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【29歳無職日記⑪】人生が360度変わった瞬間を大切に

2024年8月15日


「それを言うなら180度やろっ!」

ってもし相席食堂なら、赤ボタンが光って、ノブさんからツッコミが飛んできそうなタイトルをつけてしまった。
けれど、本当に最近人生が360度変わった瞬間を体感しているような気がしたのでそれについて今日は綴っておこうと思う。

人生が360度変わる。
要は、一周まわって気づいたみたいな話だ。

書きながら思ったけれど、この人生が360度変わった瞬間って
人生が180度変わった瞬間よりも、意外と少ないのではないかとそう思う。

180度の場合は気づきやすい。
あっと驚く、今までの人生にない新しい発見や異なる価値観との遭遇は、とっても目立つしインパクトがあると思うので、意外とそれなりに自分自身が受け身の状態でも受け取れる。

けど、360度の場合
はっと改めて気づかされる何かは、自分の思考とか人生とか、そういうものに能動的に注目しているときじゃないと、別に目立ったイベントがあるわけではないので簡単に気づけない。

たぶん私は今、無職という立場の都合上、自分の思考とか人生とかそういうものに注目する時間がたっぷりとあるので、はっとあることに気づかされた。

私の読書史

私は読書をすることが好きな子だった。

自分が読書をするようになったのは、たしか小学生だった頃。
最初の入りは、動物図鑑だった。
動物が好きで、誕生日にプレゼントされた図鑑を読みふけっては、持っているぬいぐるみたちを並べて、その学んだ感動をシェアするべく、図鑑から得た発見を彼らに授業していた記憶がある。

本には新しい発見がある。
思わず誰かに共有したくなるようなワクワクする発見。

それに気づいてからは、あんまり本のタイトルとかは鮮明に覚えていないけれど、伝記とか、一時期はクレオパトラに憧れてエジプトの歴史とか、動物好きが派生してファーブル昆虫記とかをとにかく読んでたくさんの発見をしていたように思う。

そこから世代だろうか、流行りの本(星新一とかダレンシャンとか山田悠介のリアル鬼ごっこやにはじまるホラー小説とか乙一とか)そんなファンタジー的なものを読みふけった。新しい発見としての読書から、その当時鬱屈としていた楽しくない学校生活みたいなものから逃げ出す場所として、現実ではない空想の世界に連れていってくれるものとして読書を楽しんだ時期があった。

新しい発見と、いい意味での現実逃避、私はその当時、気の赴くままに好きな本を選んで読書をしていた。

中学3年生になった頃くらいだろうか
私はパタリと読書をしなくなった。

理由は明確で、高校進学のための受験勉強が原因だった。
このときこそ、現実逃避読書をしたくなる最高潮の感情を心に抱いていたのだけれど、めいいっぱい私はそれを我慢した。そして勉強、勉強、勉強。
進学が決まってからは、いつのまにか読書を我慢していたことすら忘れて、そのまま高校に入学して、そこからもまた部活、部活、部活、そして引退したら、大学進学のための勉強、勉強、勉強で、本当に読書の「ど」の字も頭になくなるくらいに目の前のことに追われて過ごしていた。

そして人が「人生の夏休み」とそう呼ぶ華の大学生時代を迎える。

ありあまっている時間を使って私はたくさんの本を読んだ。読んだように思う。たしかたくさんの本を読んでいたはずだ。

なのにあまり際立った記憶が私にはない。

私は大学進学で国際情勢とか世界の歴史について学べる学科を選んだ。
それは高校生時代に出会った世界史の先生が影響している。
その先生はとても世界史が好きで、たくさんの本を読んでいて、授業も教科書だけじゃない、たくさんの本で学んだうんちくを面白おかしく交えて楽しく授業してくれた。
たぶん、高校時代、一度も居眠りをしなかったのはその先生の授業だけだったと思う。
その先生の楽しく、本当に世界史が好きで授業してくれている姿に憧れて、授業で紹介してくれていた本を大学に入って早速、手に取って読んでみたけれど、書いてあることの意味が本当によくわからなくて、ちんぷんかんぷんで、けれど憧れの世界だから、そのはずだから、理解するまでもはや意地で私は読書をした。

同じことが、大学時代に所属していたゼミの教授にも言える。その先生のゼミは楽しくて面白くて、先生みたいに博学で、いろんなことを知っている知識人に憧れて、その先生が紹介してくれた本を手に取って読んでみたけれど、これもまた、書いてあることの意味がよくわからなくて、けれど先生みたいになりたくて仕方がなかったので、また意地で私は読書をした。

先生だけじゃない。
その当時恋心を抱いていた彼は村上春樹をよく読んでいる青年で、私は彼に近づきたくて、彼が好きなものを自分も好きだと言ってみたくて、たくさんの村上春樹の本を手に取った。ノルウェーの森、スプートニクの恋人、海辺のカフカ、ねじまき鳥クロニクル、面白い部分もあったのだろうけれど記憶にない。もちろんその本の意味を理解できるほどの度量が自分になかったことが一番の問題だろうけれど、結局、覚えているのは1Q84を途中で挫折したというその事実だけ。

憧れの人に近づきたい。
ただそれだけで私は読書をしていた。
理解できなくてもいい、読み切る。
それはもうすでに自分の意志とか気持ちを通り越して意地でしかなくて
この頃から私の読書は素敵な憧れの人になるための「義務」としての頭角を表しはじめていた。

そして極めつけはぴちぴちの新社会人時代だ。
私が入社した会社では、「圧倒的成長」みたいなキャッチコピーが張り出されてさえいなかったものの、新卒社員全員の心の中に浸透(もしくは一種の洗脳だったのかもしれない)していて、先輩社員に紹介されるがままに私は自己啓発本なるものを読み漁った。

いわゆる自分の仕事人生に「意味のある読書」なるものが強要されて
それ以外は無意味みたいなレッテルを貼られてしまった気がして
私が幼いころに好きだった小説みたいなものを否定されている気がして
義務化された読書に嫌悪感を抱くようになって
本当に読書が嫌いになった。

そんな義務化読書に限界がきた頃だっただろうか。
そのときにはもう、仕事にいくことすらもしんどくなっていて
毎日がつらくて、身体的にも精神的にもギリギリなときだった。

そんなときに手にとったのが


何がきっかけで手に取ったのかは覚えていない。
けれど、久しぶりに読んだ小説で、出てくる2人の女性の生き様に感銘を受けて涙したことだけはよく覚えている。

大学時代、新社会人時代と読んだ本はたくさんあるはずなのに、内容を覚えている、感動を覚えているのはこの本だけだ。
私にとって今も大切な本で、ことあるごとに私はこの本を人におすすめしてプレゼントし、今手元にあるものはすでに4冊目になっている。

この本を読んで以来
私は少しずつ、少しずつ自分の赴くままに、ほとんどが小説を手に取るようになった。
もちろん、仕事はずっとしていたのでそんなに大量に読んでいたわけではないけれど、そうやって少しずつ本との向き合い方が変わって今に至る。

自分のための読書を

こうやって読書史を振り返ってみて思う。
私は改めて読書することが好きなのだと。
仕事という制限がない今、私は好きなように、気の赴くままに本を手に取って毎日読んでいる。
本当に好きなのだなと自分でも感心する。

でもここで私が「好きだ」と言っている読書は
ただやみくもに本を読むという読書とは、ちょっと違った二ュアンスの違う話だなとはっと気づかされた。

私が好きな読書は
あくまで自分のために読む読書。

小学生の頃のように、新しい発見を求めたり、ときに現実逃避とはいえ、自分が好きな空想の世界に連れて行ってくれる何かを求めたり
自分にとって必要なものが書かれた本を、本棚に並べられたそこだけキラキラと光っている、自分の意志の方向の先にある本を手に取るみたいな、そういう読書。

そういう読書が私は好きなんだと思う。
今、無職になって、自分自身の読書を注意深く観察してみて、ようやく気づくことができた発見だった。
けどこれは、そうやって自分のための読書ができなかった時間があるからこそ気づけたことで、その時間から得れたものも多くて、そういうものを含めて改めて

今、人生が360度変わったなって、そう思う。

こういう瞬間があと、人生に何度訪れるかはわからないけれど
自分が歩いてきた道の跡を振り返ったときに気づく発見は、とてもいい意味で自分の人生の深みを増してくれるなと思ったので、その瞬間を見逃さないようにこれからも自分の思考と人生に注目していこうと思う。

そしてこれからも自分のための読書を楽しもうと思う。

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