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文学に志す以上は父と子の争ひをしなければならなかった。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十三回)

 七月、万太郎は徴兵検査を受ける。

 旧徴兵令、旧兵役法は、兵役の適否を判定するため壮丁の体格、身上などの検査を定めている。
 毎年、各徴兵区において満二十歳になったものは、検査を受けなければならない。
 ただし、万太郎は文部省認可の慶応大学に在学していたために「徴兵ヲ延期」することができたが、六月猶予期限が切れかけたので、ここで一種の賭に踏み切った。
 徴兵検査は、その体格に応じて、甲種・乙種・丙種・丁種・戊(ぼ)種に区分され、甲・乙種が現役に適する者、丙種が国民兵役に適する者、丁種が兵役に適しない者、戊種が適否を判定しがたい者(徴兵延期)とされた。

 万太郎は第一乙種で徴集を免除されたのである。

 「何うなるものかと思つて兵隊の検査を受けてみました。するとこれが無事に済んだので祖母(としより)はそのときに『兵隊にとられてと思つて、もうすこしのところだから学校を卒業さしてしまったら』と、親父にかけ合つて呉れました。」
 父親の反対を怖れていたが、存外抵抗はなく、「当人の勝手にさせませう」となった。「新聞に名前が出たりなんかしたので、親父もうす  感付いてゐたのでございませう、もう度し難いとあきらめて、いゝ加減に見切りをつけてしまつたにちがひございません。」(万太郎『半生』)。

 小説家という職業は、今日のように社会から公認された存在とはなりえていない。
 「文学に志す以上は父と子の争ひをしなければならなかった」(万太郎『"三田文学"創刊の頃』)
 明治生命の創業者の家に生まれた阿部章蔵は、小説を書いていることが家にわかり叱責され、水上瀧太郎とペンネームを使うようになった。そんな時代である。

 時期はかなり後年になるが、十六歳の川口松太郎が、足しげく万太郎のもとに通ったのを見て、
 勘五郎が、
「あの川口という男は何の用で来るのか」
と聞き、万太郎の妹が
「あれは兄さんのお弟子さんですよ」
「ふうん、下には下があるもんだな」
といった話を『久保田万太郎と私』のなかで書いている。

「先生はまだ独身だし一家をなすだけの定収入もなく親がかりの身の上だから父親の目には一人前の人間には見えなかったに違いない。一家をなすに至らざる伜を先生々々と慕って来る私がよっぽど愚かな人間に見えたのだろう」。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。