明日、会社が消えてなくなってしまえばいいのに。
世の中は4月。
桜が咲いて、そして散って、葉っぱになったりしているこの季節、街は新生活がはじまる、もしくははじまっている人たちで溢れている。
まだまだ制服やスーツに逆に着られている感が否めない、新生活がはじまった人たちは、時に不安そうに、時にうれしそうに、たくさん浮かび上がってくる自分のさまざまな感情に戸惑いながらも、頑張っているんだなと自分自身も鼓舞されたようなどこか懐かしく、ほほえましい感情に陥る。
私も彼らと同じように新生活を経験してきた。
小学生、中学生、高校生、大学生、そして、社会人。まだまだギリギリだけど20代なので、これからも新生活という類のものに出会うこともあると思うけれど、それなりにひとしきりの新生活を経験してきた。
この季節、そんな新生活溢れる世の中には「ドキドキ、ワクワクの新生活!」「新しい出会いを楽しむ新生活!」みたいなビックリマークにとてもポップで高揚感がぎっしり詰まったキャッチコピーを見ることが多くなるけれど、実際のところの新生活の裏側って、大変なことが多いと思う。
慣れない服、慣れない通学や通勤、慣れない環境、慣れない人間関係。
すべての単語に「慣れない」がつく生活の中で、その生活の渦の中に立っている時点で、本当にすごいことだと思っている。
私の場合、新生活をはじめて、早ければ1か月も経たないうちに、長くても半年くらい経った頃にいつも限界がくる人生だった。
そしてその限界に達したときいつも、縁起でもないけれどこう思っていた。
「明日、学校が消えてなくなってしまえばいいのに。」
「明日、会社が消えてなくなってしまえばいいのに。」と。
そんなことを思った夜はいつも長くて、眠れなくて
「明日の部活だるすぎる。あのコーチくるとまた怒られるだろうな、嫌だな。」とか
「明日の会議行きたくなさすぎる。結局また明日のその会議終わったら忙しくなって残業続きなんだろうな。」とか
そんなことをぐるぐる考えて、明らかに早く寝たほうがいいのに
そういう日に限って眠れなくて、時計を見たら午前2時を回ってることに気づいてまた絶望して、明日が余計にしんどそうに感じて眠れなくて
「明日、学校が消えてなくなってしまえばいいのに。」
「明日、会社が消えてなくなってしまえばいいのに。」とまた思って
さすがに疲れたのだろうか、いつのまにか少しだけ寝てて
そして朝が来る。
眠れなかった朝だから、頭も身体も思うように働いてくれなくて
何もかも重くて、何もかも嫌で、何もかもだるくて
けどね、そんな朝に学校や職場が消えていたことなんて人生で一度もない。
客観的にみればそんなあたりまえのようなことで、本当はすごく幸せなことなんだろうけど、その事実を受け入れられない朝が人生で何度でもきた。
仕方がないので、重い身体に鞭打って、無理やり起こして、顔を洗って、服を着て、自分自身にスイッチを入れる。
そして何事もなかったのように、その新しい1日をはじめる。
そして一生懸命に、学校で、職場で、もがいて、戦って、ぐるぐる考えて、くたくたになって、家に帰る。そしてまた夜がきて、また朝がくる。
そんな毎日の繰り返し。
そうやって長年生きてきて
「明日、学校が消えてなくなってしまえばいいのに。」
「明日、会社が消えてなくなってしまえばいいのに。」
最近、気づいたらそんなことを考えることなく自分が生きていることに気づいた。
それが、うれしいことなのか、悲しいことなのかはよくわからない。
きっとそう考えなくなった背景には、何度そう願ったところで、一度もそれが叶ったことはなかったからというのが一番の理由として挙げられるのかもしれない。
けれどそれだけではないと思っている。
「明日、学校が消えてなくなってしまえばいいのに。」
「明日、会社が消えてなくなってしまえばいいのに。」
そんなことを考えていた頃の自分はおそらく、一生懸命に、学業や部活、仕事に打ち込んでいたのだと思う。
一生懸命、受験勉強して
一生懸命、部活に励んで
一生懸命、人と関わって
一生懸命、ノルマを達成するために仕事して
一生懸命、お客さんのクレーム対応して
一生懸命、働いて残業して
そんな一生懸命が自分の中に溢れて、何とかして学校とか会社とかいわゆる社会と言われるものに必死で自分を適応させようとして
まるで、そこにしか自分の居場所がないかもしれないと言わんばかりに自分の生活の中心を学校や会社で埋め尽くして
毎日毎日、一生懸命、一生懸命、一生懸命。
そして限界がきて思っていた。
「明日、学校が消えてなくなってしまえばいいのに。」
「明日、会社が消えてなくなってしまえばいいのに。」と。
そんな過去の自分に私はこう言いたい。
「本当にお疲れ様。そんな風に思ってしまうまで、一生懸命に毎日を生きてくれてありがとう。」と。
私がストレスがたまったときによく車の中で爆音で熱唱する歌をたくさん提供してくれるブルーハーツの甲本ヒロトさんの言葉にこんな言葉がある。
きっと、楽をせず、一生懸命に生きていた私には今、たくさんの楽しいことの想い出ができた。苦しいことも、しんどいこともたくさんあったけれどその分、心ゆさぶる楽しいことがたくさんあって、それが今の自分を作っていると思う。
だから感謝だ。
「あの頃の自分、一生懸命に生きてくれてありがとう。」と。
きっと、その当時、一生懸命に生きることがしんどすぎたのか、自分の限界の破片が私のスマホの中に残っている。
そして、今私は、おそらく甲本さんの言う「楽しい」ではなく「楽」をして生きている。かつて死ぬほど憧れていたこの壁紙の言葉通りの暮らしをしているのかもしれない。
私は今、「一生懸命」ではない。仕事にも、生活にも、何事にも。
「楽」をして生きているんだと思う。
この言葉に当てはめて考えるのであれば、一生懸命にならず、「楽」をして生きているから、別に全く楽しくないわけではないけれど、心の底から「楽しい」みたいな感情とは無縁なのだと思う。
でも別にそれを悪いことだとは思っていない。
心の底から「楽しい。」と思えないけれど、心の底から「苦しい、しんどい。」とも思わないからだ。
一生懸命に生きてきた私の、ある意味しばしの休息だと思っている。
どちらも悪くない。
「明日、学校が消えてなくなってしまえばいいのに。」
「明日、会社が消えてなくなってしまえばいいのに。」
そうやって死ぬほど一生懸命に毎日、「苦しい、しんどい。」
そんなことを思いながらも、限界になるまで必死に生きて、それを乗り越えて手に入れた心の底から「楽しい」と思えた想い出も
今こうして、そんな言葉なんて、そういえば思っていた時期もあったなって懐かしく思いながら、ただなんでもない1日を過ごす日々も
自分にとっては、どちらも悪くない。
そんな両方の自分とこれからもうまく生きていきたいとそう思う。
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