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ナルニアがくれたもの

小学3年生くらいのときに、姉にすすめられて、ある本を読んだ。

ナルニア国物語の「ライオンと魔女」。表紙まで何度も見返して、作者と訳者の名前を両方とも記憶した初めての本だ。

C.S.ルイス作、瀬田貞二訳。

読み始めてすぐに、物語の魔法にかかった。

第二次大戦中、ロンドンから田舎の学者先生の屋敷に疎開してきた4人きょうだいのピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィ。ある雨の日、4人は広い屋敷の中を探検していた。
いくつもの部屋を経て、また別の部屋のドアを開けると、そこには大きな衣装だんすがあるだけだった。他のきょうだいたちは特に興味を示さず、ルーシィだけがその部屋に残る。
たんすを開けてみると、中にはたくさんの毛皮外套が掛かっていた。毛皮のにおいや手触りが大好きなルーシィは衣装だんすの中に入り込み、手を伸ばして奥へと踏み込んでいく。一歩、また一歩。いつまでたっても指先が後ろの板にぶつからない。やがて、やわらかな外套に触れていたはずが、かたい木の枝に触れ、見渡すと辺りには雪に覆われた別の世界(ナルニア)が広がっていたーー。

この導入部だけでも空想力がかきたてられ、今でも鳥肌が立つ。

ナルニアで出会うのは、フォーンのタムナスさんやビーバー一家など、さまざまなもの言うけものたち、木の精ドリアードや水の精ナイアード、恐ろしい魔女、そして神々しいアスラン…。

1冊読み終えるころにはすっかりナルニアの世界に魅せられ、4きょうだいと共に大冒険をした気分になり、アスランのことを畏れると共に大好きになっていた。その後、シリーズ7作のうちの残り6作を、1つずつ大切に大切に読んだ。

(ちなみに当時は「外套」という言葉を知らず、それが何のことかすぐには分からなかった。でも少し読み進めたら、どうやらコートのことを「外套」とも言うらしいぞと合点がいったりして、そんなふうに本で新しい言葉に出会う体験も面白かった。少しくらい知らない単語があっても、物語に力があれば子供はぐんぐん読み進めていくし、物語が発しているメッセージはちゃんと伝わる。)

ナルニア国ものがたりはキリスト教と関連付けて解説されることも多いが、小学生のときはそんな予備知識はまったく知らずに、ただただ「とびきり面白いファンタジー小説」として読むことができた。純粋な心で物語の世界に飛び込んだからこそ、得られたものがあると思う。

作品自体はいつの時代も何も変わらずそこにあるので、大きくなってから文学として楽しく読むことももちろんできる。でも、この物語には至る所に、子どもの時にしか見つけられない透明な湧き水のようなものがあふれているのだ。読み手がある一定の年齢を超えていると、その湧き水に気づくことなく素通りしてしまうだろう。その水を両手いっぱいに掬ってゴクゴクと飲むことができるのは、子ども時代だけだと思う。

子どもの頃にどんな本に出会うかで、人生の味わい方も変わるような気がする。もしナルニアを読んでいなかったら、今の私とは違う私がいたはずだ。

ナルニアがくれたもの。それは、空想の物語を自分に引き寄せて楽しめる心だ。そのファンタジー小説に胸を躍らせて以来、幼い私は一人で空想の物語を考えたり、姉妹との遊びの中でも密かに空想ごっこを織り交ぜたりしていた。

そして大人になった今でも、たまに「もしこんなことが起こったら…」という空想を、ふとした瞬間にしてしまう。子どもの頃の自分が顔をのぞかせて、「現実には起こるわけがない」という冷静な大人の自分をぐいっと脇に押しのけ、何の役にも立たない自由な空想を楽しんでしまうのだ。

「空想力」なんて、別に人から褒められるようなものではないだろう。でも、心が自由に羽ばたくこの感じは、何とも言えずいいものだ。自分の内面で世界が無限に広がっていく。

こんなことを書いていたら、久しぶりにアスランに会いたくなった。
さて、これからシャワーを浴びる。
目をつぶってシャワーを浴びていると、お湯が足元に溜まってどんどん浴室内にあふれてきて、ものすごい勢いであっという間に首までつかってしまう。立っていられなくなり、立ち泳ぎをして、ついにお湯が天井に達する直前、大きく息を吸い込んで潜る。脱出口を探して周囲を見渡すと、少し離れた上のほうにかすかに光が見える。そこを目指して泳いでいき、光が近づいた次の瞬間、気づいたらナルニアの宮殿の広いお風呂の中に飛び出してしまう…なんてどうかな。そこからどんな物語が始まるだろう。

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