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落第するや、そんな学校にゐるのはいやだから、慶應義塾の普通部へ転じた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第八回)

 明治三十九年、万太郎十六歳、府立三中(現東京都立両国高校・付属中学校)の三年から四年に進級するとき、代数の成績が悪く落第する。

「……なぜ代数の点がたりなかつたかといふことは、"しきりに文学に親しん"で、ちつともその方の勉強に身を入れなかつたからである。後に、ぼくは、この間のことを扱って、"握手"、並びに、"東京の子供たち"といふ小説を書いたが、そのとき、落第するや、そんな学校にゐるのはいやだから、慶應義塾の普通部へ転じた。」(万太郎「明治二十二年ーーー昭和三十三年・・・・・」)

 泉鏡花、内田不知庵、國木田獨歩、水野葉舟、三島霜川、鈴木三重吉、薄田泣菫、與謝野晶子を、万太郎は愛読した。(万太郎『かれは』昭和三年一月「新潮」)

 今日では知られることの少なくなった作家についておぎなうと、内田は、文芸評論家として出発したが、明治四十一年から三年にかけて、ドストエフスキー『罪と罰』トルストイ『復活』を翻訳し、ロシア文学を紹介するとともに、ゾラの小説『戦塵』やディケンズなどの翻訳を通して自然主義文学に影響を与えた。

 万太郎は、魯庵の『社會百面相』(明治三十五年)を愛読書にあげている。小説と銘打っているが、現在でいえば社会風刺コラムだろう。会話体で書かれた軽快な批評である。

 水野葉舟もまた、現在では、出版界から見捨てられた作家である。
 与謝野馨、晶子の新体社にはじめ加わったが、明治三十五年、歌人の久保田空穂の門下に加わり、明治三十九年には、空穂と共著の歌集「明暗」と同時に出版された最初の詩集「あららぎ」、第一短篇集『微温』(明治四十二年)の名を万太郎はあげている。

 筑摩書房版明治文学全集に収められた『微温』の短篇を今読んでも、書簡の体裁をとった『ある女の手紙』の口語は清新でおもしろい。都会的な作風の十八の短章で構成された佳品である。

 三島霜川の昭和四十年に発表された小説「解剖室」にも万太郎はひかれた。
 医学校の風早教授がじぶんのひそかに愛した林檎売り少女の死体の解剖にあってメスが執れなくなる。当時好評をはくした作品である。
 三島は、大正二年に、歌舞伎を中心にあつかう雑誌「演藝畫報」に入社。犀児、椋右衛門の名で劇評を書くとともに編集にもたずさわったから、万太郎にとっては演劇界の先達にあたる。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。