【29歳無職日記⑩】書かない練習
2024年8月10日
無職になってから10日という月日が流れた。
無職になったその日から私はすでに10冊以上の本を読んでいる。
こんなに毎日のように読書するのは小学生以来かもしれない。
そんな読書三昧の日々で見つけたとある発見について今日は綴っておこうと思う。
余韻が残る文章の秘密
読書をしていると、小説しかりエッセイしかり余韻が残る文章というものが存在する。
「余韻が残る」という感覚を正確に言葉で表現するのは難しいけれど
要は、読んだ後に動いた感情がそのまま心の中にしばらくとどまって離れなくて印象に残るみたいな、そういったところだろうか。(語彙力ゼロ)
そんな文章を目にするたびに、うわぁこんな文章書けたら素敵だなぁとうらやましく思ったりして、メモを取ってみたりする。
そんなことをしていて気づいたことは
私は今まで、余韻が残る文章というものは、それぞれの本の著者の言葉選びのセンスによるものだと思っていた。もちろん、そのケースも多いとは思う。けれど、それだけじゃなくて、余韻が残る文章には、その著者が本当に伝えたいことが書かれてない。ということを発見した。
正確には、本当に伝えたいことのヒントだけたくさん散りばめておいて、そのヒントを紡ぐのは読者次第、みたいなニュアンスだ。
こと小説とかに多いケースだと思う。
「えまって、ここで終わっちゃうの?」
みたいな主人公のその後は、これまで書かれていたことから想像してくださいみたいな委ねられるケース。
「え、放置プレイしないでよ。もうちょっと書いてよ。」
って昔はよく思っていたけれど、最近やっと、そうやって書かれていない部分がその本の魅力だということに気づいてきた。
読書好きの人からしたら、怒られるくらいあたりまえのことなのかもしれない。
けど、私は本当に最近気づいた。もし今までの読んだ本、あさはかな理解で終わっていたなら申し訳ない。
たしかになるほどなと思う。
本を読むという行為自体は、著者の考えを享受される側が読者にあたるので、基本受け身のスタンスだ。
けれどあえて「書かない」ことで、読者側はその受け身のスタンスを前のめりに変化させて、能動的に著者の考えを理解しようとする姿勢にチェンジしなければならない。
そうやって能動的になることで、本の内容が自分の中に染みこんでくる。そして余韻が残る。
シンプルにかっこいい。
あぁ、私もそんな風に文章を書けるようになりたい。そう思う。
わかりやすいタイプ
そんな発見によって、読書の深みがましたことはうれしい。
けれど、せっかくなら自分もそんな文章を書いてみたい。
そう思ったけれど
それはとっても難しい事実に気づく。
なぜなら私は俗に言うわかりやすいタイプの人だからだ。
私は人生で一度も「何考えているかわからない。」
そう言われたことがない。
「ミステリアス」
そんな言葉を一度でもかけられて死ねたらどんなにいいだろうと憧れを強く抱くぐらいに、その言葉は私から遠い。
昔から、喜怒哀楽の感情がすべて顔に出るタイプだった。
自分では隠せているように思えた嘘もほとんどバレてた。
もうそれ以上しゃべらなくてもわかったよ。
そう言われるくらいにまくしたてるようにしゃべってた。
たぶん、というか絶対に文章もそうだ。
全部書いてしまう。全部書いちゃう系の人だ。
くぅ、悲しいが私はその事実を認めざるを得なかった。
書かない練習
だから、「書かない」という練習をしてみようと思った。
自分が伝えたいことをあえて「書かない」
noteで文章を書こうと思ったときに伝えたいことを考えたら
書きはじめる前に「書かない」部分を決めてみる。
そう思って練習を開始した。
これが結構難しい。
どうしても書きたくなる。
というか、書いた方が早い。
「書かない」部分をつくることで
どうやって伝えたいことを伝えるか
その部分を考えることが途方もなく難しい。
世の中の作家さんって本当にすごいんだなと改めて尊敬する。
余韻が残る文章を書く道のりはまだまだ遠い。
けど、少しずつ練習を重ねていこうと思う。
PS:書かない練習記事
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