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夏の呼吸

忙しい時ほどふと心に浮かんで溢れてくる思いを書き留めたくなってしまうこの性格を何とかしたい…と思いつつ、どうにもならないのが自分というものである、と諦めてこれを書き始めた。

6月30日(金)、下北沢ハーフムーンホールという素敵な会場で阿部芙蓉美さんのライブを見てきた。雨がしとしとと降る中、下北沢駅の東口から商店街を抜けて住宅街をぐんぐん進んだ先に、そのホールはあった。道路から少し奥まった所にある入り口は立ち並ぶ住宅の中に紛れ込んでいて、開場を待つ人々の列がなければうっかり通り過ぎてしまいそうだ。

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私が阿部芙蓉美さんのライブを見たのはこれまでたった一度だけ。友人に誘われて、2012年にリリースされた『沈黙の恋人』というアルバムのリリース記念ワンマンライブに行った時だ。今でもよく聴いているアルバムで、ずっと色褪せない名盤だと心から思う。

出会って間もない趣味友達の一人だったその友人は、まず少し音源を聴かせてくれた。当時の私は今ほどいろんなライブにフットワーク軽く行くような人ではなかったけれど、一聴して「すごく好きな感じだ」と思ったので、ありがたく一緒に行かせてもらうことにした。ライブの日まで、貸してもらった音源を聴けば聴くほど、いいなぁと思った。

そして2012年のライブ当日、会場は渋谷のマウントレーニアホール。歌声が素晴らしいのはもちろん、同じくらい印象に残ったのは彼女のMCの何とも言えない面白さだった。とにかく肩の力が抜けているというか、声を張らないし無理に元気を出そうとしないし、力まない人なんだなと思った。

それ以降、阿部芙蓉美さんの曲は私にとって、ふと思い出しては切実に聴きたくなる…そんな付かず離れずな存在になった。

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時は流れ、2020年に始まったコロナ禍で阿部芙蓉美さんの曲を聴く頻度がこれまで以上に増えた。新曲のリリースがあると喜んで喉の渇きを潤すように彼女の歌声を聴いた。

彼女の存在を教えてくれた友人に、時を超えて感謝の念がいっそう募る。私はこの人の音楽を生涯聴き続けていくんだろうなぁと強く思ったからだ。年月を経て、いつの間にか阿部芙蓉美さんの曲もまた私の中で特別な存在の1つになっていた。

ちなみにその友人は最初に「あなたの雰囲気からしてたぶん好きだと思う」というようなひと言を添えてライブに誘ってくれたのだけど、その直感で私に声を掛けてくれたことも本当にありがたいなと思う。自分の中で特別に大切にしているものをそうやって誰かに紹介するのは、ちょっとした賭けというか勇気のいることだと思うので。

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前置きが長くなったけれど、そんなふうに私と阿部芙蓉美さんの音楽の関係性が時と共に少しずつ変化し、自分なりの思い入れが醸成された後に訪れた11年ぶりの貴重なワンマンライブ。

雨が降って蒸し暑い6月最後の日に会場で体感したそのライブは、やっぱりとても素晴らしかった。この日は東川亜希子さん(Key, Cho)、菅沼雄太さん(Dr, Cho)とのトリオ編成で、お二人の演奏に加えてコーラスがまたすごく美しかったことも最初に書いておきたい。

アルバムツアーではないので、本当にいろんな曲を聴けた。セットリストから何曲かピックアップして振り返りたい。

ライブは今年2月にリリースされた最新曲の「Neverland」から静かに美しく始まった。地下にある小さな会場だけど吹き抜けの天井が高いホールで、とても優しく心地いい響きだった。

「群青」が始まった時は、何とも言えない感動を覚えた。やはり長年よく聴き込んできた曲だからだと思う。「6月にリリースされたデビュー曲だから今日やってみようと思って」と演奏後のMCで話してくれて、6月最終日のライブの抽選に運よく当選したことに心から感謝した。

大好きな「開け放つ窓」と、最近特にふと聴きたくなることが多かった「いつかまた微笑み合える日が来るまで」が聴けたのも嬉しかったな。

それからもう夏ということでスピッツの「渚」のカバーを披露してくれたり、素敵な提供曲のセルフカバーなどもあったり。

爽やかでこちらも大好きな2021年リリースの「Soda」を歌う前には、「爽やかな曲、やるよ!」とちょっと元気を出してというか自分を鼓舞するように言っていたのがかわいかった。(ちなみにこの曲の歌詞にも「さぁ 元気だしていきますか」というフレーズがある)

というのも、当日は本当に湿気がすごくて、芙蓉美さんは1曲目が終わった直後からMCのたびに何度もため息をついていたのだ。完全に湿気にやられてしんどそうな様子だった(…と書くと深刻な感じがしてしまうけど、何とも言えずちょっと面白い感じが伝わるといいな)。

ライブのMCで、お客さんの前でそんなふうに何度もため息をつく人はそうそういないだろう。でもそのため息は、ため息なんだけど深い呼吸のようでもあり、全然嫌な感じのしないものだった。最初の彼女のため息に私も含めて客席から思わず小さな笑いが起きると、その自然体で無理をしない姿勢も含めて芙蓉美さんを好きな人たちが集まっていることが伝わってきて、温かい気持ちになった。

そして、MC中しんどさを隠そうとしない芙蓉美さんは私たちの体調も気遣って、「無理しないで、体調しんどくなったら席を離れて休んでね」、というようなことを最初に伝えてくれた。

セットリストに戻ろう。唯一ギター1本の弾き語りで披露してくれた「凪」もとてもよかった。2020年の8月にリリースされた、タイトルのとおりどこ
までも穏やかな曲。

そして、個人的にこの日いちばん胸がいっぱいになったのは、やはり「沈黙の恋人」とアンコールで聴けた「highway, highway」だった。阿部芙蓉美さんの曲の中でも特に好きな2曲だ。

11年前のライブで聴いた時とは確実に違う味わいがあって、自分の中で特別な曲として育っていた曲たちをまたライブで聴くことができて、とても嬉しかった。ステージと客席の距離が近かったので、ライブ中に何度か芙蓉美さんと目が合ったのも嬉しかったし、不思議な気持ちになったな。

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これから本格的に夏が始まる。蒸し暑い日にはきっと、この日の彼女の深い呼吸のようなため息を思い出すと思う。深いため息をついてギターをチューニングしている時、しんと静かに待つお客さんの様子を気にして、「みんな大丈夫?ちゃんと息してる?」と聞いてくれたことも。やはり芙蓉美さんのため息は呼吸なんだと思う。

仕事が忙しかったりストレスがたまったり疲れたりしている時などは、自分でも気づかないうちに呼吸が浅くなっていたりする。しんどい時こそ、ちゃんと深く息を吐き出して、呼吸をすること。素敵な音楽と共にそんなメッセージも受け取ったような気がしたライブだった。

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ライブから数日後、余韻が続く中で何となく検索して『沈黙の恋人』のインタビュー記事を初めて読んだ。今更と思われるかもしれないけど、2012年当時の私はTwitterなどもやっていなかったし、今みたいに手軽に能動的に音楽関係の情報収集をしていなくて、こういう記事にたどり着くことはあまりなかったのだ。

時を経て初めて当時の彼女の言葉や考え方を読んだことで、何か答え合わせをしたような気持ちになった。

誰かの音楽を特別に好きになることには、やはりそれだけの理由や意味があるのだと思う。好きになった時点ではそれが一体何なのかも、そんなものがあるのかも分からずに好きになるんだけど、後で必ず「だからこんなに惹かれたのか」と思う瞬間が訪れる。少なくとも私の場合は。

自分と考えが重なる部分があることを知ったり、その人の言葉が素直にすっと入ってきたりした時、改めてその人の音楽と握手をしたいような気持ちになる。無数にある音楽の中から偶然出会って、特別な何かを感じ取って、しっかり好きになれたことの不思議と必然を思いながら、また再生ボタンを押す。出会ってくれてありがとう。


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