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どこかの誰かの経験談が、どこかの誰かの心に響く。

基本的に私は他人への興味が薄いというか、他人と自分の間にくっきり線を引いていて、あまり悩みを人に相談したりするタイプでもない。一番身近な存在である恋人に対しても、「私は私、あなたはあなた」という考えがベースにあり、たまに周囲の人から期せずして「それ許しちゃうの?」「心が広いね」などと言われて驚くことがある。

その「私は私、あなたはあなた」精神のためか、世の中にあふれる『〇〇するための10の法則』とか『〇〇したい人がやっておくべき30のこと』のようなハウツー系の本や記事は、たとえ〇〇が自分の興味のあることだとしても、あまり読む気にならない。たぶん「自分が〇〇するためのハウツーなんて、自分なりに見つけるものだ」と思っているからだと思う。そういうテーマを掲げる本や記事は、方法論を説いているようで実は一面的な結果論を強調しているだけだ、といううがった見方もしてしまう。(自分の尊敬する人が書いたものなら読んでみたくなる気持ちは分かるが、もし尊敬する人がそういうタイトルのものを書いたら、ちょっとショックを受けるかもしれない…。)

そんな私なのだが、最近、不意に自覚したことがある。それは、どこかの誰かが自身の経験や仕事観をつらつらと語っているようなインタビューや対談などの記事を読むことがとても好きだということだ。自分とは全く違う人生を歩んでいる人が、その人の言葉でその人生や考えを切り取って見せてくれると、耳(目)を傾けたくなるのだ。筋が通っている人の言うことは、どこを切り取っても芯がある。だから無理に系統立てて説明したり“ハウツー仕立て”にしなくても、ひとかたまりの言葉からその人の信念が伝わってきて、心に響くのだ。

私は私の人生を歩むのみで、私から見る世界しか知らない。だから、どこかの誰かの目を通した世界を垣間見ることができるのが、純粋におもしろいのだ。それに、その人が歩んできた道を知ることで、言葉にできない何かに背中を押されたり、知らなかった価値観に触れられたりもする。見知らぬ人がその人自身のことを語っているだけなのに、何の接点もない他人である自分の心が少し動く。それって、すごいことだ。人生における答えは自分で出すものだし、誰かがすでに出している答えがそっくりそのまま自分に当てはまることなんてないのだけれど、誰かの人生を知ることは、どこか遠いところで自分の人生の幅を広げることにつながるのかもしれない。

なぜこんな話をするのかというと、以前、仕事関連のインタビューの打診を受けたことがあって、それを断ってしまったことをたまに思い出すからだ。その時は仕事もまだいっぱいいっぱいで、そもそも自分のことを話すのも苦手だし、私に語れることなんてまだ何もない、と思い断ってしまった。

自分自身が「普通の人」のインタビュー記事で励まされた経験があったにもかかわらず、断ってしまったな…と、ほんの少し後悔に似た気持ちがある。それに「語れることがない」なんて、ふだん何も考えずに仕事をしているのと同じことになるじゃないか、と気づいて恥ずかしくなった。見えを張る必要はないから、等身大の自分の経験を自分の言葉で語ることができれば、それでよかったのだ、たぶん。方法論でも結果論でもなく、それまでの自分と今の自分を語ること。華やかではない私の話でも、どこかの誰かにそっと届いて、少しだけ役に立てたかもしれない。

もしインタビューを受けていたら、この仕事を目指したきっかけや、学校で何をどう学んできて、今はどんなことを大切にして仕事をしているのか…といったところを語ることになっただろう。自分はどう答えていただろうかと、少し考えてみた。話す気になりさえすればスラスラと言葉が出てくるかと思いきや、いざ「誰かに伝える」ということを考えると、やっぱりなかなか難しい。自分のことなんて頭の中で考えてるから何でも分かっていると思いがちなのだけど、やはり日頃からはっきりと言語化して考えていないと難しい。全部言葉にしなくても頭では分かってる、なんて横着してたら、やっぱりダメだ。

もうインタビューの話が来ることなんて一生ないかもしれない。でも、いつでも堂々と自分の思いを語れるような準備をしておくことは、日々仕事をする上でも何かしらいい影響を与えるだろうな、と思う。「言葉」から生まれるものが、きっとあるはずだ。

「私は私、あなたはあなた」。How-toに興味はないけど、How-about-youを知るのはおもしろい。その心は、実は人が好き、なのかもしれない。

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