行型の旋律か〜…よし,むせび泣くように歌おう!」などと言い出したら,ソルフェージュの先生から厳しめの指導が入るだろう。それは当然だ。先述したとおり,彼らは「西洋音楽の正当な継承者」になるべく音大に通っているのであり,そのような継承者を育てるためには「真っ当な解釈」をする判断力を身につけさせることが非常に重要になる。

でも,学校の授業は「西洋音楽科」ではなく「音楽科」だ。世界中にたくさんある音楽文化のひとつとして西洋音楽の「オーセンティックな表現方法」を紹介するのも素晴らしいことではあるが,義務教育課程の9割以上が「オーセンティックな西洋音楽の表現方法」の継承に当てられるのはいただけない。

「前向きな歌詞×リズミカルな伴奏×上行型の旋律=クレッシェンド」はすべての音楽に適用できる普遍的な公式ではなく,西洋音楽の公式なのだ。「タテはぴったり揃っていたほうがいい」という価値観でさえ西洋的だと認識すべきだ(雅楽では同じ旋律をあえて微妙にずらして演奏したりするが,こういうのをヘテロフォニーという)。ギターでいうビビリ音(弦とネックが触れ合って出てしまうノイズ)は,三味線ではサワリといって音色の「味」として肯定的に捉えられる。

「タテを合わせ表現を揃え雑音をなくすのが良い」という価値観がめちゃくちゃ西洋的であるということをほとんどの教育者が意識せず,さも「すべての音楽に通ずる普遍的な原理」かのように教えてしまうのである。

僕はこの思考停止状態をとても危険視している。「近代化=西洋化」という文化的に何の妥当性もない教条を令和の時代まで無自覚に引きづり続け,子ども中心と言うより西洋音楽文化中心にならざるをえないシステムをいまだに実装している,といっても過言ではないのである。

教育現場に限らず,「みんなと同じタイミングで同じことができる」という能力の価値は相対的に下がってきているのだ。こんな時代にこそ,子どもが「過去の他人が作った良さや美しさの基準(オーセンティシティ)」に怯えることなく,「私はこれが美しいと思う!」「これが好きだ!」と言えるような音楽科教育が必要なはずだ。


▶︎オーセンティシティのない音楽をやろう

そうすると,導かれる解決策は必然的に下記のようになる。

「過去の他人が作った良さや美しさ(オーセンティシティ)」がそもそも存在しない音楽実践をやりゃいいんじゃね?

そこで思いついたのが,フリーの即興演奏である。

即興演奏と聞くと,ジャズやバロック音楽のそれをイメージする人が多いかもしれない。

でも,ジャズ でも「そのアドリブだとジャズじゃなくてロックになるんだよね」とか「そういうフレーズじゃグルーブがでないんだよね」のように,過去に築かれてきた美の基準(オーセンティシティ)を引き合いに評価されることがある。バロック音楽でも同様だ。「即興で演奏しさえすれば自由なのだ!」というのは短絡的で,オーセンティシティの監視を受けている即興演奏も存在しうるのである。

そうではなく,音楽的な約束事を極限まで取り払って,「せーの」でみんなで音をだしてみる,これがオーセンティシティのないフリーの即興演奏だ。調性が生まれないことの方が多く,カオスにしかならないこともある。聴き様によっては「現代音楽的な響き」と形容することもできるかもしれない。

当然,未経験者が初めてフリーの即興演奏をするときは「これでいいの??」の連続にしかならない。僕は実際にサウンドペインティング(soundpainting)と呼ばれる指揮付きの集団即興演奏をやっているグループに入って参与観察をしていたのだが,活動初期の演奏では,みんなの頭の上に漠然とした「はてなマーク」が浮かんでいた。

でもですね,このような実践でも,同じメンバーで演奏を繰り返していると,「今の演奏よかったよね」「今回はイマイチだったな〜」のような価値判断が各参加者の中で個人的に生起するようになっていくんですよ。しかも,「今の演奏よかった」みたいな感覚は,グループ内のメンバーで非言語的に共有されていたりする。

これってすごくないですか?この即興演奏には「これがいい演奏の条件です」といったオーセンティシティがそもそも存在していない。そして,誰かが「これがいい演奏です」というモデルを示したりもしない。にも関わらず,当事者が勝手に「これが(僕たちにとって)いい音楽だ!」って思えているということだ。

つまり,「良い演奏の基準」を当事者が主体的・協働的に作っていっているのである。すごいことだ。クラシックの演奏ではなかなかないことだと思う。

このような現象を確認したことから,僕は次のような仮説を立てている。

オーセンティシティ不在の音楽実践は,「自分にとって美しい音楽」をナチュラルに探求できる「場」として機能するのではないか。

「自分にとって美しい音楽」を探求することって,実は意外と難しい。以前別の記事で主観/客観の対立は単純な二元論ではないことと指摘したとおりだ(リンク貼っときます)。

「自分にとって美しい」を追求していたはずだったのに,いつの間にか他者評価を気にするあまり方向性がずれてしまう,ということは多々ある。だが,フリーの即興演奏についてはその可能性が限りなく低い。オーセンティシティやそれに起因する他者評価が生じにくい構造になっているからだ。人の目を気にせず「私はこれが好き!」と言いやすい環境になっているのである。

さて,もうここまで言えば何となく察しがつくとは思うが,ここで「学校の音楽科教育の存在意義」についての僕の見解を示したい。

僕は,特定の音楽ジャンルの専門家育成を目的にしていない義務教育課程において,このようなオーセンティ不在の音楽実践こそが中心的に取り扱われるべきなのではないか,と考えている。学校の音楽科は,子ども達に「自分にとって美しい音楽」を探求するという得難い経験を提供するために存在すべきなのではないか,ということだ。

僕の研究では,このことをより体系的に主張するために,サウンドペインティングをやっている人たちに「今の演奏を良いと評価した理由は何ですか?」「あなたにとって良い即興演奏って何ですか?」のようなインタビューをして,得られたテキストデータを特定のメソッドで分析している。

この研究がうまくいけば,演奏者がオーセンティシティに縛られずに「自分たちなりに美しい音楽」の概念を形成していく具体的なプロセスがより鮮明に明らかになる予定だ。

フリーの即興演奏と聞くと怪訝な顔をする人もいるかもしれないが,経験者はわかると思うんですがめちゃくちゃ楽しいですよ。授業だけでなく,音大や部活等でも,自然に即興演奏をできるような風土ができればいいのにな,と個人的には思っている。

⇩サウンドペインティング⇩


▶︎おわりに:子どもが当事者意識を持てる音楽実践を

今回は「音楽科の授業の存在意義」というテーマで,僕の研究にも触れつつ,つらつらと語りました。いかがだったでしょうか。

音楽は文化なので,音楽科教育においても「過去に作られたものを継承する」ことは当然大切にされるべきだ。そこに異論はない。

だが,子ども達は自由に文化をアレンジしてもいいし,子ども達主体で新たな文化を創造することだって可能だ,ということがあまりに見過ごされている。

大人って無意識のうちに,過去の偉大な作品やスタイルを「継承」さえすればいいと思ってませんか?音楽文化の「発展」や新たな音楽の「創造」は一部のプロに任せとけば良い,と思ってませんか?子ども達には「発展」や「創造」は無理に決まっている,と決めつけていませんか?

少なくとも義務教育課程においては,「これがいい音ですよ」「これが正しい楽譜の読み方ですよ」から始めるのではなく,「好きにやってごらん」が最初にあるべきだ。特定の文化の継承は,自分の「好き」を発見してからでも遅くはない。

「何でバッハを聴かなければならないの?」という質問が子どもから出てくる理由は,彼が「音楽って主観的に(あなたの好きなように)価値判断してもよいものなんだよ」ということを教わってこなかったからなんだと思う。

彼は「バッハが嫌い」だから聴きたくないのではなく,「バッハの音楽は良いものだから聴きなさい!」というお節介な大人に嫌気がさしているだけなんじゃないかな。

音楽に対して当事者意識をもって価値判断できる環境にあれば,まずは聴いてみた上で「ダサい」だの「かっこいい」だの言えばいいだけなのである。

なので,「何でバッハを聴かなければならないの?」に対する正しい答えを模索することにあまり意味はなくて,そもそもそんな質問が出ないような,子どもが当事者意識を持てるような音楽のカリキュラムを作るべきだ,というのが僕の考えです。

ついつい長くなってしまったど,音楽教育学者の考えていることが少しは伝わったのではないかと思います。最後まで読んでくださりありがとうございました!

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