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音楽室に作曲家の肖像画が飾られてるのってまじで謎だよなっていう話(になった)

こんにちは,音楽教育学者の長谷川です👓

今日は何のまとまりもないどころかとんでもねぇ乱文です,すいません。

というのもね,当初もっとちゃんとした記事を書こうとしてて,その中で次のような文章を書いたわけです。

世界中で自然発生的に誕生した音楽らしき営みの中で最も今日的な影響力を有しているのは,西洋音楽と呼ばれるヨーロッパ地方の民族音楽であることに疑いの余地はないだろう。

この文章の後半部分にある「西洋音楽は数ある民族音楽のひとつだ」っていうところ,僕の授業では必ず触れる話なんです。「西洋音楽(ドレミや機能和声に基づいている音楽)って全人類の心を動かすことを約束されている普遍的な価値のある音楽なんかじゃなくて,世界中にたくさんある民族音楽のひとつにすぎないんですよ,ってか民族音楽っていう言葉が西洋音楽中心主義的ですよね,お前(西洋)も民族だろオイ」っていう。

この話を理解してないとパブリックな音楽教育は絶対にできやしないので,教員養成課程に在籍する学生にはかなりしつこく言うようにしてます(中学校で音楽科の非常勤講師をしようと思っているクラシック出身の演奏家はこのことについてじっくり考えた上で授業を組み立てた方がいいよ🤔)。

で,このことにここでも触れておこうと,上記の文章の後にカッコをつけて補足しようとしたんです。

けど,そのカッコ部分をいったん書き始めると止まらくなってしまって…

なのでもはやひとつの記事として独立させることにしました🤔

一気に書いた文章なので大変読みづらいし(改行なし),そもそもが副産物的な勢いだけの文章なのですが,学校で音楽を教える可能性のある人にとって大切なことを考えるきっかけになるかもなと思ったので,もうそのまま公開します。

よければ長い長いカッコ書きの注釈をご覧ください…


* * *

世界中で自然発生的に誕生した音楽らしき営みの中で最も今日的な影響力を有しているのは,西洋音楽と呼ばれるヨーロッパ地方の民族音楽であることに疑いの余地はないだろう

⇩以下カッコ内⇩

(西洋音楽やそれに付随する五線譜・機能和声等は何も「普遍的な音楽の原理」などではなく,ヨーロッパ地方を中心に高度に発展し,たまたま世界中に広まってたまたまポピュラー音楽の基盤になっただけの,ひとつの民族音楽にすぎない。この話をみんなに納得してもらうのは結構難しいのだが,僕の授業では数回かけてでもこのことを丁寧に説明する。そもそも学校の音楽室の壁にバッハやベートーヴェンの肖像画なんか飾るから「西洋音楽は全人類が継承すべき普遍的な遺産であり,それを作った作曲家は音楽の神様だ!」みたいな勘違いが生まれ,その勘違いを解体するという僕の作業コストが生まれるんだと思う。あの人たちの作品に感動させてもらったことはたくさんあるし,個人的にバッハの作品は好きなことが多いけど,作曲家を子どもたちの前で神格化することにはかなり抵抗がある。だってそんなことしたら「神様の音楽を良いって思えない僕って,なんか感覚がおかしいのかな…?」なんて考える子が出てきちゃうじゃないですか。そんなことないよ!良識ある音楽教育学者は「音楽の価値は作品の中にのみ自律的に存在しているわけではなく,聴く人・作る人・演奏する人が時に相補的に,時に個人的に形成していく可変的で流動的なものだ」,と考えている。したがって,仮にバッハの音楽の良さが分からなくても「音楽リテラシーのないやつだ」なんていう風に言われる筋合いは全くないのである!「地味でつまんない!」と感じてもその感性に自信を持ってくれ!…大体作曲家なんて作曲という特殊技能に長けているだけで基本的には普通の人間なわけですよ。普段はとんでもないクズだがステージ上ではカリスマ性を発揮してくるやっかいなバンドマンと対して変わらない。いやもっとひどいやつもいたくらいだ。だから,もちろん熱狂的なファンはいていいし,その逆に「あんなクズの音楽なんて聴いてられるか!」っていう人も当然いていい。そういうリベラルな空気が普通なはずだ。それを公教育の現場で神格化するから訳のわからない誤解が生まれるのだ。…てか冷静に考えると,全国の小学校で特定の人の顔を額縁に入れて「楽聖」とかいって無批判に崇めてるのってセーフよりのアウトじゃないか?そんな偏った思想教育みたいなことを公教育でやって倫理的な問題にならないのかな?社会科でそんなことをしたら炎上不可避だろうな。しかも飾られているのは全員西洋音楽の作曲家で,シタール名人とかの肖像画が飾られているのは見たことがない。飾られてたとしても【図1 シタールを演奏する人】みたいな没個人的な写真で,「こんな珍しいことやっている人もいますよ」的な扱いだ。まさに西洋中心主義的な民族音楽の認識が表面化してる気がする。西洋音楽という音楽ジャンルが世界の音楽の中心で至高の芸術であることを無言で主張しているみたいでちょっと危険な香りがするぞ。多分バッハもそんな事主張したくてあんな顔で肖像画に描かれたわけじゃねぇわな。まぁこんな具合じゃ子ども達の「主体的・協働的な学び」は生起しないでしょうなぁ〜だって「これが価値の高い音楽を作った人です」って大人側が前提しちゃってるんだもんね。「これが価値の高い音楽です」っていう教えってクリエイティブとかけ離れてる気がするけどそれでいいのかな?それより,「あなたにとって音楽の価値ってなぁに?」っていう問いの方がはるかに大切じゃね?こういうのいろいろ考えてると,コロナショックで意味不明なトイレットペーパー買い占め現象が日本で起きるのも納得だよな〜思考停止ってこのことだよ,とか思うんだけど俺だけか??例えば,その学校を卒業して最近活躍している音楽家の写真とかを額にいれて音楽室に飾るのはまだ分かるんすよ。子どもが「その音楽室で音楽することの特別な意味」みたいなものを感じて前向きに音楽できるかもしれないからね。けど,何百年も前のヨーロッパ人のしかめっ面に睨まれながら音楽することになんかポジティブな意味あるか?むしろ「音楽って過去にいた偉い大人が作るものなんだ〜,僕はそれをなぞって演奏するのが精一杯だし,ましてや自分で作曲や即興するなんておこがましくてできないよ〜バッハさんに失礼だっ🥺💦」っていう意識を子どもにすり込んじゃってない??それって結果的に子どもと音楽との間に距離作ってない??言うまでもないけど,バッハは子どもが作った音楽をバカにしたりしないし,もしバカにしてきたらそいつから子どもを守るのが音楽の先生の仕事だからな?授業で取り扱う「音楽家」と言えばもれなく作曲家なのに,子どもにはほとんど作曲させないで他人の曲の演奏と鑑賞ばっかさせるの不思議でしょうがないからな??てかそもそも人の作った曲を忠実に再現する再現芸術っていう考え方ってめちゃくちゃ特殊なのに,そのやり方を全面的に採用するのまずくない??「西洋音楽再現科」じゃなくて「音楽科」だからな???「間違えを恐れずにチャレンジすることが大事だ!」って言いながら,音楽科が一番間違いに敏感な教育してない???子どもに表現を工夫させるっていっても西洋音楽のルールの中でしか工夫させてなくない???それってクリエイティブな工夫というよりも「どの公式使えばこの問題解けるのかな?」っていう算数的な思考に近くない???算数がクリエイティブじゃないって言いたいんじゃなくて,音楽におけるクリエイティブってもっと深くて広いよなって話な???それより子どもに音楽作らせたり即興させたりして,出てきた音楽を大人が一面的な価値観で切り捨てたりせずに,子どもの音楽文化をリスペクトして大切にしたほうが良くない???そんでその時に「例えばバッハっていう人はこんな感じで曲を作ってたんだよ〜参考にしてみても面白いかもね」って感じで紹介した方がまだ自然じゃね???てか大体子どもって,現代作曲家がめちゃくちゃ複雑な記譜で書くような音楽を屈託のない表現であっさりやっちゃうようなやつらですよ???そもそも現代作曲家ってかなり苦労して西洋の五線譜や機能和声を相対化してそれらに囚われない音楽を追求してきた側面があるわけで,始めから五線譜に囚われずに自由に音楽する子どもを慣例的な五線譜の型にはめていくのってなんかだいぶ虚無みが深くない???過去の作曲家の偉業も大切だけど現代の音楽家がやってることにも目を向けた方が良くない???てかもはや過去に作られた音楽を間違えずに再現するだけならもうAIにやってもらえばよくない???いやつまり,そういう時代だからこそ人間が音楽することの意味について真剣に考えないと,音楽教育まじでやばくない???作曲家を「現代人が到達することのできない高みにいる偉大な神様」として奉ってる場合じゃなくて,そんなことより子ども達に「君たちにも音楽はできるんだよ」っていう紛れもない事実を伝えることの方が圧倒的に尊くない???文化は継承しとけばいいもんじゃなくて,発展させたり萌芽させたりすべきものだっていう認識がきれいさっぱり欠如してない???あーーーこれを語り出すと止まらねぇぇぇぇぇぇぇ)。

* * *


…。🤔🤔🤔

別に病んでるわけではないです…🥺笑

まぁこんなことをnoteでうだうだいっても仕方なくて,学者なら研究でなんとかしろよって話ですね。現在取組中ですのでもう少し待って下さい…(僕の研究課題名は「学習者の主観的(間主観的)価値判断を促進する集団即興演奏教育教材の開発」です)。

このnoteで書いていることは現場の批判とかではもちろんないし,俯瞰的な視座で音楽を教えてる先生もいらっしゃるであろうことは理解しています。どちらかというと問題は先生というよりシステムにあって,教員養成課程で教える大学教員がその教育システムをラディカルに改革しないといけない時がとっくに来てるし,改革するためにはそれなりのエビデンスが必要で,そのためには研究のやり方考えなきゃな〜〜〜という個人的な気持ちがこのカッコ書きに現れたんだと思います。はぁ〜がんばろ〜

ほんとにこれだけです,なんかすいません笑 最後まで読んで下さった方(もしいたら)ありがとうございました!

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