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報いの森

〈あらすじ〉

サラリーマンとヒットマンの二足の草鞋を履く俺は、二人殺害して仕事を片付けた後、検問中の一般道を避け、森林公園の西口から東口へとバイクで抜ける途中、真っ赤に燃え盛る目玉の魔物と遭遇。執拗に追い回される。目前の靄がさざ波のように揺れ出すと、突然、空間の中心が裂け、ヤツが飛び出してくる。逃げてもヤツは先回りして行く手に立ち塞がる。  
 逃げられぬと悟った俺は、正面からバイクで突進した。仰向けの体にヤツがのしかかり、爪で俺の胸を切り刻む。苦痛に耐え切れず死を望んだ。
 ふと気づけば、ベンチに座っていた。夢? だが、夢と現は繰り返し交互にやってくる。死にたくても死ねない恐怖が襲う。
 魔物の正体とは?



闇への招待状

ひっそりと、闇の中に迷い込んでみませんか?

あなたにも経験あるでしょう?

足掻いても足掻いても抜け出せぬ闇……
それは、あなたへの報いなのかもしれません。

善行には光、悪行には闇の報いが訪れる。
あなたはどちらを選択しますか?
それは、あなたの心次第!

今宵、異次元の扉が開かれ、ソノモノは目覚めるのです。
どうか、“無間地獄”にだけは落ちませんように!


 魔手がシートにのびる。爪がガリガリと音を立てる。急にハンドルが軽くなり、操作性を失った。僅かに前輪が浮いたらしい。アクセルを吹かし加速すると、両輪はしっかりとアスファルトを噛んだ。
 赤い二つの光が、バックミラーから遠ざかる。その場に留まり続け、もう追いかけてはこない。
「──やっと諦めやがった……」
 寸でのところで魔手をかわした俺は、尚も加速する。
 バックミラーの赤色光は完全に消えた。
 バイクを停め、振り返った。注視しても闇の中に光源は認められない。少しだけ走らせ、車体を右に倒して反転させヘッドライトを向けた。が、巨体の影も映らない。再び逆方向へハンドルを切り、東口を目指してエンジンを吹かし続ける。
 かなりの引き離しに成功し、すぐにこの距離まで追いつくのは不可能だろう。安全圏まで逃げおおせて一応は安堵したものの、脳裏に焼きついた姿が目前の闇に浮かんだとたん、背筋に悪寒が走った。
「ナニモノなんだ?」
 数多の修羅場を潜り抜けてきたが、これ程ブルっちまったことはない。

     *

 東の出口に向け、バイクは唸りを上げ続ける。
 バックミラーには闇だけが張りついている。
 風が右頬を掠めた。微かなにおいが鼻腔に引っかかった。ほんの微かなにおいだ。いや、そんな気がしただけなのかも知れない。妄想が作り上げた気配というべき微細な空気の振動を皮膚が感知し、においの記憶が呼び起こされてしまったのだ。己の中から湧き出た臆病の虫の仕業だろうか。
「臆病風に吹かれただと。このオレが……か?」
 思わず自嘲した。
 それからしばらく経つと、木立の間を縫って黒い影が後方から前方へと流れた。直後、空圧が右耳の鼓膜を微かに振動させた。
 ──時速80㎞……
 スピードメーターが指し示した数字だ。が、相対速度で時速40~50㎞ぐらいで追い越された感覚だった。だとすれば……時速100㎞は軽く超えていたわけだ。
「あり得ねえ!」
 一直線のアスファルト上でもなく、密集した大木の間をくねくねと掻い潜って凸凹の土の上をチーターでも100㎞超えは無理だ。否応なく減速を強いられるはずだ。
 森に気を取られて、ふと真っすぐに視線を戻す。遥か前方に光が見えた。かと思ったら、闇に浮いた小さな赤い二つの点が次第に膨らむ。
「いや、そうじゃねえ!」
 それは、速度を増してこちらに迫ってくるのだ。
 咄嗟に減速する。バイクを反転させると、アクセルを全開にした。バックミラーには二つの真っ赤な光源が凄まじい勢いで接近してくる。いよいよ背筋は凍りついた。
 俺は、革ジャンの懐に右手を忍ばせ、ホルダーからトカレフを抜いた。左手に持ち替え、アクセルを吹かしながら、ミラーを睨みつける。
 闇の中にゴルフボール大の赤い光が上下に揺れる。ヤツは既にバイクのすぐ後ろに迫っている。
 銃口を後方へ向け、引き金を引いた。
 と、ヤツは唸り声を上げ、血飛沫を口から吐き出した。頬に生暖かい感触が突き刺さり、嗅ぎ慣れたにおいが鼻の奥を刺激する。ただ、何とも甘い味のする血液だ。これほど芳しい血は初めてだった。
 ミラーには赤い光源が映っている。怯んだかに見えたが、未だ諦める様子もなく、ヤツは再び距離を詰めてくる。
 俺はもう一度左腕を後方へのばした。自然と前かがみになって振り向きざま左の肩越しに赤い玉の間に照準を合わせる。今度は確実に狙いを定め引き金を引いた。
 一発……二発……。
 三発目の炸裂と同時に悲鳴のようなけたたましい雄叫びが耳をつんざいた。瞬間、前輪が少しばかり浮いてウイリー走行を余儀なくされた。ヤツの爪がシートにかかったのだ。
 俺は夢中でトカレフを乱射した。と、前輪は地面に吸いつくと、とたんに加速を始めた。赤い二つの光源もミラーから遠ざかって行く。
 このまま直進すれば自ずと西出口へと繋がっている。もう間もなくゴールは見えてくるはずだ。脳は勝利の瞬間を映し出す。俺は無我夢中でアクセルを吹かした。
 どうやら、森を出て一般道へ入るしか術はない。警察の目を掻い潜る策を頭の中でシミュレートした。
「あと少しだ……数十秒もすれば抜けられる」
 フーッとひとつ息を吹く。
 と、前方の闇が揺らめいた気がした。錯覚だろうか、目をギュッと瞑って見開き、瞬いて凝視する。
 目線の数十メートル先に靄がかかっている。靄っているというより、空間がさざ波を起こしているように見える。
 しばらくすると、石礫を投じた水面同様に中心部分から波紋が広がった。次第にさざ波は失われ、空間の裂け目から実体が露になり始める。視線を少しだけ右へずらし、視界の端を掠める存在の動きに神経を集中する。やはり闇の中で何かが蠢いている。錯覚ではなかった。真っすぐ見据えた。近づくにつれ増々その存在が大きくなってくる。
 バイクを停めて、いっとき闇中やみなかに開いたトンネルから這い出たソノモノと対峙する。
 西口付近にぼんやりと巨大な影が立ち塞がっている。赤い目玉はいよいよ輝き、こちらの動きを捉えて離れない。睨みを利かす仁王像のそれに似ていたが、これっぽっちも慈悲の心は感じられない。
「なぜだ!」
 わけも分からなくなって叫んでしまっていた。「忌々しいヤツめ! どこからどうやって先回りしやがった?」
 ヤツは俺の行動を見透かしてか、のっそりとした足取りで近づこうとする。
 トカレフを構えた。一度深呼吸をして、両の赤玉の間に狙いを定めて引き金を引いた。とたんにヤツも突進してきた。こちらも間髪入れずに連射する。弾は確かにど真ん中を撃ち抜いた。にも拘らず、ヤツは倒れるどころか、増々正気づいたように猛進するのだ。
 俺は慌てふためいてバイクを反転させようとして転倒しそうになり、寸でのところで持ちこたえ、体勢を立て直すとフルスロットルで逆走した。
 これでは、手玉に取られた袋の鼠だ。
「どうすればいい?」
 ひとつだけはっきりしていることは、ヤツから逃れるのは最早不可能という事実だ。だったら、それを踏まえて策を講じるしかない。るかられるか。腹をくくるしか選択の余地はなくなった。
 襲われるイメージが頭に過った。生まれて初めて味わう死の予感だった。
 死臭に引き寄せられるように血を好み、死を友として生きながらえてきたこの身。幾度となく殺しの修羅場を越えてきた俺が、殺される側に回るというのか。
「オレは死ぬのか? まあ、これも人生かもしれねえ……思い通りに生きた」
 腹は決まった。悟った俺は正面から対決する道を選択した。決心したからには最早慌てる必要はない。恐らく東口にバイクが着く頃にはヤツは先回りしていることだろう。「とんだイタチごっこだ」

     *

 中間地点までやってくるとバイクを停め、煙草に火をつけた。
 真夏だというのに森の中はひんやりとした風が頬に心地いい。街の喧噪も届かない。聞こえるのは風に騒めく葉擦れと、フクロウの鳴き声ぐらいだった。
 何と穏やかな心境なのだ。自分でも驚く。今から死出の道行に発とうかという、この期に及んで。己の馬鹿さ加減に呆れ果てた。
「──それとも……死を望んでいるのか?」
 そんな考えが脳裏を掠めた。


 幼い時分から死は身近だった。悪友といってもいい。
 最初の殺しは、十二の冬。
 小学校から帰宅したら、例のごとく伯母が暴れていた。
 木造ぼろアパート一階の隣同士に俺たちは暮らしていた。
 飲んだ勢いで我が家に乗り込んで母に悪態をつき、罵倒し、挙句にはわざわざ隣室まで帰り、再び戻ってきた手には包丁が握られていた。凄まじい険相で切っ先を母に突きつけた。
 母を庇おうとした俺にも刃は容赦なく向く。慌てて手を翳した瞬間、ちくりと切っ先が手の甲を傷つけ、微量の血がじんわりと滲み出る。
 母が俺と伯母の間に躍り出ると、猛り狂った全身凶器は尚も手を緩めることなく執拗に襲ってきた。俺たち母子おやこはあとずさってうまく攻撃をかわし、その度に包丁がシュッと空を切る奇声が鼓膜をつんざいた。
 そこに三宅という老夫婦が玄関から顔を覗かせた。伯母の狂気の叫びと母子の悲鳴に、ただならぬ気配を嗅ぎつけてきたのだ。老夫婦は土足で上がり込み、伯母を制してくれた。三宅夫妻が現れてくれなかったら、母は確実に腹を刺されていた。この俺も無事では済まなかったはずだ。お陰で、俺たち母子は命拾いしたのだ。
 俺は実の伯母といえども、たとえ素面ではなかったとしても到底許すことはできなかった。その蛮行は未来永劫繰り返されるに違いない。
 だから俺は決心した。
 前日から雪が降り積もり、午後を過ぎても気温は下がり続け、バケツには厚い氷が張っていた。夕方になると増々冷え込み、どこもかしこも道という道は凍りついていた。
 俺は公園に伯母を呼び出した。珍しく素面で現れ愛想笑いをこちらに向けていたが、余計に憎らしかった。俺は、
「帰ろうか」
 と言って促しながら、公園を出て下の道路へ続く階段の上に誘導した。 「ちょっと待って!」
 声をかけ、伯母が階段の上に立ち止まって後ろを振り返った瞬間、俺は全く躊躇しなかった。
「この外道が!」
 伯母の口癖を俺がそのまま返してやる。
 タックルされた伯母の体は後ろ向きに吹っ飛んで、くるくると舞を披露しながら転げ落ち、アスファルト目掛けてスイカ頭を叩きつけ、たちまち白銀は鮮血で汚された。
 俺は滑らぬように階段を下り切り、割れたスイカを覗き込んだ。
 これで災いは絶たれた。諸悪の権化を退治できたことに心は浮き立つ。同時にどくどくと流れ出る血潮のにおいを嗅ぎ続けたい願望が湧き上がった。  それ以来、死に魅入られ、取り憑かれ、同じ感覚を味わいたい衝動に幾度も駆られた。だが、成人するまで、高校の同級生を一人、町のならず者を一匹殺ったに過ぎない。手口は伯母を仕留めた時と何ら変わり映えはしなかった。確かに、血のにおいに喜びは感じたが、面白くはない。もっと他のやり方も試してみたくなった。
 それから地元の大学へ進み、世間一般での真っ当な職に就いたものの、満たされるものではない。これでは蛇の生殺しだ。生きがいを求め、職探しに奔走することになる。今の世、探せば夢は必ず叶うと知った。営業マンをやりながら二足の草鞋を履くことにした。サラリーマンになってこの方、組織は性に合わぬと常々思い知らされたゆえ、フリーランスの道を求めたのだ。
「俺という人間は一匹狼がよく似合う」
 以来、請け負った仕事は誠心誠意責任を持って遂行してきた。掟に従い、失敗は決して許されぬ。
 この趣味と実益を兼ねた副業──否、こちらが本業だ──を始めて以降、精神衛生上も頗る良好な生活を送ることができている。
「ヒットマンは俺の天職だ!」
 声高に叫びたいものだが、小声で宣言する。
 依頼を受け契約成立に至れば、ターゲットを消すだけだ。が、接近しても直ぐに実行することはまずない。銃口を突きつけながら丁重に旅立ちの場へと誘導する。なぜ命を奪われるのか、その正当性と理由を申し述べ、命の尊厳を説いて末期の懺悔を聞いてやり礼儀を尽くす。最期の一服を施し、しばしその光景を眺める。
 俺がそんな慈悲深さを演出してやると、時に勘違いする輩もいて、殺害までには至らないだろうと勝手に解釈し、涼しげな顔をこちらに向けてくるのだ。しかし、全ての儀式を済ませたら、跪かせ、一発ぶっ放して不意打ちを食らわせる。狙う的はその時の気分に沿う。致命傷に至る部位は避け、肩、腿、耳、腕……の何れか一箇所を撃ち抜き、最早死は避けられぬ旨を悟らせる。あとは延々と傷口を痛めつけ、弄んで苦悶の表情で命乞いするさまを楽しむ寸法だ。段々と切羽詰まった色を滲ませる表情が面白くて堪らない。死にたくないのに不条理にさらされ死に追いやられる寸前の恐怖に歪んだ顔といったら、あらゆる芸術作品にも勝る、真の芸術だ。
 命を支配する。俺が全能の神となる瞬間なのだ。
 激しいドーパミンの分泌が中毒症状を引き起こす。そんな快感を味わい続けたい。
 ──それが殺しの理由だ。
 そして、せめてもの仏心から、二発目で必ず昇天させてやる。
 ──これが俺の流儀だ。
 さっき殺めた男たちの顔が目前に浮かび上がった。

     *

 ──さて、二発目はどこを狙う?
 一瞬で絶命に至らしめるには頭部だろうが、ここは思案のしどころだ。動脈を傷つけ、出血多量という手段も趣深いが、今はリスクが大き過ぎる。絶命に至る間に発見されたらことだ。証言から足がつき、俺の正体が暴かれ兼ねない。
 ──やはり頭だ!
 俺は即決した。
 恰幅はいいが幾分くたびれ気味の幹部風情のほうは、頭部を撃ち抜いて早々に仕事を切り上げ、活きのいい新鮮な未熟者は、泳がせておいて存分に楽しませてもらおう。
 こめかみに銃口を突きつけた。ダークスーツの右袖が血で湿っている。ヤツは右肩の弾痕に左手をあてがいながら命乞いをする。
 ──この表情が堪らねえ!
 ──さあ、もっと怖がれ!
 俺の興奮も頂点を極めつつある。
「殺したい」
 思わず口走り、頬が痙攣して笑みが零れ、上下の歯がガタガタと鳴った。俺の喉は嗚咽にも似た喜びの呻きを漏らした。目を引ん剥いて見やると、ヤツは獣の遠吠えらしき声にもならぬ声で懇願する。泣き出さんばかりのまなこが訴えかける。
「誰が助けてやるものか!」
 俺は叫んでキッキッと奇声を上げて笑う。
 もう我慢の限界だ。目を引ん剥いたままチラと隣の若造に視線を向け微笑み、再び第一のターゲットに眼光を突き刺した。ヤツの恐怖もいよいよ極まったらしい。震えながらズボンを濡らす有様が何とも痛々しく、その姿に俺の全身も震えた。
「10、9、8、7、6、……」
 俺は御親切にもカウントダウンで命の期限を明示してやる。が、あと五つだけ残して中止し、じっと目を覗き込んだ。
「──頼む……見逃してくれないか……」
 威厳を奪い取られ、俺を拝み倒す姿が憐れだ。命を張って組織を束ねてきた男の成れの果てが、ただの物乞いだったとは見るに忍びない。
 ──最後に威厳を取り戻してやるべき……
「よーし、あんたが残りの五つを数えてください。それで男の威厳は保たれるはずだ。さあ、どうぞ!」
 年長者には最大限の敬意を払ってやるのが道理だ。会社勤めで培ってきたビジネスマナーをよくわきまえている俺は、言葉を選んだ。
「殺さないでくれ! お願いだ!」
 俺は静かに首を横に振り、左手を翳すと指を一本ずつ折っていった。
「さあ、早く。けじめは自分でつけてください。5、4、……」
「助けてくれー!」
「ダメだ。折角俺が慈悲を示してやったのに拒否するとは、人として許されるものじゃないですよ」
「死にたくねえ……」
 男は頭を抱えて地べたに這いつくばった。
「……3、2、1、……」
 俺が静かにカウントダウンを再開すると、男の喉が異様な呻きとも悲鳴ともつかぬ声を漏らした。
「ゼロ!」
 反動は腕から全身を揺さぶり、俺の魂が共鳴して嬉し泣く。
 乾いた銃声が残した鮮血が、横たわった男の体を洗い始めた。こめかみから噴き出る血潮を指ですくい取り、人差し指と親指で擦りながら鼻に近づけ、命を存分に味わい尽くした。
 ゴソゴソと衣服が擦れる音がして、靴音が遠ざかる。俺は微笑みながらそちらに顔を向ける。と、すかさず引き金を引いた。
 逃亡者は転倒し、広く殺風景な駐車場の中央でのたうち回っている。狙い通り、弾はヤツの右脚を撃ち抜いた。俺はゆっくり近づくと、地べたを這いずり回るイタチ野郎を見下ろしてやる。
「立て」
 素直に従い、くぐもった目を向けるイタチ野郎を見据えながら一歩近づけば、ヤツは一歩あとずさる。銃口を額に押しつけ、その目を覗き込み微笑んでやった瞬間、トカレフは激しく抵抗を企てた野郎の手中におさまっていた。
 ヤツは震えながらも勝ち誇った顔を向けた。両手でトカレフを構え、銃口をこちらに突きつけた。必死の形相で睨む眼が可愛らしくもある。抵抗こそ若さの特権だ。俺はヤツを頼もしく思った。
 ──そうだ、もっと抵抗しろ!
 ──若い生命力をオレに見せつけてくれ!
 俺は心の中で切に願った。無謀な衝動に駆られるのは生きんとする生命の反射だ。人は生きなければならない。その当然の権利を俺が吸い取ってやる。生き残りをかけての戦いこそ、この世で唯一意味ある尊い営みなのだ。
 ──命と命のぶつかり合い……
 ──何と美しいことよ!
 俺はヤツに背を向け、歩き出した。黒塗りのベンツの前に停めていたバイクの傍までくると、跨って煙草に火をつける。一服吹かして口角を上げ、熱い眼差しを送ってやる。
 ヤツは銃口をこちらに向けながらベンツのドアを開け、乗り込んだが、すぐに飛び出してきた。
「キーをよこせ!」
 俺は抜いておいたベンツのキーを右手に摘まんで目線に翳した。ヤツはツカツカこちらへ向かってくる。キーに手が届く距離まで近づこうとしたところを見計らって、キーを思いっ切り放り投げた。と、駐車場の敷地を越えて、傍を流れる川底へ沈んでいった。
「ヤロウ、ナメた真似しやがって!」
 呆然とキーの行方を目で追ったあと、ヤツはすっ飛んできて銃口を俺のこめかみに強く押し当てた。自ずと首が力の向きに靡く。俺はなされるがまま、鼻先で笑いながらもう一服吹かした。 
「お、降りろ!」
「これで逃走するつもりか?」
 燃料タンクを右手で撫でながら咥えた煙草を吹き飛ばす。
「早く……どけ! う、撃つぞ!」
「怖いか?」
「な、なにぃ!」
「的は近い。まず外すことはねえぜ」
 お互い睨めっこは続いた。
 ヤツは痺れを切らしたようで、少しだけ後ずさってトカレフを両手で構え直すと、引き金に指をかけた。銃口が小刻みに揺れている。とうとう、震えながらもヤツの右手人差し指は引き金を引いた。
「ステイ!」
 俺はその瞬間、おどけながら呪文を唱えた。トカレフはステイしたまま吠え立てることもなく黙りこくった。やはり、飼い主の指示には忠実に従うものだ。
 ヤツの焦りようといったら、喜劇を演じているつもりなのか、三文芝居もいいところだ。何度も引き金を引く仕種は、最早見るに忍びなかったので、抜いたマガジンを目線に掲げてやった。同時に俺はアクセルを吹かした。それに驚いたヤツは尻餅をついた拍子にトカレフを頭上に放り投げてしまった。トカレフは空中を舞い、ベンツのボンネットを直撃して地面に滑り落ちた。ヤツは慌てて起き上がると逃げる。逃げるは逃げる。脚を引きずりながら、一目散に遠ざかって行く。
 俺はトカレフを拾うと、マガジンを装填してイタチのあとを追った。
 一旦追いつくと、先回りして待ち伏せ、また追いかける。それを何度か繰り返した。ヤツの息が上がり、疲労の色が見えてきた。それでもとことん追い掛けっこで遊んでやった。いよいよヤツの脚も縺れ出すと観念したのか、その場に跪いて俺を拝み始めた。
「助けてくれー! 頼むよ、何でも言うこと聞くから……」
「オレは、お前に恨みがあるわけじゃねえぜ」
「た、助けてくれるのか。ありがてえ!」 
「クライアントに依頼されただけだからなあ」
「そ、そうか。恩に着るぜ!」
「ただ……」
「ただ……?」
「ただ……オレは生まれつき血のにおいが好きなだけなんだ」
「どういう意味だ?」
「お前のことはクライアントからは何も聞いていない。だから何も知らない、お前がどういう人間かなんて。知る必要もない。オレとお前に接点なんてないんだ。あるのは、殺しの契約だけだ。お前は、クライアントとの契約を破棄しろというのか?」
「あ、ああ……頼む! こっちも、あんたに恨みなんかねえし、そんな契約、不当なもんだろう? 金で解決できりゃ、このオレが倍額払うからよ……」
「じゃあ、オレの生きがいはどうしてくれるんだ?」
「生きがい? 金で済む話じゃねえか、そうだろう?」
「オレの生きがいを金で奪い取るつもりか? あまりにも悲しいぜ」
「分かった。オレを解放してくれたら幾らでも払うよ。すぐに用意するから……だからもう勘弁してくれよ!」
「そうできりゃ、苦労しねえのさ。まったくなあ……」
「だったら、あんたの生きがいってやつをこのオレが与えてやろうじゃねえか。それで文句はあるまい。何なんだ、あんたの生きがいって?」
「ほう、分かってくれるのか。だったらお前と契約し直そうじゃねえか。お前が生きがいを与えてくれるなら、契約成立だ。こっちも文句はねえぜ」
「そ、そうか。ありがとう。話が分かる相手で命拾いしたぜ。で、あんたの生きがいってえのは何なんだ?」
「殺しだ」
「どういう意味だ? 誰を殺るんだ?」
「契約成立したじゃねえか。お前がオレに生きがいを与えてくれるって。もう反故にはできねえよ。お前との契約を果たしてやるよ。だから、お前の助かる確率はゼロだぜ」
 俺は銃口をヤツのこめかみに突きつけた。
「やめてくれー! そんな理屈があるもんか! 死にたくねえよー!」
「おお、もっと喚け。もっとオレに恐怖の顔を見せてくれ……もっと、もっと!」
 俺はヤツと交渉を続けた挙句、契約に従った。そろそろ日も暮れかかってきたし、仕方なく引き金を引いた。

     *

 二体の屍を見やると、無事任務を遂行した満足感に浸りながら、その場を離れた。
 仕事場を無事に出て一般道をしばらく行くと、左手に森林公園が立ち塞がっている。街の向こう側へ出るには公園沿いの道路を行って迂回するか、公園内を東西に走る遊歩道へ進入して最短距離を辿るか、二つに一つ。
 さっき数台のパトカーと擦れ違った。恐らく犯行現場へと向かっているのだ。ということは、事件発生確認後、すぐに緊急配備が敷かれるはずだ。検問突破は困難になる。もたもたはできない。俺は迷わず近道を選択した。
 日暮れ時ともなれば、暗く寂しい園内からは人影は消える。たとえマシンが唸ったとて、気づかれる心配は無用だ。スピードを上げ、公園の入り口に差し掛かるとバイクを左に倒した。
 西口から中へ入ると、反対側の東口へ抜ける一直線の細い道路をしばらく行ってバイクを停めた。ジェットヘルメットとシートを交代すると、ベンチに座ってタバコに火をつける。ひと仕事終えた爽快な気分での一服は、昂った神経を宥めてくれ、ひと際美味いものだ。
 左目の視界を掠める夕日が眩しくて目を細めた。斜陽はバイクの影を東側のアスファルトへ長々と引いていた。
 ひと時の休息を味わったあと、背に西日を浴びながら東口へとバイクを滑らせた。
 魔物に遭遇するとは夢にも思わずに……。


 殺しに殺し捲ってきた俺が、今日ばかりは年貢の納め時らしい。タバコを吹かしながらクスリと笑った。
 ──もう十分生きた。
 ──四十二まで思い通りの人生、散々生きた。
 ──思い残すことはねえ。
「ヤツの正体は一体なんだ?」
 ヒグマみたいな巨体のくせして、音もなく滑るような走りにしなやかな身のこなし。獲物を仕留めん、と躊躇いもなく猛進する猪の意志強さ。その存在感には終始圧倒され通しだった。しかし実態は掴めないのだ。あれ程接近して死闘を繰り広げたというのに。しかも獣臭は微塵もない。それどころか、どことなく人間臭さが漂ってくる。ヤツと対峙した時、惨めさと憎しみめいた感情が絡み合って胸の奥深くで複雑に渦巻いた。確かに、恐怖をもたらしてくる相手だが、どこか懐かしさを覚えて仕様がないのだ。あの赤い目の奥はこの俺の何を捉えているのか知りたい。心を見透かされているとしか思えない。なぜそんな風に思うのか分からない。取るに足らないこの世の屑ごときあんなケダモノに俺の心は乱されている。
「ヤツの存在が一体何なのか知り尽くしたい。いや、知らなければならない!」
 俺は直感的にそう思った。ヤツの正体を暴いてこそ、俺の存在理由が詳らかにされるのだ。だから俺は生死をかけて真っ向勝負すると決意したのだ。
 西口方面を振り返って見た。ヤツの気配はない。短くなったタバコを摘まんで地面に弾き飛ばし、東口へ向け、バイクを滑らせた。
 中間地点からしばらく行くと、池が見えてきた。そこに架かる橋は確か二〇〇メートルぐらいだ。俺は橋の袂で一旦バイクを停めた。
 凪いでいる。辺りはシンと静まり返り、平和を貪り尽くしているかのようだ。余りの静けさに耳の奥に痛みが走る。鼓膜が捉えた心臓のドクドクと脈打つ音だけが緊張を保っている証だった。
 拍動数が一気に上り詰める。こめかみの血管が痛み出す。眼球が膨らみ、瞼がキッと見開いて神経は過敏に反応し始める。案の定、鼓膜は微細振動を聞き逃しはしなかったし、皮膚はほんのりとにおう吐息すら感知した。舌なめずりの気配だ。俺の全身は忽ち粟立ち、武者震いした。

     *

 俺の背中に空圧が襲った。精緻な探知機と化した全身の感覚器が捉えたのだ。
「後ろだ!」
 咄嗟に振り返る。何も見えない。が、殺気は確実にこちらに迫りくる。  寸前まで引き寄せておいて、殺る。
 Tシャツを引きちぎり、左手にトカレフを縛りつけて固定した。アクセルを吹かしながらヤツの接近を待つ。
 頭の中で勝利の瞬間だけを思い描く。飽くまでもポジティブな思考で気持ちを奮い立たせ、己のポテンシャルを最高潮に上げるのだ。位置エネルギーの高さに比例して仕事の成功率も高まる。
 鼻から息を吸い、肺に溜め、口から細くゆっくりと吐き出す。バックミラーを睨みつつ、それを繰り返しては平常心を保てるように仕向けた。
 ミラーに赤星が映り込む。針の穴を通したような点が一つ次第に小さく揺らぎ始め、いっときしたら、点は二つに分離し、上下左右へとランダムに振動を繰り返す。
 点は加速度的に大きさを増してきた。二つの赤い玉がうねりながら迫ってくる。俺は振り返った。目測で約200メートル。
 ──100メートル……50メートル……
 俺は急発進してバイクを唸らせた。
 バイクの加速と共に、ヤツもスピードを上げ、迫る。徐々に距離が詰まる。フルスロットルで引き離しにかかったが、ヤツは難なく追いついた。そのまますぐ後ろにピタリとついて走行してやがる。
 死臭を嗅ぎながら弄ぼうとの魂胆か、ミラーには欲望の赤い玉が俺を捉えて決して離さない。いよいよ輝きは増した。死肉を求めている証なのだ。
「オレの屍を貪りたいか!」
 俺は鼻先で笑いながらトカレフを標的に向けた。
 引き金を引く。
 命中する度に、重低音の声が俺の耳を襲う。苦しみの呻きというより、興奮を抑え切れずに発した歓喜の雄叫びに聞こえた。
 ヤツの爪が高々と天に翳される。
 俺は一旦トカレフを引っ込め、両手でハンドルを取った。攻撃をかわさんと蛇行する。
 と、爪は鋭く振り下ろされ、空を切り裂く悲鳴と共に革ジャンを引っ掻いた。咄嗟に尻をシートから外して左側へ避けた俺は、危機一髪で難を逃れたのだ。
 だが、ヤツの爪はそのままシートに突き刺さってしまった。車体が制動をかけられ減速する。
 体勢を元に戻し、再び銃口をヤツに向けると、前腕を狙って撃ち捲った。血飛沫が飛び散り、ヤツの悲鳴が聞こえたかと思ったら、突然バイクは加速し始め、その巨体を置き去りにして逃げ切った。
 橋を渡り切り、しばらく行ってバイクを停め、振り返って見た。ヤツの気配は完全に消えた。
 ふとシートに目を落とすと、黒い塊がくっついていた。銃弾に切断されたヤツの右腕の一部だ。そいつを両手で掴んで、革張りのシートに食い込んだ爪を引き剥がしにかかる。
 血潮の煮えたぎった毛むくじゃらの肉塊を、渾身の力でやっと引き抜くことができた。鎌のように湾曲し、先端は鋭く尖ったニ十センチメートル程の巨大な爪が五本、指先からのびている。こいつにやられたら、ひと掻きでお陀仏だ。
 血の滴る肉づきの鎌を木々の間へ放り投げると、東へバイクを走らせた。  あと百メートル足らずで東口へ出る。やっとこの災厄から抜け出せるのだ。俺は心の中で勝鬨を上げ、アクセルを吹かすと、さっきの対決を振り返った。
 ほんの数十秒程度、否、十秒にも満たぬ攻防戦だったろう。捉えどころのない風貌といい、備えた武器といい、何とも身の毛もよだつケダモノだ。想像しただけで鳥肌が全身を走った。俺は生まれて初めて恐怖を味わっていた。一度身震いして、息を肺の奥へ吸い込み、己の臆病風の元凶を口元から思い切り吐き捨てた。
 出口が見える。前方を睨みつけながら、己が魂を猛り狂ったエンジンに乗せ、最後の直線を突っ走る。
 ──時速80㎞……100㎞……
 アクセルを吹かす。
 ──時速100㎞……80㎞……70㎞……
「なぜだ!」
 程なくしてバイクは減速し始めた。わけが分からない。
 ミラーを覗く。何も映ってはいなかった。後方を振り向いても、赤い目玉もヤツの影も見えない。
 ──時速50㎞……40㎞……
 減速はおさまらない。
 前方に東門が見える。あと数十メートルで森を抜けられる。しかしバイクはとうとう俺の意に反して停止してしまった。アクセルを吹かしても前に進もうとはしない。
「寸前で故障とは……オレの運も尽き果てたのか?」
 舌打ちして息を思い切り吐いたら、喉の奥が呻いた。
 ほんの4、50メートルに過ぎない。俺の足で8秒にも満たぬ距離だ。全力疾走で難なく決着はつく。考えあぐねた結果、バイクを降りた。決断したら最早躊躇はしない。バイクを捨て、スタートダッシュを切った。
 好スタートを切ったにも拘らず、数メートル行っただけで自ずと足は止まった。突然、さざ波が起こったかと思ったら、巨大な影が飛び出て、東門を塞いでしまったのだ。俺はあとずさり、バイクの元へ戻る羽目になった。  どう考えても可笑しい。如何なる獣もこれ程速く先回りするのは不可能だ。どこかに抜け道でもあれば話は別だが、この森には存在しないことは承知済みだ。翼があるとも思えないし、木から木へと渡ってきたとでもいうのか。
「あんな体重のケダモノがか? まず、あり得ねえ!」
 俺は仕方なく、バイクを反転させ走らせてみた。と、難なく加速し、忽ちスピードメーターの表示は100を超えた。故障は既に直っていた。俺はまた西へ向けて走った。
 程なくして橋に差し掛かった。バイクは一直線上を唸り続ける。
 橋の中央にきた時、また減速し出した。俺は咄嗟に後ろを振り返った。が、ヤツの姿は認められない。バイクは急停車して動こうとはしない。アクセルを吹かす度にエンジン音が虚しく響くだけだ。
「万事休すか。ここがオレの終焉の地というわけか……」
 呟いてこの先の運命を見定めた。覚悟を決めると、心は穏やかなものだ。もうあたふたする必要はない。運命に身を委ねるだけだ。
「どっちが勝っても恨みっこなしだぜ」
 俺はバイクを降りると橋の欄干に尻を落ち着け、左手に巻いていた布切れを解いた。トカレフを右手に持ち替え、その瞬間が訪れるの待った。
 長い時間が経った時、ガリガリと何かが引っ掻くような音が聞こえて、そちらに目をやる。
 バイクのシートの上を何かが這っている。その正体を見定めたとたん、背筋は凍りつき、脊椎が頭蓋に突き刺さる。反射的に銃口から火が吹いた。ソノモノは、俺に襲いかかってきた。
 ヤツの千切れた腕が俺の首を締めつける。

     *

 首を掴んだ五本の爪が徐々に肉に食い込む。
 必死にもがいて両手で引き離しにかかったが、抵抗虚しく、頸動脈を締めつけられると意識は遠退いて、ストンと両膝を地べたについてしまった。
 薄れゆく意識の中でトカレフをヤツの腕に当て至近距離からぶっ放した。と、意識は回復して、力の緩んだ隙に爪を剥がすと、地べたに叩きつけ、粉々に砕け散るまで銃弾を食らわせてやる。辺り一面にミンチが散乱した。
「さっきの減速の原因はこいつの仕業だ!」
 東の方から吠え声がした。どこか悲し気な響きで俺の魂を責め立てる。そちらに目をやると、真っ赤な目玉が闇に蠢いた。
 俺は咄嗟にバイクに跨って西へと走らせた。難なく加速し、橋を過ぎ、森を疾走し続けた。
 ミラーには赤い光は映り込んではいない。
 俺は何があってもこのまま走り続けることに決めた。たとえヤツと鉢合わせになろうとも。
 木々の騒めきを左耳が捉えた。微かなにおいと頬に風圧が届く。ヤツが移動する気配だ。恐らく行く手にヤツは必ず現れるだろう。
「それがどうした!」
 俺は前だけを睨み、バイクで闇を切り裂いた。
 前方に赤々と燃え立つ目玉が俺を嘲っている。俺はトカレフをぶっ放しながら立ち向かった。ヤツもこちら目掛けて突進する。
「コノヤロー!」
 俺が雄叫びを上げると、ヤツも吠えやがった。
 スピードメーターに目が行く。
 ──時速100㎞!
 互いのスピードが加算され、200㎞超えだ。
「上等だ! きやがれ!」
 俺の興奮は最高潮に上り詰める。最早、死も厭わぬ。殺るか殺られるか。この生存を掛けての刹那を生きるだけだ。
 凄まじいスピードで接近する。
 ──10、9、8、7、6、……
 俺は頭の中でカウントダウンを開始した。じきに決着はつく。
「5、4、3、2、1、……ゼロ!」
 目の前に眩い閃光が走った。俺の肉体と魂は引き離され、虚無が襲いかかる。物質と反物質との衝突で対消滅の瞬間だ。俺はバイクから飛ばされ空中を舞って背中から地面に叩きつけられた。全身に衝撃が走り、身動きは叶わなくなっていたけれども、意識は保っていた。
 仰向けに横たわった俺の体にヤツがのしかかる。重みに内臓が圧迫され、胸苦しくて息ができない。
「コイツはナニモノだ?」
 目玉だけがギラギラと赤い閃光を放ってはいるが、毛むくじゃらだとばかり思っていた肢体は黒い靄そのもので、まるで輪郭がつかめない。闇と溶け合うかのようだ。その上、何とはなしに俺と同じにおいがする。ヤツの目を見つめていると、どこか共感さえ覚える。底知れぬ恐怖と快楽とをもたらす真っ赤な熱情だ。俺を殺したがっているのだ。だが、不思議なことに俺に恐怖心は湧かない。死ぬことに怖れなどない。
「さあ、やってみろ!」
 俺はトカレフの引き金に右手の人差し指をかけると、手首を曲げて銃口をヤツの心臓付近に向ける。
 ヤツの残った左腕がゆっくりと動いた。俺の胸元に爪を立て、金切り声を発した。まるで歓喜の雄叫びだ。一本の爪が、俺の胸部を横一文字にスッと浅く切り込みを入れた。痛みは感じない。
 顔を近づけ、滲み出る血を舌ですくい取ると上体を起こし、また爪で傷口を弄り始めた。肉と皮膚の境目に爪を立て、じわりと剥がしにかかった。
 反射的に奥歯が合わさり、ギュッと噛み締める。喉の奥から甲高い振動が歯ぎしりを誘発した。俺の喉は激しく息を吐き出すだけで決して吸い込めない。 
 ゆっくりとゆっくりと皮膚を剥ぎ取ってゆく。
 堪らず俺の足は地団駄を踏み続ける。全身に震えが走る。俺は短い呼吸を繰り返し、身を震わせながら、やっとの思いで引き金を引いた。
 銃弾は数発確実に心臓を撃ち抜いたものの、ヤツは怯むことなく俺の両腕を膝で押さえつけながら、平然と俺を解剖し続けるのだ。
「助けてくれー!」 
 俺は堪らず叫んだ。
 すると、ヤツの手は一旦休息し、目玉が一層赤く燃え始めた。ヤツの爪が今度は深く抉るように俺の肉を骨からこそぎ落としてゆく。
 闇を切り裂かんばかりに俺の喉から雷鳴が轟いた。自らの悲鳴は苦痛を倍増する。苦しい。この苦しみから逃れたい。自ずと願望の言霊は口元から放たれる。
「早く殺せ。楽にしてくれ。頼む、死なせてくれー!」
 だが、弱音を吐いたとて、ヤツは俺の命を弄んで、一向にやめる気配はない。
 ──一体、何がしたい!
 ──お前みたいな魔物に弄ばれる命などない!
 ──人の命は尊いものだ!
 ヤツは一旦行為をやめると、こちらをじっと見下ろした。突然、その顔が目の前に接近して、赤い目玉が俺を睨みつけた。俺は顔を背けて逃れると、目玉は閉じられ、辺りは暗闇になる。
 再び二つの玉は尚一層真っ赤な炎と化したかと思えば、その牙で俺のはらわたが引きちぎられる。ヤツは俺の臓物を貪り始めたのだ。いよいよ俺の苦痛は極まった。早くこの苦しみから逃れたい。
 ──死にたい!
 ──オレの肉はお前にやる!
 ──だが、オレが死んだあとにしてくれ!
 ──オレの屍はお前のものだ!
 ──だから、早く楽に死なせてくれ!
 ヤツは食らうのをやめ、上体を起こすと、また俺を高みから見下ろす。
「頼む。トドメを刺してくれ!」
 俺が懇願すると、ヤツは嬉しそうに雄叫びを上げ、俺の臓物を舐め回し始めた。
 右腕が自由になっていたことに気づいた俺は銃口を自分のこめかみに当てた。このまま引き金を引けば悪夢から解放される。苦しみから逃れられるのだ。俺は迷わず引き金を引いた。
 だが、俺は生きていた。銃弾は頭を貫通などしなかった。それはヤツの手で防御されたのだ。
 俺は悲しさのあまり、嗚咽する。死にたくて堪らないのに死ねない辛さ。生き地獄を生きねばならぬ不条理。余りの不条理に己の運命を呪った。死にたくてもトカレフを持ち上げる力も気力も潰え去った。最早、己の命すら制することはできない。この命を支配できるのはヤツだけだ。ヤツが全能の神なのだ。
 俺は激しく嗚咽した。泣き喚いた。子供のように泣きじゃくった。
「死にたいよう。お願いします、殺してください。オレを苦しみから救ってください」
 俺は祈った。魔物に向けて祈った。
 俺を見下ろしていたヤツの目玉が幾分暗くなったかに見える。
 ──分かってくれたのか?
 ヤツは静かにあとずさると、再び雄叫びを上げながら向かいかかってきた。
 俺は覚悟を決めて、最期の瞬間を待ち侘びた。
 ヤツは爪を立て、俺の頭皮を剥がしにかかる。俺は悲鳴を上げ、歯を食い縛った。と、ヤツの牙が俺の頭蓋を噛み砕く音が響いてきた。
 ──ダメだ、殺せ! 
 ──ひと思いに殺してくれー!
「トドメを刺してくれー!」

     *

 夕日が左頬を突き刺す。
 死にたくて堪らないのに死ねない恐怖と苦痛に苛まれ、気がつくと、夕日を浴びながらベンチに座っていた。
 ハッとして己の胸元に手をやる。肉は削がれてはいなかった。頭部に牙の痕もない。辺りを見渡すと、森林が青々と茂っているだけだ。穏やかそのものだ。足元には短い吸い殻が一本だけ踏み消されていた。
「夢……か?」
 しかし、リアルな夢だ。
 ──本当に夢だったのか?
 もう一度己の全身を弄ってみる。この身に傷ひとつもない。懐に手を入れてみる。トカレフはちゃんとホルダーにおさまっていた。
 風が立った。
 微風にのって仄かな臭気が鼻腔をくすぐった。熟れたザクロのだ。
「ヤツのにおいだ!」
 あれが夢だった、と本当に言い切れるのか。夢だと思い込もうとしているのではないのか。俺は考え続けた。だが、俺には分からない。夢と現実の境界線がはっきりしないのだ。
 俺は震えていた。心底怖い。夢ならこれ程の怯えなどないはずなのに。  ──どういうことだ?
 ──オレ自身が変なのか、この世がおかしいのか?
 ──いや、オレは真っ当だ!
 世の中がまともじゃないのだ。だから俺はこの世を正すために悪者狩りをしてやった。正義の鉄槌を下しただけだ。
「嘘じゃない!」
 今、誰かが俺を否定したから、俺は自分の正当性を主張した。
「違う! 確かに血のにおいが好きだ。だが、オレが殺ったのは悪人だけだ。オレの仕事は社会のためになってきたはずだ」
  声がする。頭の奥部で激しく俺を揺さぶってくる。俺は耳を塞ぎ、頭を掻き毟った。何度もかぶりを振って声を弾き飛ばした。少しふらついたものの声は遠ざかった。
 俺はいっとき頭を抱えながら直接脳へと忍び込んでくる声と格闘したあと、ようやく落ち着きを取り戻し、ベンチの背もたれに寄り掛かった。暮れかかる公園の遊歩道がぼんやりと目に映る。
 俺は立ち上がると、メットを被りバイクに跨った。エンジンをかけ、東口へとゆっくりと滑らせる。
 夢の中の出来事を頭に再現しながら、すっかり日が落ちた森を行くと、ヘッドライトが橋の全景を照らす。
 袂でバイクを一旦停め、前方を見据える。赤い玉を探した。が、当然存在するはずはない。
「夢ごときに怯えるとは……」
 己を嘲ると、またバイクを走らせた。
 何事もなく東口までやってきた。アクセルを吹かし、最後の直線を疾走する。
 と、前方に何かが蠢いた。バイクを急停車する。
 じっと闇を凝視する。闇が破け、ほんの小さな光が見えた。俺は首を傾げながら見入った。
 それは次第に膨れ上がり、二つの赤い玉となってこちらに向かってくる。  咄嗟に俺の体は反応して、バイクは逆走を始めた。一心不乱にフルスロットルで疾走した。バックミラーには何も映らない。
 ──あれは幻だ!
 ──現実じゃない、夢なんだ!
 何度ミラーを確認しても赤い光は映り込まないし、気配すら感じはしない。
「オレはどうかしてる。頭が変になったのか?」
 と、前方から赤い光が突進してきた。肌は粟立ち、急に全神経が滞り、生命活動を停止させたかのように、全身が強張って身動きできない。俺はなす術もなく激突の瞬間へと運命を走らせた。

     *

 ヤツは俺を生きたまま貪り尽くそうと躍起になっている。
 俺は命乞いなどしない。ただただ死を求めていた。この苦しみから逃れたい一心で死を求めた。だが、ヤツは許してくれない。これ程の恐怖を植えつけ、オレを生殺しの生贄に仕立てるとは……。
「お前はナニモノなんだ?」
 俺は赤い目を覗きながら、その奥の実態を探ろうとした。
 唐突に俺の思考を何者かが操るように、脳に直接囁きかける。その声を苦痛に喘ぎながらも聞いた。
 ──オレだと?
 ──お前はオレ自身なのか?
 ──別次元のオレ!?
 ──オレがお前を呼び寄せた?
 ──オレが次元の壁を破ったとでもいうのか!
 ──オレ自身が望んだ……?
 ──ほざきやがって!
 ──お前が真のオレの姿……?
 ──違う、断じて違う!
 ──オレはお前みたいなバケモノじゃねえ!
 ──オレは確実に殺してやる!
 ──死の恐怖は与えてやるが……
 ──死ねない苦痛は決して与えはしない!
 ──だから、お前みたいな残酷さはオレにはない!
 ──分かったか!
 ──だったら、早く殺ってくれ!
 ──もう十分楽しんだだろうが!
 ──頼むから楽にしてくれー!
 ──死にたい、死にたい、死にたい!
 真っ赤に燃え盛る二つの光が俺の魂を八つ裂きにする。身も心も苦痛に耐えきれず、目を瞑って闇に逃れた。力を振り絞り、腹の底から叫んだ。
「早くトドメを刺しやがれー!」

     *

 死にたいのに死ねない恐怖が襲いかかる。俺は頭を掻き毟り死を切望した。
 闇が去り、瞼が明るくなった。全ての痛みが消えていた。
 ──死んだのか……?
 ──ここは、あの世か?
 恐々目を開けてみる。
 穏やかな西日に照らされ、爽やかな風が頬に心地いい。木々の葉擦れが鼓膜をくすぐる。辺りを見回してみる。目の前にバイクが停まっていた。
 俺はベンチに座っていた。
  ──夢なのか?
 夢か現か分からない。
  胸に手を当て鼓動を聞いてみる。命の焔は灯っていた。
 ──ということは……
 ──こちらが現実の世界なのか?
 分からない。俺には分からない。なぜ生きているのか理解できない。生きているのなら、またあの恐怖が襲ってくる。死より過酷な苦しみを味わい続ける呪われた現実が。本当の恐怖は、死ねないという運命なのだ。それを悟ると、また全身に震えが走る。
 ヤツの赤い目玉が見える。脳裏に焼きついていつ何時も襲いかかる。常にヤツは俺を次元の狭間から監視して決して逃してはくれないのだ。俺の魂が怯え出す。最早この苦痛には耐えらない。
「死にたい」
 俺はトカレフをこめかみに当てた。迷わず引き金を引く。乾いた銃声が鼓膜をつんざいた。
 ──これでやっと死ねるのだ!
 だが、どうしたことだろう。何かが俺の行為を阻んだ。
 ふと横を向いたら、ヤツがこちらを覗いているではないか。恐怖のあまりギュッと目を閉じ、やり過ごした。
 恐る恐る目を開けた時には既にその姿はなく、ベンチの上には銃弾が一発だけ零れ落ちていた。
 ──オレはまだ生きている……
 絶望だけが俺を支配した。どう足掻いても死ねない。
 ──そんな絶望を友として生き長らえねばならないのか!
「嫌だー!」
 誰かがこちらにやってくる気配がした。そちらに目をやると、通りすがりの制服姿の女子高生二人が目に留まった。
 ──そうだ、彼女たちに頼もう……
 俺は立ち上がるとベンチを離れ、彼女たちのほうへ近寄った。怖がられぬよう笑顔を拵えると営業を始める。
「こんにちは」
 深々と頭を下げる。
「──こんにちは……何か?」
 彼女らも快く笑顔で応対してくれた。
「あのう、恐れ入りますが……私を殺してくれませんか?」
「エッ? どういう……意味でしょうか?」
 彼女らはお互い顔を見合わせ、首を傾げる。
 俺はトカレフを高々と天に翳して見せた。
「これで撃ち抜いてくれるだけでいいんです。人って簡単に死んじゃうんですよ。ねえ、物凄く面白そうでしょう……人殺しって」
 俺は天に向け発砲した。
 と、彼女たちは悲鳴を上げると、一目散に今きた西口方面へと走って行った。
 俺は二人の後姿を目で追いかけながら、絶望を噛み締めていた。仕方なくベンチへ戻ると、頭を抱えて嗚咽した。
 そうして、どれだけの時間が過ぎたのだろう。俺には最早時間の感覚さえ分からなかったし、そんなことなど最早どうでもよかった。ただただ、どうやって死ぬかを考え続けていた。
 人の足音が聞こえる。咄嗟にそちらを見た。制服警官が近づいてきた。突如、俺の気持ちは明るくなった。心に光明が差し始めたのだ。
 さっそく立ち上がり、銃口を向けながら警官たちを歓迎した。一発天に向かって発砲する。
「銃を捨てろ!」
 その声に心は浮き立ち、銃口を警官に向ける。
「ヘヘヘ……撃ってくれ! さあ、射殺してみろ!」
 俺は近づきながら躊躇せず、引き金を引き続けた。勿論、的は全て外して。
 リボルバーから放たれた銃弾は、有難いことに、俺の胸を撃ち抜いてくれた。俺はその場にくずおれた。仰向けに倒れた俺の目には広々とした空が映る。青々と晴れ渡り、一点の曇りなどない。
 ──やっと死ねる!
 ──ヤツの目から逃れられる!
 ──これで苦痛とはおさらばだ!
 俺は咽び泣いた。嬉し涙に暮れた。
「ありがとう……」
 俺を覗き込む警官二人に感謝の言葉を送った。


 白い世界が目の前に現れた。死後の世界だ。ようやく願望は遂げられたのだ。心はどこまでも凪いでいた。穏やかな空間に希望の風が吹き渡る。
 俺は喜び勇んで上体を起こすと、四方を見渡した。狭い部屋の中のようだ。白い壁で覆われ、リノリュウムの床が寒々しい。開け放たれた窓には鉄格子が嵌められてある。
 ──ここはどこだろう?
 部屋のドアが開いた。白装束の男と女が入ってくる。否、白衣を着た医師と看護師だ。
 ──ここは病室だ!
 ──すると……オレは、生きているのか?
「なぜだ!」
「運がよかったのさ。急所を外れたんだよ」
 医師は俺の脈を取りながらニタニタ笑っていやがる。
 ──運がよかった、だと!
 ──オレは死にてえんだ!
「そんなバカな! バカなことがあるもんか!」
 俺はまた恐怖に震え出した。ヤツの目が怖い。いつ襲ってくるか分からない。
「勘弁してくれー!」
「さあ、安静にしてなさい。退院したら罪を償ってしっかり生きなさい」     
 ──何をほざきやがる!
 ──絶望を食らいながら生きろとでもいうのか!
 二人の白衣の悪魔は俺を置き去りにして、病室を出て行った。
 俺はベッドに身を横たえて膝を抱えた。震えは徐々に激しさを増す。一層身を縮こまらせると、病室のいたる所へ目を走らせたあと、気持ちを落ち着かせようと瞼を閉じる。
 そうして長い時間と共にようやく心の安定を得られ始めたので、静かに目を開けた。何も変わった様子はない。安堵して俺は溜息をついた。
 正面の白壁に目をやる。壁の手前に小さな半透明の靄がかかっている。よく見ると、さざ波のように揺れ出した。突然、靄の中心が裂け、極々小さな染みが浮かび出た。
 一旦目を逸らし、再び視線を染みに向ける。心なしか膨らんだかに見えたが、それは己の怯えのせいに違いなかった。俺は自嘲して両手で顔を擦ると、上体を起こし臆病の元凶と対峙した。じっと染みと睨めっこを続ける。
「──そんなはずは……」
 染みは確実に大きく膨らんでいた。それを認めた瞬間、靄は爆発的に破裂して二つの光が猛烈な勢いで俺に向かってくる。
 破けた空間から飛び出した真っ赤に燃え盛る炎は忽ち目前まで迫った。俺はベッドを抜け出して病室の隅っこへ身を寄せた。しかしヤツの魔手は確実にのびてくるのだった。
 俺は、死ねないという本物の恐怖と過酷な苦痛に苛まれながら、呪われた現実を生きなければならない。
 ──未来永劫!
「オレが怖いか? オレはお前だ! ナニを怖れているんだ? 報いを受けろ!」
 赤い目玉を覗きながら、俺は呟いていた。         


    〈了〉













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