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どうせ死ぬのになぜ生きるのか

結論から言うと、本書には「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いの明確な答えは書いていない。

この問いをタイトルに設定したことで、手に取る確率は10倍、100倍に引き上がっただろうし、自分もこのタイトルじゃなかったら、おそらく読んでない。でも、特に裏切られた、とは思わない。

そういう意味では、編集者(著者?)の目論見は成功しているし、そのおかげで本書を読めたことには感謝しかない。

本書は平易な言葉でわかりやすく仏教の教えや心理学の基本的な考え方を極力スピリチュアルにならずに、論理的に納得できるように説明していて、物事をどう捉えるのか、どう生きるのか、についての一つの指針を得られる本だと思う。

その一方、タイトルが強すぎる分、すぐに、どんなことが書いてあったか忘れてしまいがちなので、自分なりに振り返るためにメモをまとめておきたい。

ポイントは、タイトルにもなっている「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という強すぎる問いを外して読んでいくこと。

再読するとき、この問いの答えってなんだったっけ?って拾い読みすると大事なところが全然入ってこなくなってしまう。

本書を読む時のポイントはこの問いの答えを追わないこと。

本書で追うべき問いは「悩みや不安から開放されるにはどうしたらよいのか」

こちらの問いを追いかけていった方が、本書は一気に理解しやすくなると思う。これは、悩み、特に不安にとらわれている自分特有の読み方かもしれない。

どんな人でも、人生の中で悩み、不安を覚えながら生きています。 「友人ができない」「仕事がおもしろくない」「今の貯金では老後が心配だ」……。

このあたりのくだりは共感しかない。

昔っから不安が強くて、臆病。悩んでばかりで人生のエネルギーをそっちにばっかり費やしている。

むしろ、未来の漠然と不安を少しでも軽くするために今を生きてる、という表現がしっくりくるくらいには、未来は不安で、それはいつになっても変わらない。

過去は過去で、ちょっとしたことを思い出しては後悔して、のたうち回るのを必死にこらえて生きている。

不安や後悔にとらわれる原因は「自意識」にある

本書では、動物が不安や後悔をしていないことを引き合いに出しながら、不安や後悔にとらわれる原因は「自意識」にあると主張している。

「私が」「俺は」という明確な自意識を、動物はおそらく持っていない。  自意識を持っていない動物たちは、常に「今、ここ」だけを生きています。それに対し、自意識を持つ人間は過去や未来に紐付けられた「今」を生きています。例えば何かにつまずいて転んだとき、動物は「痛い!」と感じることはあっても、それ以上の意味をそこに付け加えることはおそらくありません。しかし自意識を持つ人間は、同じように転んだときに「こんなことなら日曜の朝から出かけずに家に引きこもっていればよかった……」と過去を悔やんだり、「せっかくのお出かけ用の服が汚れてしまった。これからデートなのにどうしよう」と未来に対して不安を抱いたりするのです。

ちょっと前に自分の中で流行ったマインドフルネスの考え方も「今、ここ」に集中するとよい、ということだったが、それともつながる。

人間が進化の過程で手に入れた武器である「自意識」その副作用が不安や後悔。

自意識は、「過去の自分」「今の自分」「未来の自分」をひとつにまとめる力を持っています。そのことによって人間は、過去から未来へとさまざまな思いや知識を託していくことができるようになった。しかしその自意識の力によって、僕らは不安や後悔に囚われるようになってしまったのです。

この理解を持っておくだけでも、だいぶ進んだ感じがする。

自分の心や感情と自分自身は別モノ

もう一つ、本書の理解を支える考え方は、仏教において「自分の心や感情」と「自分自身」は別ものと明確に定義していること。

現代人の多くは「自分の心、あるいは感情の動き」と「自分自身」とを当たり前のように同一視しています。しかし、仏教では、「自分の心」と「自分自身」とは別のものだと明確に定義しています。
「心は自分ではない」。このことは心理学としての仏教が到達した革命的な知見であり、二千五百年前のインドでも、現代の日本でも、変わらず人々の固定観念を覆すインパクトを持っているということだと思います。

これは直観的な感覚とずれるので、なかなか理解しづらいけども、この概念を理解すると、かなり生きやすくなる気がするので、時間を取って本書を読み込んででも確認すべき考え方。

しかしどれほど心の中で暴風雨が荒れ狂っていたとしても、それはあくまで「心」の働きであり、あなた自身の本当の姿ではない、というのが仏教の教えです。いくら「あなたの心」が荒れ狂っていたとしても、その奥のほうには、静かで、落ち着いて、穏やかな「あなた自身」がいる。大嵐のときでも、深い海の底にはそれまでと変わらない安定した水域があるそうですが、「あなた自身」というのは、荒れ狂う感情とはまったく別の層に「ある」ものなのです。

自分のみならず、他者もこういう構造なんだ、と理解することで、現状発露している相手の感情に振り回されすぎなくなる。荒れ狂う感情と対話するのではなく、荒れ狂う感情を鎮めてもらうための対話なり時間をおくなどの手段をとることで、物事が円滑に進んだりする。

もちろん自分自身も、何かにイラッとしたときに、自分自身がイラッとした、ではなく、感情という層がイラッと反応している、と俯瞰して認識できると落ち着いたりする。(まあ、これが難しいんだけども。)

ともかく、自分の感情・心と自分自身は別もので、自分自身は、心の奥の別の深い層にあるものだ、他人も同様に、その人の感情とその人自身は別もの、こういう理解を持っておくと感情に振り回されすぎることなく生きていける感じがする。

現実と認識している現実(現象)も別モノ

本書では、自分自身と感情・心が別モノというだけにとどまらず、さらに、現実世界と認識している世界も別モノである、ということを「現象学」を引き合いに説明しています。

現象学では「現象の変化」をもたらすものには、現実の変化と、(現象を映す)僕らの心の変化の二つがありうること、そして両者を僕らは自分では区別できない、ということを指摘しています。

自覚している「現実らしきもの」は、自分の心、認識を通じて見ている「現象」にすぎず、本来の現実ではない。さらに、その構造を自覚はできないので、心が変わってしまえば自分にとっての現実が変わってしまう、ということ。

無に近づくことで、本当の自分自身と本当の現実に近づくという理解

本書に書いているわけではない、私なりの理解なんだけども、

先程の話とあわせると

①本当の自分自身 ー ②自分の感情や心 ー ③心が認識した現実 ー ④本当の現実

という構造になっていて、

自意識の働きは大きく3つで、

・「②自分の感情や心」を「①本当の自分自身」と思い込む
・「③心が認識した現実」を 「④本当の現実」と思い込む
・その上で、「②自分の感情や心」と「③心が認識した現実」の境界線を明確にする

そうすることで、自分と世界、自分と他人が別モノである、と自己が自己であるという意識を保つメカニズムを持っている。

しかし、仏教的な世界観では、「①本当の自分自身」と「④本当の現実」は一体で境界線の無いもの。

故に、「②自分の感情や心」と「③心が認識した現実」を無にすることによって、宇宙(現実)と自己が一体化する、というのが目指すべきところなのかと。

対象と同調することで自意識を小さくし、認識を変えることで現象をコントロールするのが「行」

そのための現実的な実行の方法論として示されてるのが「行」

行というのは、現象学的な捉え方をすれば、「認識( 心)を変えることによって現象をコントロールする」ための方法論ということができます。

詳しくは、本書を読んでもらえれば、と思いますが、行を通じて、自意識を小さくしていくことで、心が落ち着いて澄んでくる。そうすると、自分自身や世界をありのままに見られることに近づく、ということ。

澄んだ心で「いま、ここ」に集中できていれば、不安や後悔にとらわれない。そういう時間をなるべく増やせるようにする。

冒頭の問い「悩みや不安から開放されるにはどうしたらよいのか」に答えるとすれば、「澄んだ心で「いま、ここ」に集中できていれば、不安や後悔にとらわれない。そういう時間をなるべく増やせるようにする。」ということになる。

これも、本書の内容からすると、なんだかちっぽけな問いと回答で、まだ理解が及んでいない気がする。

このnoteでは、概念的な部分して触れられていないので、本書を読んで、実践的・体験的な部分についても理解することが重要です。

毎週、note書いてます

書いている時は「今、ここ」に集中できているので、書くこと自体が「行」というか、修行みたいなもので、それ自体が目的なのかもしれない。

その時の一時的な感情や思考を文章という形でアウトプットしても、感情や思考の2割くらいしか文章に落とせていない気がするし、感情や思考自体も、自己認識の色眼鏡を通じて認識したものなので、本当の自分とは程遠い。

読み手は読み手で、それぞれの認識の色眼鏡を通じてしか、このnoteを知覚できないので、それぞれの「現象」に過ぎないわけで、、と考えていくとなんだかわからなくなっていきますね。

とりあえず、毎週書き続けられるように。

※今回は、3月10日(日)~3月16日(土)分

***


以下は、時間切れでまとめきれなかった部分も含めてのメモ。どちらかというと後で自分が読み返すためのものだけど。別途保存するのも面倒なので、ここに置いておきます。

時間切れ・雑多メモ

・自意識は常に、過去の後悔や未来の不安によって揺らいでいる
・「行」は自意識を小さくするのに役立つ
・対象との同調整を高めると、自意識の枠組みが溶け出す
・自分と世界の境界線が曖昧になる
・自分の内側に充満した自意識はだんだんと世界に拡散していく
・その結果、同調性を高めれば高めるほど、自意識が小さくなっていく。
・自意識が小さくなると、心が落ち着いてくる
・自分の身体を対象に行をすることが瞑想

・私たちの判断や行動の多くは、癖や習慣に支配されている
・本当の意味での自由は自分たちにない
・自分を縛っている癖や習慣(因縁)には自分では気づけない
・癖や習慣は、その人のそれまでの人生、生活環境、ひいては遺伝子みたいなあらゆる過去の影響によって生じたもの(因縁)。
・行に取り組むと因縁を断ち切ることができる。
・なぜならば、行を通じて、その人の人生からかけ離れた、身・口・意、を日常に持ち込める。それにより無意識の癖や習慣をリセットできる。

ーー
・無常:世の中は変わり続けている。同じことが繰り返されることはない。
・しかし、それでも物事を変わらないものとして見ようとしまいがち
・固定観念・先入観に囚われる、決めつけることは「無智」
・固定観念からは自由になれないが、自分が固定観念にとらわれていることを知り、真摯に受け止めること
・自分にとってのあたりまえ(固定観念や先入観)を揺り動かすのが仏教の思想としての真髄。
・一方で、物事を固定観念・先入観にとらわれず、相対的に見すぎるのも危険。客観的に物事を見るだけだと、何を自分の足場にして判断してよいかわからず、それはそれで行きづらい。
・確かなことは1つもない、でも、正しく世界と向き合えない。相対地獄。ーー

・固定観念から自由になり、客観的に物事を捉えることを理論化したのが現象学

・現象学的には、自分が体験していることが本当かどうかを自分たちでは確認できない。
・現実と自分が体験している「現実らしきもの」を区別して、後者を「現象」と呼ぶのが現象学
・現象の変化には、現実の変化と現象を写す心の変化の2つがあり、その両者を自分では区別できない。

・現象は認識によって左右される。

・人は生の現実そのもの、に直接触れているわけではなく、心の有り様に縛られたものの見方でしか現実にふれることはできない。

・行というのは、認識を変えることによって、現象をコントロールする方法論。

・自分の認識している世界は、自分の心に写った現象でしかない。

・行や瞑想によって心を落ち着かせることは、自分が何らかの固定観念を通じて世の中を認識していることを知り、そこから自由になって物事を認識しなおす、ということ。

・これが、「現実をありのままに捉える」こと

・心が絶え間なく乱れつつけている=先入観や固定観念に囚われまくっている。

・現実+乱れた心にうつったもの=「現象」がその人にとっての「現実」

・乱れた心=自意識・(固定観念・先入観)

・行は乱れた心を落ち着かせる方法論

・心は固定的なものではなく、瞬間ごとに変化し続ける運動

・ゆえに、正常、とか、異常とかない。変化し続けている。

・「自分の心」と「自分自身」は別モノと仏教では明確に定義している。

・心は自分自身ではなく、自由自在である、

・心が荒れ狂っていても、その奥の方には落ち着いて、穏やかな自分自身がいる、というのが仏教の教え。

・自分(現実・仏性)ー自分の心・感情ー世界を捉える心ー世界(現実)

・心を無に近づけることで、現実をありのままに捉えられるようになる。

・怒りそのものが心を乱して、平静から遠ざかっていく。

・怒りに気づけば、8割なくなる。

・心を落ち着けるには、長期的に作っていく「体質改善」としての行と短期的に乱れた心を落ち着かせる「頓服薬」としての行

長期的な体質改善で「心の基準点」を作り、高めていく。毎日やる。普通の状態を高める。そうすると乱れに気づきやすくなる。片付いた部屋みたいな。

基準点があがると、そっちを本来の自分だと感じられるようになってくる。

自動思考が基準点を下げる。

朝一番に基準点を作ると良い。優先度を上げて、毎日やる。心の明るさは自分で作る。

最重要の「行」が瞑想

行や瞑想を含めた学びは「方便」に行き着く

方便とは、社会の中で他人に貢献すること

・現段階の理解はこれくらい。それでも、生き方がだいぶ変わる気がする。


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