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小夏のこと

昨年の7月に春馬くんと同じ世界にいってしまった小夏。

私が小夏と出会ったのは、遥か昔。小夏という名前はニックネームです。私にもニックネームがありましたが。それはまたいつか。
私が短大1年生。小夏は同じ大学の1年生。自宅からは少し離れていたけど。なにかをつかめるような気がして、決めた大学。片道2時間ぐらいかかったけれど。自宅のある地域よりずっと都会だったことと。高校までは歩きか自転車通学だったから、ワクワクのほうが勝っていた入ったばかりの頃は学校生活に慣れるのに必死でゆとりはなかった。
それでも入学式の時、初めての大学のサークル勧誘の嵐を経験して、どこかのサークルに入ろうと思うようになった。

福祉の関連のサークルも多く、たまたま勧誘をしてくれた先輩のなんともいえないカリスマ性がありそうな雰囲気と言葉にその福祉系ボランディアのサークルに入ることを決めた。(この先輩はその後老人はかわいいと言った方。その当時は全くその意味がわからなかった私が、その後その言葉のとおりだな〜と認識することになるとは!)

少し前まで、のほほんと田舎の高校の普通科に通っていた私。男女共学ではあったけど。高校には制服があった。
大学生になってまわりは皆私服。いわゆるお嬢様学校ではないので、きらびやかな服の学生はあまりいなくて。でも私にはそれがとても自然であっていた気がする。

あまり広くない敷地に講義を受けるための大きめの建物二つぐらい?少し小さめの高校の教室のような部屋がある建物と。特別講義をする大きめの講堂。生協販売部。学食が食べられる食堂。あとはサークルの部室のようなものがぎっしりある学生会館。私は保育科だったけど。基礎ピアノは必須なので、どこかにピアノ一台がぎりぎり入る防音室?がいくつかあった気がする。
地方からというか全国から入学する人も多く、下宿先にはピアノやキーボード等も持っている人は少ない中、ここで練習するニーズは多くの人が持っていたと思う。
私は中一ぐらいまでピアノを習っていたから。(と言っても真面目に練習してどんどん上手になる人とは違ってなかなか練習するのも苦手だった私。)ソナチネを弾く頃はとても熱心に練習していた時期もあったけれど。
私は保育士か幼稚園教諭に必須科目のバイエルはできる。と、この頃からの自分の考えの甘さに笑いたくなる。ピアノや歌も大切だけど。子どもと遊ぶだげではない、保育をする。成長を見守る。という重要なことが苦手だったかもしれない。確か実習がある頃、私が保育するのではなく、保育をしてもらいたいぐらいなどというとても心細い手紙を友人に送ったことがある気がする。将来の仕事に対してぼんやりと不安を持っていた私だったんだと想う。
ビアノの時間には弾いたこともない、私には少し難しめの曲を課題として出された事があった。
ある時はショパンの別れの曲、子犬のワルツ。無理です!なかなか弾けなかった。それでも練習曲のバッハインベンションはわたしには難しいのだけれど。弾いていて楽しくて仕方がなかった。これは合格するためだけではなく楽しいから一生懸命練習した覚えがある。
ある時その時のピアノの講師の方に、「あなたの弾き方はなんというか、ディズニーランドにいて弾んでいるような感じ✨」というような言葉を頂いたことがあった。私は「?」と思ったけれど。その時は褒められたような気持ちになった。今思うと弾まなくてもいいところで弾んで弾いていたし、やっぱり落ち着きもなかったんだろうな〜と思う。

入学して間もなく、二年生の先輩たちが授業の一環として手遊びを教えに来てくれたことがあった。多分私が幼稚園生だった以来に見た手遊び✨両手や両足を使ったり、立って回ったり。とても楽しかった!いろいろな手遊びがあるんだな〜と思った。手遊びが子どもにとっても。保育士や幼稚園の先生にとっても。とても大事な位置を占めている。お助けマン的存在ということはずっと後に就職してからやっと知ることになる。

こんな感じの学生生活を過ごして、授業が終わった後は学生会館に行きサークル活動をしたり、毎週日曜日には別の地域に行って(九州の炭鉱廃止により出てきている家族が多く住む地域に行かせてもらいそこの方々と交流をする。)いわゆるボランティアサークル活動をするようになった。全体の行事は皆ですることが多いけど。幼児、小学校低学年、高学年、中高生。老人(その頃は高齢者という言葉はあったかな〜?)のパートに分かれてお話ししたり遊んだりしていた。私は幼児パート。小夏は小学生低学年パートだったかな〜?
小夏は、同じ年齢だったけど、顔も美しいし私の目とは違ってパッチリとした目が可愛く、落ち着きもあった。ほんとに落ち着いていた記憶。サークル活動をする中で話すことはあったけれど。パートが違うからあまり深く話したことはなかった。どちらかというとその落ち着きを醸し出すところに憧れているような?そんな立ち位置だったと思う。他のサークルメンバーもほんとに真面目な考え方をする方も多く。広島や長崎出身の方はやはり原爆についての考え方が東海地方の私とは違う。というか、わからないんだと思う。それではいけないなと思うけれど。

一年間はとても真面目に参加していたような気がする。私には見えていなかった、世の中の問題について考えたり意見を出し合ったり。しかも全国から来ている学生が多いため、九州、中国地方、北海道、東北などなど、東海地方の私が普通に暮らしていては会うことができない地域の方の多いこと。共通したこともあるけれど地域性で全く違う価値観もあったと思う。私にとっては勉強することばかり。そこに私はいるのだけれど。その時の私はあまりにも物事を知らなすぎて。難しすぎて思考が止まることも多かった。それでも毎週日曜日にその地域に通いそこの地域の方とのコミュニケーションをとることは楽しみになることも多かった。ボランティア活動するために行っていたけれど。今思うと若い学生がおじゃまさせてもらい勉強させてもらってたんだ!と想う。ありがとうございます。と今その方たちに言いたいぐらいです。

一年経つ頃、私は毎週日曜日の活動に行かなくなるようになった。今だからお話しますが。全く行けなくなったのは。なにかの行事でいつもとは違う場所で仲間同士で待ち合わせてみなで移動することがあった。なんとその場所に私は行かなかった。前日まで行くことになっていたのにドタキャンした。今なら携帯電話で連絡することはできでも、その時はほぼその場にいかないと連絡は無理。その頃は前向きになれない事があり、行けなくなった私。今なら考えられない無責任な行動。当時の自分に逢いに行き叱ってやりたい!
きっと、仲間はある時間まで待っていてくれて。大迷惑をかけたと想う。
そんなことをしたのでその後は、もう顔向けできないような気持ちになり、その後二年生になってからは授業に出たり実習に出たり。あっと言う間に卒業してしまった感。やり切ることができなかった汚点がまた一つ。

サークルとは別の一年生の時に同じクラスになった友人の何人かとはとても親しくなり、卒業してからも。それぞれの地元に帰り就職したあとも、結婚したあとも。子どもが生まれたあとも。時折みなで集まって会うようになった。何年もたった今も交流している。

そんな不義理なやめ方をしてしまった私でしたが、まだコロナ禍になる前の何年か前。同じ保育科でそのサークルで、同じ幼児パートだった方からある日電話があり大学時代のサークル2年間の人たちと会う機会を設けるけど。一緒に参加しない?と誘われた。えー!私?私はあんな感じだったのに。行けないよ!と思った。何回か電話でお誘いを受けて、だんだん懐かしくなって来て一回ぐらい行ってみようかな?という気持ちに。自分に甘い私です。

全国から来ている方が多く、ニ年に一回の一泊二日の出会いの会はその当番の方の近くで計画するように進められていた。たまたまよく行く隣の県での会だったので参加することに。

当日。久しぶりに会った同じくらいの年齢の方々。その中にはるか昔に憧れていた小夏にも会うことができた。小夏は昔の面影のままで。卒業後は染色作家になり自分で染めていろいろな作品作り生業にしていた。なんてカッコイイ!確かその時身につけていたものも手作りだった気がする。他の方の職種はいろいろだけど教職が一番多い気がした。あとは施設勤務。短大は保育科しかないので圧倒的に保育士が多かった。年齢的に保育所長などになっている方も多く。その頃教授の、講義でも聞いていた、ずっとずっと前から言われ続けていた「幼保一元化」の結果なのかどうかはわからないけれど。認定子ども園への移行時期。なかなか大変な苦労話を聞いたりした。日々の苦労話の中には、そろそろ始まろうとしている親の介護問題の話題もあった。

私は元々保育士ではあったけど。母親が病気になったあと上の世界にいってからをきっかけに介護の仕事につくように。
私の知っていることは少しかもしれないけれど。たまたま近くに座ってくれた小夏ともお話しをした。私の職種を聞くとその頃両親ともに介護をしていた小夏はいろいろな話をしてくれた。たまたま一人だったので動きやすい位置にいたんだとは想う。両親のその時の症状により対応していて。一生懸命さが伝わってきた。その時は、私の両親ともに病気で上の世界にいったあと。病気だったからお世話はしたけどまだ若かったから、介護生活にはならなかった。私が小夏に話したことは自分が順々に資格を取る都度勉強したことや何年かの介護の仕事をしていた時の経験した時の感想ぐらいですが。何よりあまり深く話したことのない小夏とたくさんお話できたことは嬉しかった。自分の拙い話しが少しでも役に立つことも嬉しかった。
あんなやめ方をした私ですが。知らない方も居ますが。ほんとに人のことを受け入れてくれそうな性格の人が多いためか居心地が良かった。みんなあまりにも真面目過ぎて。私も真面目な方だと思うけど。ずいぶんいい加減なところがあるな〜と反省しちゃいます。

保育の話や自分の家庭の話しや私の知らない職種のお話を聞いて。みな頑張って生きてきたんだな〜とつくづく感じた2日間でした。2日目は昔は街の中にあった大学が海の近くに移転。泊まった場所からも近かったので今の大学巡りをしたりした。大きくなった大学!学部も増えた!

2年おきに泊まりの旅が計画される。2回目はまた前とは違う近くの県にて。その時は全国から多く参加されたが、もうすぐ台風が近づいているということで、予定よりずいぶん早めて朝起きたらすぐに解散した。なのでこの年はあまり誰ともお話することはなかった。

そのまた2年後も、隣のまた違う県にて企画してくださった。
ほんとに近くだったけど。その頃はすこし私の体調が良くなくて欠席してしまった。
この時は本来は一泊二日のところ。
すぐ隣りにある別棟のところに希望者だけ募ってもう一泊された方もいたらしい。それは小夏が中心に勧めたものと聞いていた。
ずいぶん後になってから。本人からこの時は少し身体の不調を感じていて。将来いろいろなところに行けなくなるかもしれない。となんとなく感じていたらしいとのこと。私の体調がよくない気がして断ったけど。この時に会うことが今から思えば最後のチャンスだった。

コロナ禍のあとの世界

その後、日本だけでなく世界全体がコロナ禍の中へ。
当然全国から集まるようなこの会は中止に。

なにかのきっかけで小夏と手紙のやり取りをするように。コロナ禍のために用事以外の外出はできなくなったり。緊急事態宣言なども出て、人と会うことが難しくなっていたので、手紙はとてもいい手段。元々、子どもが習っていたピアノの先生が筆まめでいつも可愛いハガキと、可愛い季節感あふれる切手を出してくださったので。私も便箋やハガキ可愛い切手があると買うように。買ったらせっかくだから友人や親戚の叔母さんなどに手紙をだすことが増えていた。
小夏の字はとても柔らかくてじようず。見やすかったしあったかい字✨文章もとてもじょうずで。ハガキであっても細かい字でたくさん書いてくれた。私は今このnoteでわかったことは。文を書くことも読むことも大好きだということ。なので小夏からのハガキや手紙はとても楽しみになった。

そんな2020年7月18日。15年前の少年の頃から見つけてしまって。ずっと応援してきて。大好きだった春馬くんが上の世界にいってしまった。

近くの友人は私がずっと応援してきて作品をほぼ観るぐらい好きだった事は知っていたので。お話は聞いてくれた。
ある日小夏からの手紙の返事として、春馬くんが上の世界にいったこと。大好きだったこと。2020年11月に偲ぶために行った初めての旅のことを長々と聞いてもらうようかのように書いた。すぐにお返事が来て、小夏も好きな方だったこと。私の言葉に共感してくれた。でもその時に、まさかの思っても見なかった小夏の病気告知のことも書いてあった。春馬くんが懇親の表現をしてくれた『僕のいた時間』の拓人と同じ病気になったこと。不調の原因がすぐにはわからず。診断には1年ぐらいかかったこと。主治医が春馬くんの拓人を見ていてあれほどその通りの表現をできたことを絶賛していたこと。などが書いてあった。

あれから介護を頑張り両親を順々にみおくった小夏。これからも染色作家としてしたいこともあったと想う。
その文には一言だけ。今まで真面目に生きてきて何も悪いことをしていないのに。「どうして私なの」とだけ。

小夏は拓人のときの症状とは違って手足の動きは良くまず初めは大丈夫。それより先に呼吸器の方から症状が出ているらしい。
たんたんと文章に書いてはあったけど見えないところで葛藤もあったはず。
動けるうちに学びに来ている若い人に染色の方法を伝えていきたいということや、近いから会ったり、後に、『太陽の子』で丹後知るところになったけど。そんな事もしる前から、何故かそんなずっと前なのに3人で丹後地方に行きたいね!コロナ禍が収まったら行こうね!と口約束をしていた。

でも結局あれから3年ぐらいはコロナ禍のために会うということはできなかった。私は手紙や葉書で。しばらくしてメールでのお話も。もう一人の友人はパソコンでお話していたらしい。
病気をかかえている友人の自宅に行くのも迷惑だから行こうとは思わなかったけど。一度検査入院したことを知り、2021年の夏に病院の窓口のナースになら渡せるもの。(音楽が好きな私なので、春馬くんがシンシアとのコンサートでも歌ったとされその舞台も好きだった『デイアエヴァンハンセン』のサントラ盤や他に好きにCDなど)を持っていったことがあった。すぐにお返事が来て、その日なら病院の面会室であえた日だと思う。と書いてあった!あの日はまだ2021年。緊急事態宣言は出ていなくても緊張していた日々が続いていた。だから持ってきたものを渡したらすぐに帰ってきた。(その時忙しいとは思うけど。お渡ししてください。と頼んだのは私なんだけれど。会えるなら会って行かれますか?と一言言ってもらえてたらな〜。と思ってしまいました。
結果的にはそれが小夏に会えたかもしれない最後のチャンスだったから。

それでも厳しい入院生活に少しでも音楽を聞いてもらいホッとする時間が持てればいいんだと自分の心を納得させた。

小夏の手紙には、小夏が病気と行き合っているにも関わらず。私の近況とともに私の頭の中でいつもいっぱいあふれていた春馬くんのことをたくさん書いてしまった。その中には2020年11月の偲び旅のこと。その後の気配探し旅のことをいっぱい聞いてもらった。本来は私が色々お話しをを聞かないといけないとわかっているのに。止まらなかった。また春馬くんについてのお返事が来ることも嬉しかった。今思うと。私のグリーフケアの一環に小夏も巻き込んでいたような?今でも心からありがとうという気持ちだよ。小夏!聞いてくれてどうもありがとう😆

2022年の3月頃、その頃はメール。小夏から連絡があり今までつくってきた染色作家としての作品(見本も含めて)を今染色の後輩や友人にたくしているとのこと。もし万が一のことがあったら何もかもなくなってしまうから。と。
私にもということで一瞬迷ったけれど。ありがたくその好意を受けようと決めた。好きな色を聞かれたので。今は薄めの若草色が好き。と答えた。少ししてから大きめの箱に若草色系の大きめのものや小さめの首に直接巻くタイプのものがたくさん送られてきた。
このnoteを書いている今も、朝方寒くなったときなどは冬用のものを巻いている。ますます風邪をひかないと思う。

夏は日焼け防止にもなる絹でできた小さめのストール。
ちょうど2022年4月から3日間上京する予定があり、その時は春馬くんのボイトレの先生が音楽指導される舞台『ブラッド・ブラザーズ』を観たり。初めてのレインボーブリッジも歩いて渡る予定。その後土浦にも。春の初めは風も強く寒いので首に巻くことはとてもいい。その話を手紙で小夏に伝えた。

それから何回も手紙やメールでお話を。2022年の夏も7月初めまでは私の友人ともパソコンでやりとりをしていたのに。7月中旬。春馬くんと同じ世界へ。急な呼吸困難だったとのことでした。

悲しかったけれどよく頑張ったね💓という言葉を送りたい✨出逢ってくれてありがとう💓
たまたまサークルで一緒にボランティアをしていた同級生の男子が介護関連の改修をする仕事をしていて。その方が小夏のニーズをよく聞いてくれてドアのあけしめを便利にするとか。手すりのこととか。支えになったときいた。
その方は学生時代からとても優しくそれでも少しか細いイメージだったのが。おとなになりとてもたくましい頼りになる社会人になって驚いたことがある。一般の友人でも外に住む家族でもなかなか会えない状況の中。一人暮らしであった小夏が仕事絡みではあっても、その方がいつも来てくれる状態だったということがとても心が休まったことでした。

再び会うことができるようになった一泊二日の会に行って小夏に再会していっぱいお話しできたこと。春馬くんのこともいっぱいお話しできたこと。自分の病気のことがあるのに聞いてくれたこと。
頂いた染色作家として作品のストール。
あれからも必ずストールを持っていきます。夏用も冬用もあるので。いつも小夏のことを連れていくつもりで!
春馬くんの気配探しをするときも春馬くんがしていた時計を必ずして、春馬くんとともに。春馬くんの気配探しをするように。
素敵だった小夏のこともず〜っとず〜っと覚えていて。これからも春馬くんのこともず〜っと覚えていて旅を続けて行きたいと想う🌸🐎



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