短歌 いいよ
短歌集を読んだことはあるだろうか。短歌といってもほとんどの人は学校の授業かプレバトぐらいでしか触れた機会がないであろう。そしてそれらで扱われる短歌は親しみにくいことがほとんどだ。
しかし現代短歌においては、歌人たちが自由な文体で己の考えや感じたこと、日常生活を反映させている。
ここからは私が呼んできた短歌集から気になった句を引用しよう。
ハンバーガーショップの席を 立ち上がるように 男を捨ててしまおう
俵万智「サラダ記念日」より
言わずと知れた俵万智氏の歌である。
「サラダ記念日」では、主に恋愛、実家を出ることについて歌われている。その中で私が異質に感じた歌がこれだ。歌集では様々な男性との恋が描かれており、それに沿って様々な別れもまた歌われている。その中で私がこの歌を異質に感じた理由は、作者から別れを告げている、という点にある。「サラダ記念日」において作者である俵万智は恋愛をする際に、相手にベタ惚れで恋を楽しんでいるように歌われている。その作者が「ハンバーガーショップの席を立ち上がるように」恋人を”捨てて”しまうのであるから、非常にスパイスが効いた1句であるように思われる。しかしこの句は「しまおう」というフレーズで締めくくられており、踏ん切りが付かなかった思いを自ら断ち切る為に己を奮起しているようにも感じさせる。 そのような思いをハンバーガーの包み紙に例えているのもまた秀逸である。
手を振れば お別れだからめっちゃ振る 死ぬほど好きだから死なねえよ
石井僚一
「死ぬほど好きだから死なねーよ」より
2014年に「父親のような雨に打たれて」で歌壇に登場された石井僚一氏の歌だ。
「手を降ればお別れだから手は振らない」というニュアンスのフレーズは台詞でもJPOPの歌詞でも使い古されたようなものであるが、この歌では「めっちゃ振る」のだ。確かにお別れなら振らないよりめっちゃ振った方がいい。
そして下の句も同様な構造をとっている。
死ぬほど好きだから死んじゃう!のではないのだ。死ぬほど好きだからこそ「死なねえ」のである。そしてその二語を繋いでいる「だから」が美しい。この「だから」は順接として意味が通っているのか、それても読者の予想を裏切っているという点において意味の通っていない接続詞なのか。
この歌においてそれはどちらでもよい。
ただ私はこの歌を読んで「確かに俺でも手はめっちゃ振るし絶対死んじゃダメだわ!!!!」と思わされた。そう読者に思わせた時点で、この「だから」は単なる接続詞ではなくそれ以上のものとして機能を果たしているのだ。
作者の思いの、歪にも思える素直さ、実直さ、意志に痺れさせられる1句である。
食べかけの アイスばかりの冷凍庫 ただしくなくてもたのしくいたいよ
上坂あゆ美
「老人ホームで死ぬほどモテたい」より
2022年に「老人ホームで死ぬほどモテたい」にて歌壇に登場された上坂あゆ美氏の歌である。
上坂氏の特徴は、10代の頃の鬱屈した思い出や家族間での問題をユーモアと諦観をまじえ、痛快に時には冷静に独自の言語センスで歌うことにある。
この歌では食べかけのアイスで満ちた冷凍庫を踏まえて「ただしくなくてもたのしくいたい」という希望を歌っている。作者は「ただしい」よりも「たのしい」を願っているのである。
それを象徴しているのが食べかけのアイスである。アイスを食べきっていないのにも関わらず次のアイスに手を出しそれで冷凍庫が満ちてしまっている。お世辞にも行儀が良いとは言えない行為であり「ただしい」ものではない。
しかし色々な幸せを啄んでいくという行為は「たのしい」ものである。もちろんこの歌は、アイスのみの「ただしさ」を歌ったものではない。
普段、我々は、ただしさのみに執着し、過ごしがちである。しかしたのしさも欲し、願っても良いのだ。私もただしくなくてもたのしくいたい、そう強く思わされる歌である。
以上に紹介した通り短歌は、堅苦しいものではなくむしろ私たちの生活を歌い、寄り添ってくれるものとなりつつある。
普段文章は読まないという人にも読みやすく共感がしやすいので是非短歌を読み、詠んでみてはいかがであろうか。