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俳優の品行を改めさせ、劇界の弊害を改めた九代目團十郎(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第七回)

 源之助について熱をこめて語るのは、宮戸座時代、ひとりの観客にすぎなかった万太郎ばかりではない。

 劇評家であり、従兄弟にあたる二代目猿之助に新舞踊の台本を提供した木村富子は『花影流水』のなかで、女形を「太夫」と呼ぶ習慣があったが、この尊称は、源之助で絶えてしまうのではないかと書いている。

「其の特色はいよいよ濃厚と成り、世人から『源之助張り』と愛称されるほど、他の追従をゆるさぬ独特の演技で、一種のすぐれた形を生み出し、大阪で生まれながら江戸ッ子のお株をとり、持ち味のイナセな芸風で観客を恍惚とさせ『紀の國屋びゐき』を随喜させた」(佐藤『澤村源之助』)

 夏目漱石の高弟で、役者評判記とは一線を画した評論『中村吉右衛門』を著した小宮豊隆もまた、源之助については賞賛を惜しまなかった。

 「宮戸座には名優源之助がゐる。源之助は松助と並んで、歌舞伎芝居に於ける本当な意味での自然主義の役者である。如何にも芸術の骨髄を会得してゐながら、その演る事は、まるで芸術とは思はれない程の自然を写し出してゐる。」(「宮戸座」昭和十二年)

 小宮の演劇批評活動は、明治四十四年にはじまり、夏目漱石の死去によって、全集編纂の仕事にかかわるため大正四年に終わった。
 小宮は、「宮戸座」のなかで『妲妃のお百』に触れているところから、源之助の年譜をたどると、大正二年五月の舞台を見て、讀賣新聞のために書かれた文章と思われる。

 文中の松助とは、如皐の『源氏店(着られ与三)』で与三郎をつれてお富を強請にかかる蝙蝠安を演じ、脇役の名人といわれた四代目尾上松助である。
 源之助の演技は、それほどすばらしかった。
 小芝居にありながら、源之助は熱狂的なファンを獲得していた。
 しかし、見巧者たちをここまでうならせた理由のひとつには、興行師、十二代目森田勘弥を中心に行われた演劇改良運動への反発が一方にあったろう。

 明治時代、欧米へ渡った日本の使節団は、訪れた国が誇る劇場へ招待される経験を持った。ならば、外国からの日本を訪れた賓客も、返礼として劇場でもてなさなければならぬ。

 しかし、旧来の歌舞伎は、下品でみだらである。
 歌舞伎を改良し、高尚な社交の場を確立しなければと政府は考えた。
 教部省は、これまでのような事実にそぐわない、虚構によって成り立つ時代物や、社会道徳上不適当と思われる世話物を排した。明治政府が考える「正史」にのとっとり、また勧善懲悪を目的とすべしとする指令を発した。

 その意を受けた守田座の座頭にして興行主の守田勘弥は、明治の三名優の筆頭であり、歌舞伎の宗家ともいうべき九代目市川団十郎を立てて、演劇改良運動を行ったのである。

 明治十一年六月、新開場した新富座では、劇場にはじめてのガス灯がともされた。太政大臣三条実美以下政府高官、東京府知事、警視総監、各国大使などが客席を埋めた。一千余名の観客に向かって、運動の理論的支柱となった東京日々新聞社社長、福地桜痴が起草した式辞を、散切頭に燕尾服をまとった団十郎が読んだ。

「顧みるに、近時の劇風たる、世俗の濁を汲み、鄙陋の臭を好む。彼の勧懲の妙利を失ひ、徒らに狂奇にのみ是れ陥り、其下流に趣く、蓋し此時より甚だしきはなし。」

 このごろの芝居は、下品でなっとらんというのであろう。
 勘弥は、観客を当時の上流階級に求めようとした。団十郎は、興行師勘弥にこの演説を強制されたわけではない。

 彼にも、もともと典雅を好む性向があった。団十郎は芸談「團洲百話」で、役者は人の真似をせず、新機軸を打ち出し、自分の長所を大切にせよと心がけを語るのに続けて、
「それに尤も必要なるは品行を慎む事なり、おのれの身の行ひ立たずしては立派な役勤まるものに非ず」
と説いている。
 団十郎は、俳優の品行を改めさせ、劇界の弊害を改めるために大きな貢献があったとされるが、劇場を埋める観客が、品行方正、志操堅固な俳優を望んでいたかは疑問である。

 明治十八年、伊藤博文内閣の成立とともに、急進的な演劇改良運動がすすめられた。十九年八月には「演劇改良会」が結成され、二十年四月には、天覧劇が実現する。江戸時代には、鑑札を持たされ、猿若町の外にでるときには、編み笠をさえかぶらなければならなかった歌舞伎役者にとって、天皇の前で演じることは、隔世の感さえあったろう。

 演目についていえば、新作として、「活きた歴史」を意味する活歴劇が生まれる。団十郎は、史実を尊重し、細部の写実にこだわったが、この活歴劇には、観客を酔わせるだけの芸術性にとぼしかった。

 天覧劇の演目のひとつであり、黙阿弥作の活歴物のなかで今日も上演される狂言に、新歌舞伎十八番の内『高時』(黙阿弥 明治十七年)がある。
 幕があくと、高時はすでに舞台にいる。「板付き」といわれる登場の仕方は、当時の人々にとっては斬新であったろうが、内容はといえば、荒唐無稽で劇的構成にとぼしく、天狗の舞を見せるだけのスペクタクルに終わっている。
 これほどの駄作を見せられる観客は気の毒である。
 俳優の品行と芝居のおもしろさは、もちろん比例しない。活歴は、一般の観客からよろこばれず、新聞劇評からは非難をあび、知識階級からも支持されなかった。
 明治二十年代の後半になると、団十郎も活歴物からの撤退を余儀なくされ、座頭となった歌舞伎座では古典に力をそそぐことになる。

 観客のこころをつかまえられなかった芝居は、例外なく悲惨なまでに転落の道をたどる。
  それは舞台と客席、隔たりはあっても同じ場で、同じ時間を共有する演劇メディアの特質による。観客の生きた呼吸を刻々と受け止めて、はじめて役者はその技芸を存分に発揮しえるのだった。
 
 明治三十年代には、行きすぎた演劇改良運動への嫌悪が、観客のなかに残っていた。しかし、一方で古典を演じさせても<劇聖>の名をほしいままにした団十郎は、五代目尾上菊五郎とともに、大芝居の主流を形づくっていく。
 しかし、『江戸演劇の特徴』(大正三年)で、荷風が指摘するのは、道具衣裳の歴史的考証に専心し、舞台の上の絵画的な効果をなおざりにした当時の歌舞伎である。。
「その弊風今日に及びてもなほ歌舞伎座の新作物においてこれを見る。」
 活歴物の影響は、大正の歌舞伎にも残っていた。

 そのかたわらで、小芝居にたてこもた源之助のなかに、万太郎は、失われつつある江戸歌舞伎、爛熟の残り香を見ていた。
 先に引用した文章であげた『三人吉三』『妲妃のお百』『蟒お由』、いずれもが、ご一新前、安政、慶應年間の作である。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。