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長谷部浩のノート お芝居と劇評とその周辺

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2020年5月の記事一覧

リモートラーニングの果てしない道のり

ひとつセッションが終われば、次のセッションが待っている。 土曜日は、次週の土曜日に向けた資料を整備して、ドロップボックスにアップして、学生に告知する作業に追われる。厳しく言えば、やはり甘いところが多々あるし、こだわって直すと、きりがない。また、映像を含んでいるために、アップロードにかかる時間も、かなり必要になる。

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文学に志す以上は父と子の争ひをしなければならなかった。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十三回)

 七月、万太郎は徴兵検査を受ける。  旧徴兵令、旧兵役法は、兵役の適否を判定するため壮丁の体格、身上などの検査を定めている。  毎年、各徴兵区において満二十歳になったものは、検査を受けなければならない。  ただし、万太郎は文部省認可の慶応大学に在学していたために「徴兵ヲ延期」することができたが、六月猶予期限が切れかけたので、ここで一種の賭に踏み切った。  徴兵検査は、その体格に応じて、甲種・乙種・丙種・丁種・戊(ぼ)種に区分され、甲・乙種が現役に適する者、丙種が国民兵役に適

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歌舞伎座の今

 緊急事態宣言解除後、最初の週末。自分で車を運転して東銀座まで、行ってきました。  車窓から見る銀座の街はかなり賑わっていて、カルティエやエルメスなどのハイブランドも店を開けていました。  残念なことですが、このまま無事に収束というわけにはいかない。  2週間後にまた、何ごとか起こるのではと、心配になりました。  車を出した目的は、もちろんハイブランドでもなく、デパ地下でもありません。歌舞伎座はどうなっているのかが気になったのです。  歌舞伎座正面に車を止めて、5分くら

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十代目三津五郎さんの評伝

昨年の秋だったでしょうか。坂東流の坂東会から岩波書店の担当者宛に連絡がありました。坂東流では、坂東会の創立100周年を記念して冊子を発行するとの連絡でした。 私には十代目の短い評伝を書いてくれないかとの懇切丁寧な依頼でした。いやも応もありません。私としては同世代でもあり、ともに仕事をさせていただいた仲間ですから、ぜき書かせてほしいとお返事をしました。 そこまではいいのですが、締め切りは本来三月末なのに、このコロナウィルスの影響とウィーンの講義で頭がパンクしてしまい、原稿が

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ウィーン大学学生の本気度。

セカンドセッションも無事終わりました。疲労度は激しく、二日くらいぐったりしていましたが、すぐにサードセッションの準備をしています。また、これまで講義した第二章から第四章までを選んで、短いエッセイの課題をだしています。第二章は、アンダーグラウンド演劇の誕生、第三章は、雪月花に見る日本演劇のシンボル、第四章は野田秀樹『THE BEE』の分析です。ウィーン大学の教務システムMoodleは、詳細な掲示板機能があり、こうした提出物の管理が行き届いています。学生がアップすると、評価を求め

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どうせお前には商売ができやしないんだから。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十二回)

 荷風の『すみだ川』は、幼なじみへの恋心にやぶれた中学生長吉をめぐる物語である。  夏の日盛り。俳諧師松風庵羅(「羅」の上に草冠がつく)月が、浅草今戸にすむ実の妹をきづかうところからはじまる。  小梅瓦町から、堀割づたいに曳舟通りをゆき、隅田川の土手にあがって、待乳山を見渡す。  竹屋の渡し船にのって、向河岸に渡り、今戸八幡神社にたどりつく。妹お豊は、常磐津の師匠をしながら十八歳の長吉を旧制中学にやって、将来を期待している。長吉の子供時分の遊び相手のお糸が芸妓にでることに

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泥沼のやうな中に、忽然咲きいでた目もあやな一輪の花(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十一回)

 明治四十二年、万太郎が入学した慶応の文科は、予科、本科を足しても学生はようやく七人か八人。屋根裏の物置のようなところが教室で、そこには三四人の本科の学生が薄暗い顔を寄せていた。  当時の慶應はのちに経済学部となる理財科が看板であり、一年に在学していた水上瀧太郎の『永井荷風先生招待会』が伝えるように、「生徒の大部分が、月給取りになつて、後々重役になる事を夢見て居た」学校である。  作家を志すものなど一人もいなかったのである。  水上自身も、明治四十四年七月小説『山の手の子

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演出家藤田俊太郎の希望。

 NOTEの記事のアーカイヴをたどってみた。  私が最後に劇評を書いたのは、二月十一日付の記事で、『天保一二年のシェイクスピア』https://note.com/hasebehiroshi/n/n00989052cb3cについてだった。演出は藤田俊太郎。高橋一生、浦井健治が人間の欲望をえぐりだした作品だった。売り出しの演出家の手腕があきらかだったので、次に予定されていた『violet』(日本初演)『ジャージーボーイズ』(満を持した再演)が期待されていた。

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セカンドセッション

明日はウィーン大学演劇研究所、第二回目の集中講義。雪月花をテーマに日本演劇のシンボルを論じる第三章。野田秀樹作・演出・主演の『THE BEE』を分析する第四章です。すでに1週間前に、テキストやプレゼン資料を学生には渡してあります。明日は、レクチャーとグループディスカッションを中心に行います。

ボヘミアンネクタイ若葉さわやかに(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十回)

 永井荷風は、万太郎について語っている。  それならば自分なぞが差出口をせずとも、久保田君は既に己の缺點の何たるかについては能く氣のつく性質の人である。由来多少たりとも自分を知つてゐる藝術家は自己の特徴の何たるかに對しては卻て甚不確實であるかはり、其缺點は大抵最初からよく氣がついてゐて、それでなかなかなか矯正して行く事のできないものである。 ----永井荷風『万太郎「浅草」跋』----  万太郎は、明治四十二年に慶應普通部を卒業しているが、この頃から同級の大場惣太郎(白水

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源之助わすれじの萩植ゑにけり(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第九回)

 明治四十二年、慶應普通部卒業。  父親は否応なしにすぐ店で働かせようと思っている。万太郎もまた、仕方ないと自分でも諦めていた。しかし、卒業間ぎわになると、周囲は騒がしくなる。  ある者は高等学校へ、あるものは、高等商業へ行く。  黙ってそれを聞いているのは辛く、高等工業ならば図案科に入ればまんざら店の仕事と縁のないこともない。父のお許しがでないとも限らないと考えた。 「しかし祖母(としより)や阿母(おふくろ)はさうとは考ひぇやいたしません。何処までも真面目に、上の学校へつ

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落第するや、そんな学校にゐるのはいやだから、慶應義塾の普通部へ転じた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第八回)

 明治三十九年、万太郎十六歳、府立三中(現東京都立両国高校・付属中学校)の三年から四年に進級するとき、代数の成績が悪く落第する。 「……なぜ代数の点がたりなかつたかといふことは、"しきりに文学に親しん"で、ちつともその方の勉強に身を入れなかつたからである。後に、ぼくは、この間のことを扱って、"握手"、並びに、"東京の子供たち"といふ小説を書いたが、そのとき、落第するや、そんな学校にゐるのはいやだから、慶應義塾の普通部へ転じた。」(万太郎「明治二十二年ーーー昭和三十三年・・・

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俳優の品行を改めさせ、劇界の弊害を改めた九代目團十郎(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第七回)

 源之助について熱をこめて語るのは、宮戸座時代、ひとりの観客にすぎなかった万太郎ばかりではない。  劇評家であり、従兄弟にあたる二代目猿之助に新舞踊の台本を提供した木村富子は『花影流水』のなかで、女形を「太夫」と呼ぶ習慣があったが、この尊称は、源之助で絶えてしまうのではないかと書いている。 「其の特色はいよいよ濃厚と成り、世人から『源之助張り』と愛称されるほど、他の追従をゆるさぬ独特の演技で、一種のすぐれた形を生み出し、大阪で生まれながら江戸ッ子のお株をとり、持ち味のイナ

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駕にゆられてとろとろと一杯機嫌の初夢に(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第六回)

 万太郎の脳裏に焼き付いたのは、『三人吉三』のお嬢吉三であり『妲妃のお百』『蟒お由』の毒婦だった。  『三人吉三』をのぞいては今日見る機会の少ない演目なので、説明を加えておく。  『三人吉三』は、安政七年に書かれた河竹黙阿弥の代表的な狂言で、今日でもときおり上演される。明治三十二年一月(万太郎九歳)と明治三十八年十二月(万太郎十六歳)、宮戸座で源之助はお嬢吉三を演じている。  本外題は『三人吉三廓初買(巴白浪)』。序幕として演じられる庚申塚の場「月も朧に白魚の かがりも

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