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米津玄師が辿り着いた究極の普遍とは?

「それが、Lemonだったのかと。。。」

 自分の手を離れ遥か遠くへ行ってしまった名曲を茫然と見送り、呪いのようだと呟いた。普遍的なポップソングを目指して歩み続け到達した最初のゴールは、米津には意外だったようだ。(文中敬称略)

 ネットメディアの台頭により趣味嗜好、興味関心に基づくマーケットの細分化が進む中、大衆と言う概念は過去の遺物になりつつある。細かく分断されたクラスターはどんどん小さくなり、そのサイクルはめまぐるしい。

 そんな世の中で普遍的な音楽を目指すのは容易なことではない。

しかし、2018年
日本中が苦いLemonの匂いに包み込まれた。

発売からわずか半年余りでダブルミリオンを達成。2年以上経った今でも6億を超えるMVの再生回数は伸び続けている。

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 この現象を「遠くの山火事に向かいバケツの水を持ってただ立ち尽くすしかなかった」と表現した米津は、おそらくこの時に気づいたのではないか?

そこに「究極の普遍とは何か?」の答えがあることに。

老若男女、古今東西、誰もが胸を締め付けられ、涙し、決して忘れることも逃れることもできない普遍的なものとは、、、

死だ。

 昭和から令和の今でも歌い継がれている普遍的なヒット曲には死をテーマにしたものが多い。思いつくままに書き出せばキリがないほど。

ひこうき雲(ユーミン)
喝采(ちあきなおみ)
蕾(コブクロ)
返信(竹内まりや)
プラネタリウム(大塚愛)
粉雪(レミオロメン)
瞳をとじて(平井堅)
星屑のステージ(チェッカーズ)
花束を君に(宇多田ヒカル)
ロード(虎舞竜)
ハナミズキ(一青窈)
会いたい(沢田知可子)
精霊流し(さだまさし)
千の風になって(秋川雅史)。。。

新しいところでは鬼滅の刃の主題歌である「炎」もそのひとつだろう。

 広く遍くより多くの人たちに自分の音楽を届けたいという米津の想いは、万人に共通する「死」に焦点を結んだのではないか?

 死はあらゆる人生や芸術の根源を成す哲学であり、感情を揺さぶるものであるが、安易に手を出せば陳腐な「お涙ちょうだい」に陥るテーマでもある。

「号泣!」「泣ける!」を目的とした「とりあえず登場人物を殺しておけばOK」的な映画、小説、音楽は巷に溢れかえっている。

米津はLemonのヒット後にTV番組でこんなことを言っていた。

「何年も音楽を作っていると、まあ、ある程度わかるようになってきますよ。
人に届く言葉の書き方とか、リズムの作り方とか。
それを探すことが今の時代を生きるってことだと思うんで。」

 この言葉はワイドショー特有の軽薄さで「ヒット曲のコツをつかんだ米津玄師」と意訳され、あたかもそのメソッドに従えばカンタンに売れる曲が作れるかのような印象を与えた。が、「ある種の大人の浅ましさ」を自覚し、「ポップソングの責任」を意識しながら制作された曲は、どれもが生半可では進めない道程を経ていることは一聴すれば誰でもわかる。

究極の普遍たる死が、宝石のように散りばめられたアルバム

 そうして出来上がった5thアルバム STRAY SHEEPは売れに売れ、あらゆる年間ランキングのトップに燦然と輝いている。

 米津の曲には昔から、時に投げやりに、時に切なく死を感じさせるものが多く存在している。しかしSTRAY SHEEPから立ちのぼる死の気配は、この手で直に触れられそうなほど濃密だった。

Lemonは言わずもがな、
銀河鉄道の夜をモチーフにザネリ視点で描かれた「カムパネルラ 」、
ギターに松本大を招き亡き友への追悼を叫んだ「ひまわり」、
もう年を重ねることのない少女が晴れた空で遊ぶ「パプリカ」、
波打ち際の椅子に帰ってくる魂を待つ「海の幽霊」、
生気のないデカダンな香り漂う「décolleté」、
自分が消えた千年後の未来に思いを馳せる「迷える羊」、
死によって分かたれる日までの変化を肯定する「カナリヤ」、

「フラミンゴ」も「感電」も「馬と鹿」もMVと合わせてみると、冥界からの使者を見たような妖しい世界観が広がっている。

これが米津が常々口にしている時代を的確に掴むということだったのだと思う。

 コロナや相次ぐ有名人の自殺など、命の儚さや尊さを突き付けられた、2020年を代表するに相応しいアルバムだ。

 しかし、筆者が最も死の甘美を感じたのは野田洋次郎とのデュエットソング「PLACEBO」である。80年代風のダンサブルな曲調、恋に落ちて行くときめきが煌びやかな歌詞。

この曲のどこに死の気配があるのか?

 それは、野田の驚くほど清潔でピュアな声によって炙り出された米津の声の魔力である。

本人も気づいているのではないか?

いつの間にか、究極の普遍をその声に宿していたことに。

ポツリとこんなツィートをしている。

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 米津の声は切ない毒を含んでいる。それは加齢により濃度を増し、声帯の粘膜からトロリと滲み出てくる媚薬のようだ。仄暗さ故の美しさが薫りたつ陰翳礼讃を彷彿させる。

死を歌わずとも、死の安らぎを、死の官能を、死の憂いを奏でる極上の楽器だ。

 命は期限があるからこそ輝く。死は恐れ忌み嫌うものではなく、今を大切に生きるためにその存在を意識すべきものだと思う。

 今日も多くの人々が米津玄師の声で、心地よく刹那の死へと誘われていることだろう。しかし、変化し続ける彼はもう新しい世界に転生しているかも知れない。

誰も追いつけないほどのスピードで。

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