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地平線【小説】

プロローグ

長い長い道を走っている。この道を表現するなら地平線という言葉が最もふさわしいだろう。車の助手席に乗っている須田賢治は、右アシストグリップに掴みながら右窓の外に見える砂漠に目を向けた。遠くを見つめても終わりがないみたいに砂漠が続いている。空は青い。まさに大自然の中を走り抜けている。場所はアフリカ州のスーダン辺と思っている。正確な場所は分からない。ただ、ハルツームは超えている。なぜ分かるのかというと運転手から聞いたからだ。よってスーダンを南下している途中であると予想できる。

アフリカは暑い。アフリカ=暑いとは学校の授業でも習ったと思うが、異常な暑さだ。アフリカ人としては普通の感覚なのだろう。日本人の賢治自身は家庭用サウナに閉じ込められたような感覚が続いている。暑さのせいだろうか、空間が歪んで見える。まるで、メガネを外した瞬間のようだ。車の中には古いクーラーが付いていて、作動しているが、その効果はゼロに等しい。気休めといったところだ。それに加えて、道路の砂漠の砂利をタイヤが踏みつける。その振動で思わず舌を噛みそうになる。暑さや痛さに耐える為にアシストグリップを掴んでいる右手を強く握ると、あの時の感覚が頭に蘇ってくる。まるで走馬灯のように。

賢治は殺人を犯してしまった。衝動的だった。その時に使った手の感覚が今にでも鮮明に覚えている。右手はもちろん、左手もだ。忘れる訳が無いし、忘れたくても忘れることの出来ない事件を犯してしまった。つい数日前のことだ。遠い景色を見ているようで、頭の中では、あの時の情景が映画のワンシーンのように頭の中を駆け巡る。あの死んでいく顔を…

No.1

・埼玉県川口市某所

埼玉県警刑事の本堂英司は現場に到着した。殺害現場というのは住宅街から少し離れた裏路地だった。朝早くからの現場なので、眠さが残っている。目をパチパチさせて、肩を軽く回す。20代の頃の体力とは差が広がり過ぎている。やはり若さには勝てないのだと実感する。一時間前まで、さいたま市北区のアパートで寝ていた。上司からの連絡を受けてTシャツからスーツに着替えた。アパートの前でタクシーを拾って、ここまで来た。黄色い立入禁止テープを潜って、本堂は白いチョークで引かれた殺害現場を見る。朝早くなので、野次馬は少ない。マスコミの車が数台止まっている。遺体は司法解剖に回されているらしく、現場には遺体は無い。鑑識員がせわしなく動き回って写真を撮ったり、メモをしたりしている。まるで蟻だなと思った。そう思う本堂自身も蟻の一員に過ぎないのだが。

「本堂さんじゃねえか」

白の手袋を嵌めていると、頭の禿げた刑事係長の山下が来た。その横には自分よりも年下の刑事が居た。なぜ刑事か分かるのは若いが目つきが刑事の目をしていたからだ。自分と同じ雰囲気を発していることに気づいた。本堂英司は39歳だ。といいことは彼は30代になったばかりか。白い手袋を嵌めようとしてる手に結婚指輪を嵌めているのが見えた。新婚だろうと思った。その指輪は某有名ブランドの新作だ。数ヶ月前に発売されていたことを記憶している。独身の本堂は羨ましい気持ちと、若手の癖に浮かれてやがると毒づいた気持ちがあるのを自覚した。

「所轄刑事の滝見です。本堂刑事でしたよね。よろしくお願いします」

いつも、新しい刑事に会うときに聞くことがある。

「よろしく。聞きたいのだが、出身はどこかね?」

「え?あっ、岡山県です。」

滝見刑事は驚きながらも答えた。どうしてそんなことを聞くんだろうという表情が現れているが手に取るように分かる。横の刑事係長は不思議な物を見るような目でこちらを見ている。

「なるほど、気が合いそうだ」

その男の名前は滝見春夫と言った。最近、捜査一課に配属されたそうだ。身長は本堂より低いが、それでも170cm以上はある。山下刑事係長からの指示で滝見刑事と合同捜査を行なうことになった。いわゆる相棒と言う奴だ。頭の禿げた刑事係長は忙しいらしく鑑識に聞いてくれとだけ言ってから現場を離れた。川口署に行くらしい。

とりあえず、鑑識からの報告を聞くことになった。近くに居た30代半ばの鑑識員に現場状況や被害状況を説明させた。その鑑識員は抑揚のない声で現場の状況を説明した。手にファイルを持っている。

その鑑識員の話をまとめると、被害者の年齢は40代半ば、女性、身元不明、首を締められて死亡。前方から首を締められている。犯人は両手を使い殺害。死亡推定時刻は昨夜の22:30頃。第一発見者はジョギング中の20代男性。

本堂は辺を見渡した。昼も夜も人通りが少なそうな裏路地だ。夜になると誰も通ることのない場所だろう。即座に被害者と面識のある人物だと思う。前方から締めるのは被害者が誰かと口論になっていたからだろうか。面識の無い人物が前から締めれるだろうか?通り魔の犯行とも思えない。上司から命令されたのは第一発見者の証言をもう一度確認することだった。内心では、聞き込みを行いたかったが、他の捜査員が行っているので、特に人員を増やす必要は無いらしい。二人は川口警察署の取り調べ室に出向いた。

・川口警察署内の取り調べ室

本堂は第一発見者である西岡暁夫の前に座った。本堂の横に滝見刑事が立っている。薄暗い取り調べ室だ。

西岡暁夫27歳。さいたま市内で会社員をしている。いかにもスポーツマンという服装と体型をしていた。日焼けをしているのはゴルフをしているからだろう。腕の真ん中辺から下は日焼けしているが、手は手袋をはめたように白かった。ポロシャツを着て手袋を嵌めてゴルフをしているのだろう。

「朝の6時くらいに、いつもの習慣でジョギングをしていたら女性が倒れていました。一瞬で死んでいると分かりました」

「いつも裏路地を?」

こう聞いたのは滝見刑事だ。確かに不思議な点ではある。ジョギングコースとしては不自然なコースだ。

「ええ、変わった道を走っているんです。通行人の邪魔になったら迷惑ですかね。まあ、朝にすれ違う人はあまりいないですが。少し恥ずかしいんですよね走る姿を見られるのが」

「他に通行人や変わったことなどはなかったのか?」

「特にありません。驚いて110番しました」

その後も様々な質問をしたが、収穫はあまり得られなかった。被害者との面識は無いらしい。衝撃的なことなのでうる覚えなのは当然だろう。西岡に犯行推定時刻のアリバイを聞いても寝ていたので証人は居ない言っている。

・川口市某所

その後も、現場周辺の人に聞き込みに二人で出向いた。しかし、誰に当たっても目撃者は居ないし、悲鳴やおかしなことも無かったと言う。被害者の身元を確認するときに財布などを調べるのだが、何も持っていなかった。被害者の写真を見せる訳にもいかないので苦労した。遺体となった被害者の顔は何かに取り憑かれたように亡くなっていたからだ。そんな写真を見せて見覚えありませんかと聞く訳にはいかないので、40代女性で身長は150センチくらいとしか言えない。至って普通の女性だ。特徴は無いし名前も分からない。捜索願の特徴と照らし合わせても被害者と合致する捜索願はない。それは埼玉県内だけなので、東京や千葉を当たるのには時間が掛かりすぎるのは明白だった。他の捜査員も同様のようだ。もちろん他道府県の捜索願との照合は平行している。

東京区部とさいたま市に近い川口市では多くの人が住んでいる。住宅街を一通り回ったので、近くのスーパーに聞き込みに回った。ここは東京に近いベッドタウンなので一軒家が多い。捜査員は数人いるが、一軒家、一軒家回るだけでも時間が掛かった。これでスーパーの聞き込みは3件目だった。スーパーの若手バイトに「警察です。店長を読んでくれ」と伝えると怪訝な目をしながらも店長を呼びに行った。数分して店長らしき男が奥の倉庫らしき場所から出て来た。年齢は50代前半くらいか。まんまるとした体型からダルマを連想した。白色のネームプレートに横谷三郎・店長と書いている。

「昨夜、この付近で殺人事件がありました。何か変わったことなどありませんか?」

殺人事件と聞いて横谷店長は細めていた目を見開いた。ますますダルマに近づいた。手を開いたり閉じたりしている。

「変わったことと言ったら大げさですけど、無断欠勤をしているパートが居るんです」

おっとりとした口調で話している。多分ズボラな性格なのだろう。相変わらず手を開いたり閉じたりしている。

「その人の履歴書を見せて貰えませんか?」

「履歴書ですか?まあ、ありますけど」

そう言って、のそのそと、さっき出て来た室内に入った。数分してから一枚の紙切れを持って出て来た。横谷店長は無言で滝見刑事に手渡した。それを受け取った滝見刑事は目を見開いた。見開いた目をこちらに向けながら、無言で履歴書を手渡してきた。受けとって反射的に証明写真を見た。

紛れもなく被害者だった。名前は須田洋子・川口市在住・年齢は45歳…

重要な手がかりが見つかった。

No.2

数日前、賢治は日本の羽田空港から飛行機でエジプトにあるカイロ空港までやって来た。妻を殺した直後には頭が真っ白になったが、どこか遠い場所に逃げようと思った。それは一種の現実逃避かもしれない。いずれ警察にバレるのだから、身を潜めれる場所ならどこでも良かった。少しでも捕まる事を先延ばしにしたかった。遠い場所に逃げようと思ったのには理由がある。数ヶ月前になるが、パスポートの更新をしたことを思い出したのだ。その時に海外逃亡の四文字が脳裏を過った。自宅に帰るとパスポートと現金を取り出して、リュックサックに着替えや必要品と一緒に詰めて、すぐに空港に向かった。そして、早朝の飛行機のチケットを買った。数万円したが、払えない金額では無かった。

いずれ警察が羽田空港を調べれば須田賢治がどこの国に行ったのか分かるであろう。行き先なんてどこでも良かった。どうせ捕まったら刑務所行きだろう。死刑にはならないかもしれない。だけど、何年になるか分からないが、長い期間を刑務所という場所で過ごすことは容易に想像できた。日本から離れて遠い国を目指そうと思った。そして、須田賢治は空の玄関である空港から遥か遠い国、エジプトに向かった。

数十時間して、カイロ空港に着いた。警察は捜査を始めているだろう。これからどうしようか。このまま南下して行こうと思った。とにかく遠い所まで。特に目的地は無い。そう思いながら暑い道を歩く。数十分くらい歩いていると前方に一人の男性が居て、紙を車に見せるよう立っている。そこには『ヒッチハイクをしています。チャドに連れて行ってください』とフランス語で書かれていた。なるほど、ヒッチハイクか。その男性の前に車が止まった。ここでは、日本とは運転席が逆なので、その車の運転席と近距離で話すことが出来る。その男性は承諾されたらしく、右手に回って助手席に乗り込むなり、車が発進した。ヒッチハイクでは目的地が必要だ。ただ適当に走ってくださいということも出来なくはないが、運転手に不審に思われる。

少し考えて、南アフリカ共和国行きたい旨を伝えることにした。南アフリカ共和国はアフリカ州の一番下にある。ちなみにエジプトはアフリカ州の一番上にある。その二つの国の距離は日本では考えられないくらい遠い距離だ。もちろん、一台で行くわけでは無い。何台も車を乗り換えて行く。とにかく最初の一台に乗らなければならない。持っていた紙にフランス語で『南アフリカ共和国に行きたいです。乗せて下さい』と書いた紙を道行く車に見せた。殆どの車が通り過ぎていく。何分経っただろう、賢治の前に一台の車が止まった。

その車は赤色の大きな車だ。運転席の男にヒッチハイクの趣旨を伝えた。もちろん、フランス語で。最初は驚いた様子だった。無理もない。話を聞くと、それは遠いからでは無いようだった。その男も南アフリカ共和国に旅に出ようとしていた所だったのだ。さっきの男性と同じように右手に回って、右ドアを開けて、助手席に乗り込んだ。そして、車は発信した。長い旅になりそうだ。

運転席の男の名前はサトム・アレキサーと名乗った。サトム・アレキサーの年齢は40代くらいか。白いヒゲを綺麗に生やしている。自分と同い年くらいだ。須田賢治は47歳である。職業を聞くと自由人だと言った。しかし、真偽は分からないし詮索しようとも思わない。まあ、暇だと言うことは分かった。それから走り続けた。エジプトを抜けるまでに何時間も走った。長い長い地平線を走っている。アシストグリップに右手を握りながら数日前のことを思い出していると激しい振動を感じた。車が横に揺れたのだ。何事かと思いサトム・アレキサーの方を向いた。運転席側の窓の外を見ると、遠くの方から軍服を着た軍人らしき人がマンシンガンでこの車に銃弾を発砲している。数人は居る。流れる銃弾が不謹慎にも流星に思えた。そう思ったのは一瞬のことで、我に返った。サトム・アレキサーは「ゴンゴ民主共和国の軍人だ」と早口で言った。その時だった。サトム・アレキサーは流れ弾で左腕を撃たれた。たちまち車が急停車した。その腕を見ると血が出ていることが分かった。

「速く逃げろ!」

サトム・アレキサーは顔をしかめながらそう叫んだ。直感的にここに居てはヤバいと思い、ドアを開けてひたすら走って逃げた。幸い、車の影になって狙いが定まらぬようで、銃弾は聞こえなくなった。まだ撃っているが聞こえないほど離れたのかは判別が付かなかった。とにかく必死で走った。暑くて終わりが無いような場所を走っている。もちろん目的地がある訳じゃない。二時間ほど走ると前方に村らしきものが見えてきた。麦藁で作られた簡易的な建物は住居のようだ。村には大人たちはもちろん、子供たちが沢山居た。しかし、活発に遊んでいる子は少ない。みんな痩せている。気力が感じられないのだ。アフリカの子供たちが貧困生活を強いられているという記事を見た記憶が脳裏を過ぎった。そう思いながら村の周りを歩いていると日本人らしさを感じる女性が前方に居た。思わず足がその人に向いて歩いていった。

No.3

・川口警察署の捜査一課内

机の上には履歴書が乗っている。本堂は滝見刑事と共に履歴書を見た。横谷店長に許可を得て、須田洋子の履歴書をコピーさせてもらったものだ。これはコピーの方だ。店長から被害者について話を聞いたが、普通のパートでプライベートな関わりは無いと言っていた。大人しい性格で淡々と仕事をこなすタイプだったようだ。家族構成についてはあまり話していないようだ。被害者の名前さえ分かれば、家族構成などは簡単に調べられる。被害者の家族構成は夫である須田賢治47歳・一人娘の須田琴音19歳。須田賢治はさいたま市内にある会社の会社員。須田琴音は品川区にあるアパートで一人暮らしで、職業は不明。ごく普通の家族構成だ。須田賢治には一人の弟が居る。被害者の須田洋子は一人っ子だ。

近くの席でふんぞり返っている山下刑事係長は朝から機嫌が悪い。速く犯人を逮捕出来ないからだろう。たしかに捜査は難航している。被害者を恨んでいる人も見つからないし、被害者を殺害して得する人物も居ない。そもそも交友関係が殆どないと言ってもいい。被害者の同級生にあたっても目立つ存在では無かったそうだ。被害者は生命保険にも入っていないし借金も無い。考えを巡らせながら人差し指で机の上をコツコツと叩く。たくさんの捜査員が聞き込みを行っているが、これと言った情報が無い。住宅街の裏路地となれば深夜ならもちろん、昼間でも誰も通らなくても不思議ではない。多様な働き方があるとしても、やはり深夜は静まり返っている。寝ている人が大半だろう。悲鳴を聞かない人が多いのは、やはり人見知りの犯行だろうか?ますます人見知りの犯行説が濃厚になっていく。

・川口市某所

被害者の夫である須田賢治は夫婦で川口市内のマンションに住んでいたようだ。一人娘の須田琴音もここで育ったらしい。須田家のドアの前でドアホンを鳴らしてみたが、出てくる気配が無い。居留守を使っているとは直感的に思えなかった。横の部屋のドアホンを鳴らしてみると数分して、主婦らしき人が顔を覗かせた。年齢は50代くらいか。大阪のおばちゃんという感じがした。その人に左隣の部屋に付いて聞いてみたが、関わりは無いそうだ。妻と挨拶を交わすくらいで特に交流は無いらしい。夫の須田賢治について聞き込みしたが、こちらも挨拶を交わす程度の関係だ。娘は見た記憶が無いらしい。やはり、都会になればなるほど人の繋がりが少なくなっていくので捜査しにくい。本堂は広島県出身だ。その人に礼を言って、須田家の左隣のチャイムを鳴らしたが、こちらは反応は無かった。会社にいるのだろうと思った。しかし、おかしい。被害者の死亡から結構経っているが、夫や娘からの連絡が無い。こちらから掛けても留守番電話になっている。東京暮らしの娘はともかく、同居している須田賢治はなぜ警察に相談しないのか?それとも相談出来ない理由があるのか?とにかく須田賢治の会社に行ってみるしかない。

・埼玉県さいたま市大宮区

大宮駅から歩いて数分の場所に須田賢治が働いている会社はあった。新食品を開発したり販売したりする食品会社だ。社員規模は数十人くらいか。会社のドアを開けると前に一人の受付嬢が座っていた。年齢は20代後半くらいか。なかなかの美人だ。受付嬢に須田の部署はどこかと聞いた。受付嬢の目が、一瞬、大きく開いた気がした。身分を提示されたので、警察手帳を見せた。怪訝そうな目をしながら、その受付嬢は手元の電話で何やら話しだした。須田賢治がいる部署に電話しているのだろう。

「須田さんがどうしたのでしょう?」

受付嬢が聴いた。

「ある事件の関係者である須田賢治さんに聞き込みに来ました」

その受付嬢の質問に答えていると、一人の中年の男性がエレベーターから降りてきた。

「開発部長の山岡です。須田は二日くらい前から無断欠勤しているんです」

頭の禿げた部長はしかめっ面しながら事情を説明した。ここも無断欠勤か。疑惑は確信に変わっていく。居なくなった日付を確認したところ、被害者が殺された直後に須田賢治は姿を消した。警察の手から逃げるためだろうか?犯人は顔見知りの人間である確率が高い。ならば須田賢治なら犯行が可能だ。ただし娘のアリバイを確認してからだが。それにしても動機はなんだろう?もし須田賢治が犯人だとしたら実の妻を殺害したことになる。どうも考えられない。山岡部長に須田賢治について訪ねてみたが、会社では目立たない存在で、定時になるとすぐに帰るそうだ。飲み会や同僚の誘いにも乗らないらしい。聞き込み終わりに新婚の滝見刑事に妻を殺す感情について聞いたが、

「そんなの考えられません。考えるだけ寒気がします」

と首を強く振りながら答えた。当たり前だなと独身の本堂も思った。

・東京都品川区八潮

東京都の街を助手席に乗りがら眺めている。街ゆく人はどこに向かって歩いていんだろう。それぞれの人に、それぞれの思いを抱えている。渋谷スクランブル交差点を通り過ぎる時、その思いが交差する場所だと思った。東京といえば警視庁の知り合いに上野刑事や水島刑事が居ることを思い出した。相変わらずカツ丼でも食べているかな。埼玉県から滝見刑事の運転する車に乗って東京まで来た。休日は池袋に時々来ることがあるが、品川まで来たことは無かった。向かう先は被害者の娘が一人暮らしをしている場所だ。アパートの前に車を止めて、錆びた階段を上がって部屋の前まで来た。部屋は201号室だ。ドアホンを鳴らしても居ない。ここもか。反射的に左隣のドアホンを鳴らす。しばらくして、部屋のドアが開いた。出てきたのは30代くらい女性だった。右隣の部屋に付いて聞いてみたが、やっぱり面識は無いそうだ。期待してはいなかったが、同じようなことを聞いて、同じような答えが返ってくるのは辛い。個人主義の時代を鮮明に実感した。

「そうえば、よく彼氏らしき人が出入りしているのを見ました」

そして、この聞き込みで最も進展があった情報がこの一言だった。その彼氏というのも気にはなるが、須田琴音を待つために、それから車の中で張り込みをすることにした。何時間経っただろうか?運転席の滝見刑事はあくびをしている。夜遅くになって須田琴音らしき人が201号室に入るのを確認した。車から降りて、ドアホンを鳴らす。そしたら、すぐにドアが開いた。その女性は化粧をバッチリとしていた。雰囲気から水商売をしているのだなと思った。

「埼玉県警の本堂です。こちらは滝見です。須田琴音さんですよね」

二人同時に警察手帳を見せながら本堂は聞いた。

「そうです」

真っ赤な口紅をした須田琴音は怪訝な目を向けながらも頷いた。

「母親が亡くなったのはご存知ですか?」

須田琴音は知らなかった。事件の内容を大まかに話した。

「あなたの父親である須田賢治さんが行方不明です。ご存知ありませんか?」

「最近は父と母とも連絡を取っていません」

須田琴音は神妙な顔つきで首を横に振った。長い髪が少し揺れた。あまり驚かないのも不思議に思った。親と子の仲は悪いようだ。

「二日前の22:00~23:00頃、あなたは何をしていましたか?」

横に居る滝見刑事が聞いた。

「バー『黄色の薔薇』で働いていました21:00〜00:00頃まで働いています」

その時、階段を上がる音が聞こえた。横を見ると大学生くらいの男がこちらを怪訝そうな目で見ている。髪色は茶髪で身長は170cmくらいか。痩せている。ネギを想像した。

「君は?私はこういうものだ」

その男に警察手帳を見せると、驚きの表情をして階段を駆け下りだした。追うように指示する前に滝見刑事は男の跡を反射的に追いかけ階段を降りて行った。振り向くと須田琴音は突然の出来事にあ然としていた。口を半開きにしながら階段の方を眺めている。そこだけ時が止まっているように感じた。

「あの人は?」

「友田…春樹…私の彼氏です」

隣の住人が言っていた彼氏らしき人だなと合点がいった。

「なぜ逃げるのかな?やましいことが無ければ逃げないはずだけど」

さあ、という風に首を傾げている。数分すると友田春樹を捕まえた滝見刑事が戻ってきた。友田春樹は腕を撚られながら抑えられているので渋そうな顔で俯いている。

「なぜ逃げたんだ?」

友田春樹にそう言うと、滝見刑事は懐から小さなビニール袋を取り出した。無言でこちらに向けてくる。中に入っているブツを見て納得した。そこには数gの覚醒剤らしき白い粉が入っていた。

・品川警察署内の取り調べ室

友田春樹を覚醒剤所持で逮捕した。年齢は21歳。都内の大学に通っている大学生(3年生)。須田琴音と出会ったのは数ヶ月前に中野区で声を掛けて付き合ったらしい。いわゆるナンパだ。しかし、真偽は分からない。とにかく入手先を聞き出さなければならない。横に滝見刑事と水島刑事が居る。上野刑事は別の事件の捜査中だ。

「この覚醒剤はどこで買った?」

例の覚醒剤の入った袋を見せた。滝見刑事が見つけた物だ。友田春樹の尻ポケットに入っていたらしい。追いかけた時に尻ポケットの膨らみに違和感を持ったようだ。鋭い観察力だなと思った。

「琴音…須田琴音さんが働いていているバー『黄色い薔薇』で買いました」

深く項垂れている友田春樹は素直に自供した。須田琴音に近づいた理由は恋からではなく覚醒剤の入手ルートを増やすためだったと推理した。入手先のオーナーに近づきたいという心理から須田琴音に近づいたようだ。

それから、中野区にあるバー『黄色い薔薇』に警視庁の捜査が入り、オーナーのマリコこと末永真織47歳を覚醒剤売買で逮捕した。その捜査に本堂と滝見刑事は回された。覚醒剤販売リストには埼玉県在住の大物芸能人や課長補佐級の官僚も居た。それにより隠蔽されたものもあるが、芋づる式の逮捕劇になった。覚醒剤リストに居た埼玉県さいたま市在住の某有名ミュージシャンの家を家宅捜索しながら、須田賢治の捜査が手薄になってきたと本堂は感じた。某ミュージシャンが使用していたアコースティックギターを見ながら事件は別の方向に転がってしまったと感じた。いつになったら犯人であろう須田賢治が見つかるのか?

No.4

賢治は少し近づいてみると、その女性は料理をしていた。年齢は20代後半くらいか。長い髪をポニーテールにしている。よく見るとフライパンでチャーハンらしき物を炒めていた。香ばしい匂いが漂って、腹が鳴りそうになる。そういえば朝から何も食べてないことに気づいた。最後に食べたのは昨日の夜のハンバーガーか。ときどき車を止めてドライブスルーに入ったりして食いつないでいた。サトム・アレキサーが払う時もあるが、賢治自身が払うこともあった。調味料を加えていた女性は人が立っている気配を感じたらしく、こちらに目を向けた。目が合った瞬間に女性の顔に驚きの表情が宿った。その女性は目を見開いた。

「日本人ですか?」

「そうです。日本人です」

そう聞かれたので、そう言うと、その女性は料理を作っている手を止めて、こちらに近寄ってきた。その女性はどうしてここに居るか聞きたいと言った。木で作られた机を勧められたので、そこに向かい合うように座った。その女性にはヒッチハイクで旅をしている途中だと嘘を付くことにした。

その女性の名前は遠野美咲と言って、貧困支援団体の団体員をしているらしく、大学卒業後、医療機器メーカーに勤めていたが、医療に関わる内に貧困の世界について研究したいと思ったらしく、こうして各国の貧困の子供たちに料理を作るボランティアをしているらしい。子供の頃から誰かの役に立ちたいと思っていたそうだ。この支援団体は会員のボランティアや一般人や法人などの寄付で成り立っているらしい。

「あなたは、どうしてこの場所に?」

「実は、ヒッチハイクの途中で、銃撃戦に巻き込まれてしまって、ここにたどり着いたんです」

「そうですか。戦争は誰も幸せにしない。国の偉い人が決めて、お金も人の命も消えていく。良いことなんて一つもありません」

「遠野さんの目指すビジョンってなんですかね?」

「世界平和と言ったら大げさかもしれません。でも、平等や平和の世界に近づく為には力が必要なんです。だから私は大げさでも目標を持って、働き蟻のように自分たちに出来ることをしています。そこには沢山の人の支えがあるからこそ頑張れるんです」

遠野美咲の真剣な眼差しで語る姿を見て、こんな素晴らしい考えを持った人が居るとは思わなかった。そういえば、食品会社で働いていた時、職場の同僚が貧困の家庭でも安くて栄誉バランスの取れる食材を開発したいと言っていたことを思いだした。自分はただ会社に勤めているだけで、貧困のことなど真剣に考えたことが無かった。遠野美咲のビジョンというものも無くて、ただ刻々と定時を待っているだけだった。世界、いや日本の貧困でさえ向き合ったことなど無かった。なんて自分は薄っぺらい人間なんだろう。

そう思いながら遠野美咲を見ていると、別の団体員らしき人が子供たちに料理を渡しているのが見えた。30代後半の男性のようだ。運ばれた料理を見て子供たちが喜んでいる。

「あの人も団体員の人?」

「あの人は支援団体のサポーターです」

その男は料理を作ったり、子供たちとボール遊びをしたりしていた。子供好きなんだなと思った。今思えば、一人娘に父親らしいことをしたことは無かった。いつも仕事の疲れからか、娘とは遊べなかった。だからグレてしまったのだ。もっと子供のことを理解していれば良かった。悔やんでも仕方がないことだと分かっている。だけど、胸に来るものがある。ここに座っているだけではボランティアの邪魔になるだけだ。乗りかかった船だから、支援団体員の手伝いをしようと思った。

こんなことをしても、犯した罪が消えないことを知っている。逆にこのようなことをして、罪が消えるのであればやるというのは失礼である。だけど罪滅ぼしの為にボランティアしたい。一人でも役に立ちたい。遠野美咲の真剣な話に心を動かされた。そして、サポーターの男性に手順を教わった。まずは、プラスチック製の皿にチャーハンとカレーを盛り付けて、子供たちの席に運ぶ作業を始めた。子供の前に皿を置いたとき、子供たちの目の輝きが違うことに気づいた。貧困だから目が死んでいる訳ではないことに気づいた。いつ武装勢力に命を狙われるか分からないから一分一秒を大切にしなといけない。今を生きるのに必死の目をしている。過去に執着するのではなく未来に目を向けて生きているという目。未来にはきっと希望が溢れていると信じて。

それから数日が経った。寝泊まりは支援団体員専用のテントで寝た。様々な手伝いをしながら、貧困について学んだ。それは知らなかったことばかりだった。食品会社に勤めていたおかげで、美味しい食べ物を作ることが出来た。誰かの役に立っていることを直接実感することが出来た。賢治自身のモチベーションが上がった。今日もいつものようにフライパンで肉炒めを料理しながら、横の方を向くと、向こうの方からスーツを着た男が二人歩いてくるのが見えた。

No.5

・群馬県前橋市某所

本堂と滝見刑事は前橋市内の商店街の中を歩いていた。ようやく須田賢治を探す捜査に戻れた。その間も他の捜査員が捜査していたが、手がかりは無いようだ。被害者こと須田洋子の旧姓は川西洋子である。その川西洋子が育った場所を訪れている。人通りが少ない商店街を歩いていると『カワニシ服』と書かれた古びた看板を見つけた。近くの店の人の話によると川西洋子の父である店主は商店街組合の副会長をしているらしい。川西三郎の妻・川西洋子の母はガンで数年前に他界している。老舗らしく数十年前から営業しているという。『カワニシ服』に入ると一人の老人が老眼鏡を掛けてレジの後ろに座っていた。年齢は80代くらいか。レジの後ろに沢山のダンボール箱が置いてある。服が入っているのだろう。店内の壁には値段のタグが付いた服がハンガーで吊るされている。数十個ぐらいあるだろう。ワイシャツもある。こじんまりとした服屋さんだ。

「埼玉県警から来た。本堂です」

その老人、川西三郎は怪訝な目をした。

「娘のことかね。孫から聞いた」

須田琴音のことだろう。今、彼女は覚醒剤の件で事情聴取を受けている。警視庁の水島刑事が担当しているらしい。カツ丼を食べているシーンが頭に浮かぶ。

「須田賢治が行方不明です。何か心当たりはありませんか?」

「知らんな。賢治くんは真面目な人で、そんなことはしない人だと思うのだが」

その話し方からすると川西三郎は須田賢治が犯人だと思っているようだ。無理もない、タイミングよく行方不明になるのは不自然だ。須田賢治が犯人となるとすべての辻褄が合う。ただ動機が分からないだけだ。川西三郎は須田賢治と川西洋子が出会った時のことを目を細めて話しだした。

須田賢治が出張で前橋市まで来た時に道端で転んでワイシャツを汚してしまった。その時は雨だった。そして、変えの服を用意していなかった。雨宿りするついでに通りかかった商店街で『カワニシ服』を見つける。そこで、当時『カワニシ服』で働いていた川西洋子と出会ったのだった。川西三郎は当時のことをスラスラと話した。川西三郎も一緒に働いていたようで、第一印象は真面目な好青年で、爽やかな人だったそうだ。娘から二人の結婚の報告をされた時は驚いたそうだ。ということは父に内緒で二人は交際していたらしい。

それからも川西三郎に昔の被害者の話を聞いたが、川西洋子の同級生に聞いた話と殆ど変わらなかった。本堂が話している間、滝見刑事は服を眺めながら考え事をしているだけだった。特に質問する気は無いらしい。

・埼玉県川口市某所

次の日、本堂と滝見刑事は須田賢治の実家に来た。住宅街の中にある普通の一軒家で、都内に通勤するサラリーマン家庭に生まれた。須田賢治の両親は二人とも数年前に他界している。ここに住んでいるのは須田賢治の弟である須田竜次だ。独身で、都内の会社に勤務している。玄関のドアホンを鳴らして、数分するとジャージ姿で現れた。太っているらしくお腹が出ていた。いつものように自己紹介をして警察手帳を見せた。

「警察?兄さんとは仲が悪いから関わりなんてないぜ」

そういうなり、両眉を上げた。声に不快感が現れている。だいたい事情を知っているようだ。それなら話が早い。

「須田賢治が行きそうな場所を知っていませんか?」

滝見刑事が聞いた。

「だから、知らないって。俺より兄の同級生の小高さんの方が詳しいぜ」

ハエを追っ払うように手を降って、ドアを激しく閉めた。まともに話す気は無いらしい。他の捜査員に電話で、小高という同級生がどこに勤務しているか調べてくれと頼んだ。数分して、小高こと小高隆は川口市内にあるパスポートセンターに勤務しているらしい。早速、滝見刑事の車で向かった。

小高隆と思われる人物はカウンター席であくびをしていた。近づくと慌てて口を閉じた。あくびをしていたことをバレているのを知らずに。小高隆は客だと思い愛想笑いをした。いつものように警察手帳を見せ、聞き込みを始めると最近は須田賢治と連絡を取って無いと言った。

「最後に会ったのは、数ヶ月前くらいにパスポートの更新をした時かな」

パスポート更新。海外逃亡の四文字が頭を過る。須田賢治は海外に行ったのかもしれない。横の滝見刑事も同じ思いのようで顔をこちらに向けていた。

「須田賢治は外国語が得意ですか?」

「同じ英文科に通っていてね。大学の頃は得意科目って言っていました。特にフランス語が堪能だった」

小高隆の聞き込みを終えて、他の捜査員に須田賢治が空港を使ったか調べるように指示した。埼玉県は空港が無いので、関東地方の空港を当たってみるように言った。数十分後、須田賢治が羽田空港からエジプトのカイロ空港に向かったことが分かった。海外は管轄外だ。しかし、須田賢治がなぜ逃げたのか気になる。旅行と休暇を兼ねてエジプトに向かうことに決めた。もちろん、滝見刑事もだ。滝見刑事は妻と遊びに行く予定だと言っていたが、本堂は滝見夫人本人に頭を下げて、滝見刑事に同行してもらうように頼んだ。本堂は海外旅行をしたことが無かったし、英語が堪能な滝見刑事を連れて行きたいからだ。

ようやく夫人の許可が取れて、有給休暇を使うことになった。そのことに付いて山下刑事係長は不機嫌な態度を見せたが、渋々許可してくれた。

羽田空港から数十時間後、エジプトのカイロ空港に着いた。これだけでも長旅だった。二人はカイロ空港から出た。外は凄く暑い。空間が歪んで見える。スーツを着てくるんじゃなかったと今更ながらに思う。横で滝見刑事はうんざりとした顔をしている。

その時、向こうから一台の赤い大きな車がこちらに来た。その車は向かってくるなり二人の手前で止まった。運転手から体調の悪そうな男が出てきた。アジア人?と聞かれたので、英語で滝見刑事が答えた。滝見刑事を通した、その男の話によると、数日前に軍人に銃で狙撃されたという。一命を取り留めて、生き残った。しかし、一緒に乗っていたアジア人の男性と離れ離れになった。だから、カイロ空港辺りでヒッチハイクしたのを思い出して、ここまで探しに来たらしい。同じアジア人らしき人を見つけては声を掛けているらしい。その男の名前はサトム・アレキサーと言った。

同行していた人の名前は?と滝見刑事が聞くと、分からないが、40代くらいの男性だという。どこで狙撃されたかと滝見刑事が聞くとゴンゴ民主共和国あたりと言った。滝見刑事は狙撃された場所まで行って欲しいと言った。承諾されたらしく車の後部座席に滝見刑事が乗ったので、本堂も滝見刑事の右隣に座った。ドアに沢山の銃弾の跡らしき物が付いていた。クーラーが付いているが、気休めといったところだ。車が発進した。

長い長い道。それを表現するなら地平線の砂利道を走りながら、本堂は離れ離れになった人物は須田賢治だと確信した。ここまで来たのだから絶対に捕まえてみせると思った。サトム・アレキサーはどこで狙撃されたか忘れたらしく曖昧に運転している。長い旅になりそうだ。数日後、一つの村に着いた。車を降りて、二人は歩く。相変わらず暑い。数10m前方に日本人らしき人が居た。フライパンで料理をしている。目を凝らして見た。

間違いない。須田賢治だ。

No.6

賢治は近づいて来た二人を見た。この暑い中、スーツを着ている。二人とも目つきが険しい。日本人みたいな顔をしている。思わず料理している手を止めた。

「須田賢治だね。こういう者だ」

二人は黒い警察手帳であろう物を見せてきた。ということは刑事だ。まさか、刑事がここまで来るとは思わなかった。空港を調べたのだろう。しかし、ここの村はカイロ空港とは離れた場所にある。ここまで追いかけてくる努力に観念した。いや、ここまで来たのだから嘘を付いたり抵抗しても無駄だ。真実をすべてを打ち明けよう。

「私がやりました。妻を殺しました。些細な事だった。マイホームを買うか買わないかで喧嘩しました。口論になって首を締めました。幽霊よりも怖いのは人間だと身に染みて感じました」

刑事に話していると、あの日の手の感覚が蘇って来た。会社帰りの深夜、「裏路地に来て」と朝に妻に言われたので行った。その場所に行くなり、マイホームが欲しいと言い出した。最近、ずっと言っている。マイホームは買わない主義の賢治としては願いを聞けなかった。娘も独り立ちしたのだから、マンション住まいのままでいいじゃないか。そう思っていた。嘘を付いて、そんな余裕は無いと言うと。

「不倫する金はある癖に?」

と言われた。賢治の額から汗が出てきたのが分かった。賢治は不倫していた。その日も彼女と会っていた。定時に帰ってから、ここに来るのが深夜になったのは、不倫していたからだ。相手は会社の受付嬢だ。その事を妻は知っていた。女の勘は鋭いなと思った。同時に焦りが出てきた。離婚して受付嬢と結婚するつもりだった。しかし、妻にバレてしまった。別の女と結婚したいが為に離婚すると言えない。別の離婚理由を切り出すつもりだった。知られてはいけない秘密を知られた焦りで手が勝手に動いた。それは妻の首に向かった。それから両手に力を込めた。妻は悲鳴を挙げなかった。ゆっくりと苦しんで、最後は呪われた顔をして、死んだ。

その話を聞いている二人の刑事は驚きの顔色を見せなかった。もしかしたら、すべてを知っているのかと思った。少なくとも、ここまで追い上げてくるのだから犯人だと確信していたに違いない。

その事件の裏側を話していると、背後に人の気配を感じた。後ろを振り向くと遠野美咲が居た。手に皿を持っている。遠くからサポーターの男性も見ている。二人とも不安そうな目を賢治と刑事に向けている。

「私は日本に帰ります。短い間でしたけど、お世話になりました。私がどういう人間かは察して下さい」

遠野美咲に、そう言い残し、踵を返して刑事に近寄った。背の高い方の刑事が懐から手錠を取り出して、賢治の手に手錠を掛けた。『ガチャリ』という音が聞こえた。遠野美咲もサポーターの男性もこの光景を見ている。しかし、後ろを振り向くことが出来なかった。振り向くのが怖かった。前の方向を向いたまま、刑事に連れて行かれた。少し歩くと、目の前に赤い車が止まっているのに気づいた。見覚えのある赤い車だ。運転席に座っている人を見て、思いだした。名前はたしかサトム・アレキサー。サトム・アレキサーはこちらに目を向けていて、目が合った。サトム・アレキサーは悲しい目をしていることに気づいた。

その車の後部座席に二人の刑事に挟まれる形で座った。左隣の背の低い方の刑事が言うには、このままカイロ空港に行って、日本に帰るらしい。これから、また長い旅になりそうだ。長い長い旅に。

エピローグ

長い長い地平線を走っている。後部座席の真ん中の席からフロントガラス越しに見える地平線を眺めている。二人の刑事は窓側に映る遠くの景色を見ている。相変わらず道は続いている。その先には何があるのだろうか。この景色に終わりはあるのだろか。

ー終わりはあるのかだろうかー

子どもたちと一緒に、ご飯を食べている時に、遠野美咲が言っていた言葉を思い出した。

「世界が平和になって、貧困が無くなる世界が来ると信じています。いつ、貧困の世界が終わるか正直分かりません。でも、自分たちに出来ることをするだけで、少しでも終わりに近づくことが出来るのです」

遠野美咲の言う通りだと思った。貧困の世界が無くなる=終わりはあるのだろうか。貧困の連鎖が終わる素敵な世界が来るのだろうか?毎日、支援団体員専用のテントの中で考えていた。貧困の世界を実際に目にしてきたけど、こうすれば終わるという答えなんて出なかった。いや、答えが出なくてもいいのだ。今、私達が出来ることをしていくだけでいい。それがどんなに小さくても。例えば、この長い道をひたすら走るように。

須田賢治は長い地平線を見ていた目を細めて、ゆっくり閉じた。

〜作者からのメッセージ〜
この話は逃走中の須田賢治と、刑事である本堂・滝見刑事が交差する物語である。エジプトと日本。遥か遠い国を舞台にした。刑事の捜査によって、少しずつ須田賢治のことが分かる。一方、須田賢治は貧困の世界に直面する。遠野美咲の言葉は僕の言葉でもある。少しでもいいので、貧困について考えて欲しい。貧困と刑事物の組み合わせは珍しいと思う。この作品を書くにあたって、直面したのは時系列である。事件が起きた日を正確に出さず、刑事の捜査の日数がどれだけ経過しているか書かないのはエジプトまでの時間や車での移動日数を考慮したからである。だから、数日と記している。だいたい事件から逮捕まで1週間くらいを想定して書いている。地平線の景色をたまたま映画で見て、この作品を書こうと思った。いつもの作品より長文の物語になりました。『幻交』より自信作です。

植田晴人
偽名。アイディアをメモして、肉付けしていくのが小説を書く上の楽しさです。






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