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犬と暮らすということ

実家で飼っている犬が亡くなったと、16日の夕方に母親から連絡がきた。15歳だった。名前はちゃー。本名はちゃーちゃ。茶色の毛並みがきれいな小さかった女の子は、私より先にあっという間におばあちゃんになり、その一生を終えてしまった。少し前から食事をあまり摂れなくなり、先週からは自力で歩けなくなったと聞いていたので、覚悟はしていたけれど…。

毎年、桜やシロツメクサやアジサイなど、四季折々の花や緑と一緒に写る彼女の写真が送られてくるたびに、ちゃーは本当にお花が似合うね、何でこんなにかわいいんだろう、などと家族みんなで飽きもせずに言い合ったことを思い出す。

彼女が実家にやって来た15年前、私は既に実家を出ていた。でも、まだよちよち歩きの彼女と庭でしばし遊んだ記憶がある。その時にしっかり覚えてもらえたのか、基本的に実家には年に1~2回ほどしか帰らない私のことも、彼女は家族として認識してくれたようだった。帰省するたびに尻尾をぶんぶんと激しく振って走り回り、嬉しそうな高い声で鳴きながら笑顔で出迎えてくれるのがいつも嬉しかった。お気に入りの服に柔らかな彼女の毛がたっぷり付くことさえ愛しく思えるほど。

「たまにしか帰ってこないのに何で忘れないんだろうね」と家族がよく不思議がっていたけれど、私自身が誰よりもそのことを不思議に思っていた。

コロナ禍で2年ぶりの帰省となってしまった今年の1月には、彼女はもう目が見えなくなっていて、走り回る元気もなく高い声も出せなくなっていたけれど、匂いや声で私だと気づくとやはり嬉しそうにわさわさと尻尾を振ってすり寄ってきてくれた。

犬がぴったりとお尻をつけて座ってくるのは信頼と愛情のサインだという。私なんて別に彼女のために大したこともしてあげていないのに、近くに行くと彼女はいつも私の体にお尻をくっつけて満足そうに座っていた。ぐぐっと遠慮せず自由に体重をかけてくる時のあの感触を思い出す。そこにあった彼女の意思と重み。時として言葉がなくてもお互いへの好意は伝わるものだけど、それはやはり犬と人でも同じなのだ。

15年という長い月日を彼女と一番近くで過ごしていた父の気持ちを思う。母も妹も実家にいるのでもちろん近くで過ごしていたのは同じだけれど、彼女と心理的な距離が一番近かったのは父ではないかと思っている。

彼女と一緒に写真に写る父も年々白髪が増えていき、気づけばすっかり年をとっていた。きっと娘の私たちの名前よりも彼女の名前を呼ぶ回数のほうが多かったはずだ。朝起きた時、散歩に行く時、ごはんをあげる時、庭仕事をしている時、仕事から帰ってきた時、もしかしたらちょっと寂しい時なんかにも。

15年も犬と暮らすということがどういうことなのか、たぶん私はよく分かっていない。私と似ている父はやはり家族に多くを語らないけど、満開の桜の下を歩く1年前のちゃーの動画が送られてきて、その動画を選んだ父の気持ちは痛いほど分かってしまった。

春はもうすぐそこだ。きっと、毎年一緒に見ていた桜の景色の中に父は彼女の面影を見るのだろう。今はただ寂しさと、その隣にある幸福に思いを馳せる。

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