家売るねこ、街を歩く②〜東京駅〜
いつもは栃木の実家に帰るときの、通過点。
東京駅から出ることはあまりなかったのだけど、
時間が少しあることもあってぼくは東京駅から外に出た。
ふと外から東京駅の建物を眺めてみたくなったからだ。
東京駅の正面の広場に向かって歩く。
ずっとずっとてっぺんの遠いビルがぼくを見下ろしていて、
いつも暮らしている京都の街とは、まったく違う世界のようにみえた。
都会に来たどきどきと、少しの圧迫感とを感じながら。
ぼくは、すこしだけ東京を歩いた。
ビルの窓ガラスはピカピカしていて、中がうっすら見える。
このぴかぴかつやつやしたガラスの箱の中にはなにがあるんだろう。
その中にはきっと一所懸命に働いている人たちがいて、
「この資料はやく!」
「今日は大事な商談なんだから」
と想像以上の数の人が汗水を額に流しながら働いているのだろうかと想像しながら窓を見上げるけど、人の姿は一人も見えなかった。
(窓際で休憩している人なんていないのかもしれない。)
荷物があるわけでも、机があるわけでもない。
外から見えるけど人がいないあの空間って、どうなっているのだろうととっても気になるけれど、答えを教えてくれる人はいない。
ー
街を見ると、緑はあるけれど石材の重厚感があって、美しい反面、どこかずっしりしている。
ぼくは建築写真をとるので、どうしてもタイルの目地や、レンガの接着面、柱、境界線が気になる。
タテタテヨコヨコタテヨコテタヨコ…の線が僕に話しかけてくる。
(水平垂直をしらずしらずのうちに、測ってしまうのだ)
多くを直線で構成されたビルはまるで切れ味の良いナイフのようにとんがって鈍色の空を突き刺している。
ぼくは東京駅の正面のど真ん前にいって、写真をとった。
なんの変哲もない、みんながそこで撮るであろう構図だけどここに立った証をのこしたくてぼくはシャッターを切った。
いくつもの時代を生きてきた建物。
度々改修はされているけど、この建物は記憶をもっている。
とってもたくさんの、いろんな人の思い出のにおいがする。
時代時代の、楽しいこと、嬉しいこと、誇らしいこと、悲しいこと…たくさんのにおいがする。
煉瓦色の石と白い窓枠の集合が規則正しく直線に並んでいてぴしっとしているのに、時にあらわれる屋根の曲線が優しい。
(東京の街はのっぽの建物が多いのに、東京駅は床に寝そべったねこのように長く横たわっているのもかわいい!)
東京駅の前には、雨に濡れた石畳がきっちり敷き詰められている。
京都では石畳っていうけど、大都会東京にはなんかしっくりこない気がした。
石敷きというほうがかっこいいかもしれない。
あいにくの晴れたお空ではなかったけど
しっとり濡れた街路樹とつやつやと建物を写す路面がきれいだった。
みちゆくひとはみんな早足でどこかに向かっている。
そして、どこかの建物に吸い込まれていく。
ぼくのようにきょろきょろしているひとは居なかった。
ー
知らない街の都会のカフェはいつだって不思議な感じがする。
ぼくの目に『自分とは違う誰かの目が映すもの』が映っている気がしてちょっとワクワクする。
前を横切る人の日常が、僕にとっての非日常。
同じ世界にいるのに、まとっているにおいがちがうくて、目の前にいるのにお互いに透明人間みたいで触れ合うことができない。
そんな寂しさを感じるのも好き。
僕らは寂しいってことでさえ、誰かがいないと感じることができない。
いつもと違った場所でのむコーヒーはいつもより薫り高く、いつもよりすこし苦かった。
ー
僕は再度、東京駅に吸い込まれていった。
構内ではたくさんのおみやげが売っていて、
ここを通ったことの証に誰かが何かを買っていく。
ぼくがおしごとでこの街に来ることはあるんだろうか。
そういうときはどんな気持ちなんだろう。
また違った光景がみえるにちがいない。
東京を颯爽とあるく、かっこいいねこになりたい。
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