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おうちで「東海道五十三次」絵と絵の間の旅 #1 日本橋~品川

長いタイトルになってしまった。
 
広重の浮世絵「東海道五十三次」で、江戸時代の東海道をおうちにいながら、想像で旅しようと思ったのだが、「東海道五十三次」に描かれているのは53の宿場だけ。
 
しかし実際には宿場と宿場の間に長い旅路が存在していて、東海道を想像で旅するためには、描かれてはいない、絵と絵の間の旅を無視することはできません。
 
広重の「東海道五十三次」自体もさることながら、この絵と絵の間を旅することが難しいということに、旅に出発してから気が付いたのです。
 
というわけで紆余曲折がありましたが、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている、菱川師宣の画による東海道の旅人の道案内書「東海道分間絵図」と、現代のgoogle mapを突き合わせることで、なんとか品川まで旅することができました。
 
ネットでいろいろ検索できる時代になったことで、おうちにいながらの想像の旅は、間違いなく格段に充実したことを実感しました。


早朝、旅人と棒手振りたちでにぎわう日本橋から京都を目指して、大名行列と共に東海道の旅へと出発した私は、足取りも軽く、街道を南へと進みます。

日本橋から最初の宿場である品川までは約2里、8kmぐらい。
日本橋から3つ目の宿場である神奈川宿まで、東海道は現在の国道15号とほぼ同じルートだったらしい。

出発後まもなく京橋を渡り、現在の銀座界隈を通過して、新橋、金杉橋、芝橋と次々に橋を渡ります。

江戸って、こんなに橋だらけだったんだ・・・。

しばらく歩き続け、現在の芝・三田界隈に差し掛かると、街道が右にカーブし始めました。

見えてきたのは現在もある、三田(御田)八幡神社で、その向かいには広重の「日本橋」にも描かれていた高札場があります。
高札場は、かつて江戸市中に6箇所あったそうで、ここもそのうちの一つなのだとか。

この高札場を過ぎると、現在の高輪です。


広重の「日本橋」にも木戸が描かれていましたが、江戸時代にはこのあたりに、日本橋の木戸などとは異なる、「大木戸」と呼ばれるものがありました。

歌川広重筆『東海道名所之内 高輪大木戸』(国立国会図書館所蔵) 「国立国会図書館デジタルコレクション」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1309476)

これは、広重が描いた高輪大木戸です。
大木戸は街道上の江戸の境界に設置され、江戸への人や物品の出入りを管理していました。

あれは一緒に日本橋を出発した大名行列でしょうか。

行列が通過している横の、低い石垣の上に草が生えているようなものが大木戸で、その背後に見えている建物が、人や物品の出入りを監督する場所です。

もちろん、私は怪しまれるような現代のものは持ち合わせていませんから、特に問題なく大木戸を通過できました。

ここで、家族と別れて、一人大木戸を通過する旅人を見かけました。
大木戸までは江戸の内とされ、日本橋から共に歩いて旅人を見送る人もいましたが、彼らとはここで別れを告げるのです。

ちなみに五街道の1つ、甲州街道上に設けられた大木戸は四ツ谷だったそうで、現代なら都会のど真ん中の高輪や四ツ谷が江戸のはずれだったというのは、なんだか不思議な感じがします。


さて、高輪の大木戸あたりから街道は海岸沿いとなり、目と鼻の先に海が見えるようになりました。
でも現在は、こんな所に海はありません。

これは品川沖が後に大規模に埋め立てられた為で、現在のJR品川駅の辺りも、この当時は海だったのです。

さぁ、もう少しで品川宿です。

つづく

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