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あなたは、かけがえのない家族だから【第3話】『へんせいけんたい』



 どうしたことでしょう。正気を取り戻した私は、仰向けに寝かされていました。腹部の痛みで七転八倒していたのを覚えていますが、その後の記憶が定かではありません。ということは、恐らく気を失っていた。
 目玉をぐるりと回転させてみると、私の周囲を緑色の集団が忙しなく動き回っています。彼らの腰当りに目線があるということは、何らかの台の上に私の体は乗っているのでしょう。肉切り包丁を摘まみ上げて満足げに天にかざし、裏表を丹念に確認していましたが、冷ややかな視線を私に落としながら何やらワゴンらしき物の上に置かれた金属の皿に並べました。あたかも準備運動をするように薄手の手袋を嵌めた両手を組んで合掌したり、結んで開いてをしたかと思えば、左右交互に揉み解し終えると、真上から私を覗き込んできました。冷徹な目は物欲しげで、獲物を射程圏内に捉えた証だと言わんばかりに緑布の裂け目から漏れる眼光がぎらついています。
 捕食者の思惑から逃れるように、私は目玉を横に滑らせました。と、二人重なった緑色の着衣の隙間からチラと純白を認め、見え隠れする光景に思わず息を呑み込んだのです。隣の台にもう一人横たわっているではありませんか。私と同じく剃髪し、形良い鼻梁の横顔です。蒼白した肌が生々しい……。
 ──死体……?
 目を凝らして白布で覆われた人体の様子をうかがいましたら、胸辺りが小高く盛り上がり、女性だと気付きました。その丘が微かに上下を繰り返すように見て取れます。ということは、頼りなくも呼吸していたのです。
 ──生体に違いない!
 彼らの淡々とした規則的な身のこなしようといったら、あたかも動物実験の準備でも行うかの雰囲気なのです。人たる感情の欠片すら持ち合わせぬようにこの目には映ります。やはり血に飢えた獣にしか見えません。
 悲しい気分に苛まれながら、目玉を天井に戻しますれば、灯を落とした無数のライトがひしめき合っていました。私の意志は、最早四肢に伝達せず、標本台に金縛りにされてしまった。行動も制御され身動きは叶いませんが、意識だけはあるのです。ただ、声が出せない。既に、麻酔がわたくしそのものを凌駕したのです。自由を奪われた私の周囲で、彼らはオペの準備を手筈通りに着々と進めています。
 と、天井から閃光が放たれ、眩しさに耐え切れず目を瞑る。左足の親指にメスが入った。肉を削がれる感覚は左足の甲、脛、腿、臀部、片半身の神経を這いずり、脳へと伝わります。オペは前触れもなく突然始まったのです。
 痛みは……全くない。だが、私は「痛い」と叫びたい衝動に駆られた。そうすれば不安は解消できると思ったからです。
 メスは我が身の至る所に同時に当てられ、あたかも試し切りでもするように容赦なく振るわれる。武芸達者たるを競わん、と誰しもが躍起になっているみたいです。真っ先に勝ち名乗りを上げた者にこそ栄達の称号を与えん、などとまな板上の鯉の気分で獣たちに身を委ねる決心をして、しばらくの間目を閉じます。
 胸が重苦しくなり、目を開ける。胸の肉を剥がされ、パックリと割れたあばらの下の内臓が蠢いています。私の心臓は規則正しい周期で時を刻み続けましたが、ひとたび不安感が胸底から込み上げた途端、拍動数は自ずと増し、呼吸も荒くなってしまいました。その動きを凝視し、収縮する回数を数えながら息を整えてゆく。三百まで数え切ったら、幾分収縮は減速し出しました。それに伴い、心も平安に保たれつつあります。
 ──焦げ臭い!
 電気メスで焼かれた脂肪のにおいでしょうか。しばらくしてはらわたを掻き回される感触が吐き気を催します。ふくよかな腹部の裂け目から、胃袋が引っこ抜かれ、すぐにまた両手がはらわたを弄ったかと思えば、無造作に引き抜いたシリコン手袋の掌には赤黒い臓物の一部が握られていた。レバーの欠片なのですね。
 体を切り刻まられ、バラバラにされる。私から次々と臓器が失われてゆく。が、それらと引き換えに別の臓器で我が肉体は補完されます。再び目玉を横に滑らせる。恐らく、彼女からの賜りものなのでしょう。私を離れた臓器は彼女と交換されたのです。

 私の肉体は遺伝的、後天的な病巣に蝕まれてきました。それは複数の内臓に及び、匙を投げる医師が殆どです。殊に胃痛を抑えるのは至難の業なのです。薬物で騙し騙し凌いできたのですが、最近、痛みは日毎に増す一方で、内科的な薬物療法にも翳りが見えてきました。最早、いかなる薬剤でも制し得ぬほど悪化の一途を辿ってしまいました。次に選択したのは患部の切除。しかし、通常の外科的な療法でも再発は防げなかった。
 私の病を完治させ得る治療法が必ずどこかに存在するはずだ、との淡い希望を抱きつつ、藁にもすがる思いで名医探しに明け暮れていました。
 一部の臓器を人工臓器で置換する方法も視野に入れましたが、予後は決して良好というわけではありませんでした。縫合した箇所が剥がれてしまえば、その時点で即お陀仏となるのは避けられない。
 また、脳と一部の臓器を機械仕掛けのボディに移植するというハイブリッド化も選択肢のうちにはあるのですが、生物としての感覚を犠牲にせねばなりません。そうなれば生きている意味など薄れてしまう。この術式が初めて世に知らしめられた当初こそ、永遠の命がもたらされるなどとメディアも騒ぎ立て、不治の病に苦しむ者どもを煽ったりしましたが、無機物に脳だけをくっ付けた、いわば生ける屍同然だとの体験談が報道され出すと、瞬く間に人々の熱は冷め、不人気の術式へと追いやられ、今では廃れました。そんな理由から、その選択をする患者は少数なのです。サイボーグなど私も絶対に嫌です。いつまでも人間の人間たる尊厳を失いたくはない。もっとも、生きる意味など問わない一部の不老不死願望の信奉者のみが選択する術式として罷り通ってはいます。
 動物から人への臓器移植や、現在主流である自己の細胞を培養生成しての再生医療も勿論考えましたが、どれも一長一短なのです。そうして最後に辿り着いたのが、まさに今行われている術式というわけです。
「如何なる病をも完治させてみせます」
 との謳い文句で華やかに登場をきめる医師の動画をたまたま目にしたことが切っ掛けでした。全身黒ずくめで、どこか奇術師かと見紛ういでたちは些か禍々まがまがしくもあったのですが、超一流国立大卒で症例数もずば抜けて豊富。何よりも世界の要人を幾人も救ってきたという経歴に惹かれました。プロフィールも完璧な今季最高峰の医学賞受賞との呼び声も高いスーパードクター。すがる思いでこの医師に賭けてみようと決心したのです。
 ですが、どんな名医を前にしたとて不安を拭い去ることはできません。
「失った足が痛んだり、痒くなったりする感覚を経験する、と聞いたことがありますが?」
 初診時に私は恐々疑念をぶつけてみますと、
「そんな不快な現象はなく、お互いに取るに足りぬ痛みのみ。痛み分けとでも申しましょうか……」
 と穏やかな顔で返答してくれました。 
 再生医療華々しい昨今、他人の臓器を移植とは、一見、時代錯誤も甚だしい術式のような印象を受けますが、医師の説明によれば、
「この術式こそ最新。弊害の少ない、否、皆無だ。副作用のない完璧な術式なのだ」
 とのこと。威厳たっぷりの確固たる自信に私も絆され、信じてみようという気になったのです。
 こうして最後の砦にすがることにしました。やっと名医を見つけ出し、最新の療法でかたをつけるしか方策はなくなったのです。


 術後、病室に戻されて麻酔が覚めるまで身動きは叶いませんでした。やはり目玉だけは動かすことができますので、仕方なく可視領域のみ視線を滑らせてみましたけれども、映し出される病室の有様は極めて殺風景なのです。次々とモノクロ写真の細切れでも見せつけられる感覚です。これは私の心模様が投影された結果なのでしょうか。私はつまらない世界を見るのが忍びなくて目を閉じました。
 四肢の指先がこそばゆいし、じんじんと怠くなった。次第に感覚が蘇ってきます。目覚めた部位から順に動かしてみますと、意識が重力に抑え込まれる。ですが、それに抗う力も漲ってきました。私は咄嗟に目を開けて、上体を起こす。窓外の新緑が生き生きと目に映えています。静かに身を捻り、ベッドの縁に脚を投げ出して腰かける。スリッパを履いて立ち、洗面台を目指しました。
 鏡を覗いて、術跡じゅつせきを辿ってみます。白い病衣の上から胸を擦る、腹を擦る。至る所に盛り上がりができていました。不思議なことに触っても何ら痛みは感じません。左前に合わさった病衣の前紐を解いて、全開にしました。鏡に己の裸身が映し出されます。縦横無尽に張り巡らされた環状線のように、体じゅうに縫い目が浮かんでいます。首の所にも。私の体は、無事、元通りに縫合されていた。
 みぞおちあたりの傷に上から下へと右手の中指を這わせてみる。あの胃痛が嘘のようになくなっています。移植された胃袋は私の肉体との相性が頗るいいに違いありません。手術室で横にいたあの女性のものなのです。彼女には私の胃袋が提供されました。あちらも良好かどうか些か気にかかりますが、それはあとでお目にかかった折にでも尋ねてみましょう。互いの健全、不健全な臓器を補完し合いました。私の一番の苦痛は取り除かれ、かわりに彼女の苦痛がこの身にもたらされたのですが、あの胃痛に比べれば、何てことはない。気分も俄然良くなり、目前の世界が華やいで明るく映ります。ただ鏡の自分はグロテスクです。普通の術式ならこんな醜い傷は残らなかったのに。何と言いますか、フランケンシュタインの気分です。ともあれ、体が元通りにつながって安堵したのも事実です。この気分を維持するため、私は病衣の前を合わせて裸身を隠しました。静々と移動し、再びベッドの縁にゆったりと腰を下ろして目を瞑る。最大の苦痛は脱ぎ捨てたのだから、この瞬間の幸福感だけを味わおうと思いました。


 数日後、すっかり回復した私は、彼女の病室を訪ねてみようと思い立ち、すぐさま行動に移しました。彼女は個室から大部屋へ移動していて、入院患者は彼女を含めて六人です。入り口の名札でベッドの位置を確認して入室すると、彼女はベッドに上体を起こして窓外の虚ろを覗いていました。その目の色はどこか悲しげで声をかけるのも憚られてしまいます。脚に制動をかけられ、瞬間、心に着氷した。しばらくベッドの後ろでドギマギしていたら、彼女の顔が不意にこちらへ向けられました。彼女の目の焦点が私のそれにあった途端、一層戸惑う羽目に陥り所在無く右手の人差し指が鼻頭を擦ります。そっと彼女の目を覗く。と、その眼差しは何とも温いさざ波を起こしています。うっすら笑みをたたえた口角は感情の凪いだ証なのでしょうか。桃色の唇が病巣を追いやったことを物語っています。私も彼女の気持ちに呼応するように笑みを返します。解氷された私は静かに歩み寄り、ベッド横の椅子に腰を下ろしました。
「気分はいかがですか?」
「ええ……」
 ひと言か細い声を発しただけで微笑んだまましばらく俯いてしまいましたが、目線をこちらに向けると、その目はしっとりと濡れていました。
「胃の具合は……良好でしょうか?」
 やはり、いの一番に口を衝いて出た問いかけでした。私の病んだ胃袋ですから、申し訳ない気持ちでいっぱいなのです。 
「はい、別段変わりはないようです。ありがとうございます。あなた様は、いかがでしょうか?」
 いたわり深い眼差しが、私の凍てついた不安を解かします。
「おかげさまで、私も最大の苦痛が取り払われて、とても楽になりました」
「そう、それはようございました」
 彼女はしんみり深々と頷いてくれます。「ですが……わたくしのほかの臓器はいかがでしょう?」
「多少、違和感は残るものの、胃痛に比べれば、取るに足りないのです」
 彼女も私と同じ懸念を抱いていましたので、率直にお答えしました。ただ、痛みとは言わず、違和感と伝えました。
「わたくしも同じです」
 同調してまた頷いてくれます。「でも、おかしなものですね。他人の苦痛を受け入れて、自分の苦痛を和らげるなんて」
「苦痛を分かち合うんですねえ……何とも不思議な療法です」
 こうして対面で話すうち、奇妙な感覚に囚われ出した。かの痛みは、自身か、それとも目前の女性のそれなのか。意識的に痛みを受け止めていると、不意に頭が混乱を起こしそうになるのです。私の肉体に存在しなかった痛み──彼女を苛んだ痛みがこの身を襲ってもそれほどの苦しみはもたらされません。しかし、彼女の気持ちは十分に理解できます。さぞかし辛かったに違いありません。先ほど、潤んだ瞳から雫がポツリと零れ落ちたのを見ました。同時にとても穏やかな表情を覗かせています。苦痛から解放された証なのではないでしょうか。私たちは今、心身共に安らぎの直中に生きているのです。
 和やかな歓談をしばらく続けましたが、彼女の顔には未だ疲労の色が滲んでおりますゆえ、早々に立ち去る決意をしました。去り際、母が面会を乞うている旨を告げたら、退院後に実家までの同伴を快諾してくれました。
 自分の病室へ戻る途中、彼女から賜った臓器の箇所を擦ってみる。彼女の痛みが掌に伝わってきます。痛みを分かち合うことで、苦痛を軽減。他人の痛み、己の痛み。交換することによって、これほど相手の気持ちも分かるものなのかと改めて驚かされます。なるほど、これは心身両面において、画期的な施術方法なのですね。


 退院当日の朝、私たちは二人して診察室に呼ばれ、互いの病状の経過を知らされました。白衣を纏った威厳の塊は、幾分勿体ぶった仕種でこちらをチラと一瞥すると、腰かけたまま上体を前後に揺らしながら朗らかに説明してくれます。でっぷりと膨らんだ腹を持て余す姿は中年の域に達した証でしょうか、思わず私は水飲み鳥の玩具を想起したほど滑稽に映りました。手術も成功して二人とも順調に回復の一途を辿り、今後も問題ないだろうとのことです。病状説明の合間に自慢話が差し挟まれます。この術式を編み出し、広めた功績で何某かの賞を受賞し、叙勲もされたようです。やはり、栄達の称号に相応しい新進気鋭の外科医だったわけなのですね。しかし、私にはオペ室に棲息する血に飢えた獣の影が覗き見えるのです。
 医師の経過報告が済み、私たちが立って礼を告げ踵を返す寸前、彼は増々上機嫌で誇らしげに上体を反り繰り返しながら、オペ室の見学を許してくれたのです。と、インターホン越しに有無も言わせぬ強権的口調でベテランナースを呼び付けるや、即刻、案内役を申し渡しました。患者にとっては何ら興味も湧くものではないのですが、己の権勢を誰彼構わず誇示したいのでしょう。
 診察室を出た私たちは半ば強制的に、仏顔を装ったナースに先導されつつオペ室へ向かいました。彼女の目には不満らしき色が滲んでいるのが見て取れますし、患者に対する声も穏やかそのものでしたが、言葉尻には些かの皮肉めいた棘が見え隠れしていました。上司に対する尊敬の念は微塵もない雰囲気です。
 仕方なくのこのこついて来た私たちは、オペ室の中へ通されました。当然何らかの説明が口頭でなされるものと思い込んでおりましたが、ナースは「ご自由に」とだけ置き土産を残して、目の前からあっという間に消えてしまいました。置き去りにされた私たちは一瞬顔を見合わせ首を捻るばかりです。ですが折角の社会科見学の機会を賜ったわけだし、遠慮なく見て回ることにしたのです。
 室内を見回してみる。いつかドラマや医療ドキュメンタリーで観たことがある、ありふれた光景です。やはり興味をそそるものは何も存在しない。私は溜息をひとつ吐き出す。手術台の横に移動してしばらくぼんやりとそれを眺めました。私が乗せられ、体を切り刻まれたまな板に間違いありません。感慨なんてのもない。ふたつ目の溜息をつきました。退屈極まりない場所からの逃避を企てん、と彼女に目配せして促すと、後ずさりしながら手術台の傍を離れます。そしたら、頑丈な手術台の横腹に金属製のプレートが銀色の光沢を放っていました。私は後ずさるのやめ、再び台に近づきます。張り付けられたプレートには文字と絵が記されていました。しゃがみ込んで確認しましたら、手術の説明書きです。具体的な施術方法の解説が丁寧に図解入りで示されているのです。内容そのものは、医学的知識のない素人には皆目理解し得ないのですが、私たちの受けた施術に間違いないことだけは分かります。図解にだけ関心はいっておりましたが、ふと視線が捉えた文字が大きく網膜に焼きついてきました。図解の上部に、この術式の名称が黒文字でくっきり印字されている。
『へんせいけんたい術』
「へんせいけんたい……」
 私はひらがなで印字された部分のみを呟いてみました。
 同じくしゃがみ込んで見ていた彼女と思わず顔を見合わせ、首を捻り合います。 
「どういう意味なのでしょう?」
 彼女の投げかけた質問に唸りながら首を傾げるしかありません。
 “けんたい”と言えば、まず“献体”を想起するでしょう。
 “へんせい”とは、“編成”の二文字しか思いつきません。
 編成された献体。献体を編成する術式という意味なのでしょうか。ですが、献体とは遺体を意味します。私たちは生きています。歴とした生体です。もうひとつだけ浮かんだのは、検体です。しかし、これは検査の材料ということでしょう。血液や尿や組織の一部のような。何とも妙ちくりんな言葉遊びに過ぎません。こんな術式の名称なんて患者にはどうでもいいことです。オペ室には興味の湧くものなど何もない。最早私は飽き飽きして立ち上がりました。彼女に目配せして出口を目指します。

 互いの病室に戻って荷物をまとめ、退院の準備を整えます。ナースがやって来て忘れ物もないことを確認すると、私は一階に下り、清算を済ませます。玄関へ向かい、タクシーに乗車した途端、シートに背を預けて深呼吸を繰り返しました。私の新しい体に空気をたくさん注いでねぎらってやるのです。


 ようやく帰宅が叶った私は、荷物を放り出し、ベッドに身を投げ出しました。自ずと苦痛に苛まれた日々が頭をよぎります。今は頗る気分がいい。伸びをして目を閉じる。しばらくして、あの言葉が、まるで脳ミソに蔓延ったカビのように蘇って思考を促すのです。寝返りを打っても別の何かを想像しようと躍起になればなるほど、同じフレーズが頭を支配する。
「へんせいけんたい」
 ──へんせいけんたいへんせいけんたいへんせいけんたい……
 ひとたび声に出してみますと、呪文か経のように脳髄に反響し出します。忌々しいリズムはいつまで経ってもやむことはないので、とうとう私は起き出して書架から辞書を携えて机の前に座った。 
 まず、“けんたい”を引いてみます。相応しい意味の漢字は、ふたつしかありません。検体と献体。
 次に、“へんせい”を引くと、やはり編成が一番に目に入りました。今更解説を読む必要もなく、また項目を辿ります。と、興味深い記述を見つけ、その言葉に目が釘付けになりました。
『変生』
 “へんじょう”とも。どうやら仏教用語で、別の姿に変わること、仏の功徳によって生まれ変わること、また、その生まれ変わったもの、と記述されています。
 “けんたい”は献体をあてがうとして、遺体ではなく生体のまま献体してもらう。そして、他の患者に提供する。
 “へんせいけんたい”は漢字で記すならば、変生献体がしっくりといく。
『変生献体術』
 生ける献体にて生まれ変わらせる術式。ということになりましょうや。どうやら最新の術式であることは間違いないようですが、何とも妙ちくりんな療法の感は否めません。
 ツギハギだらけの私の体。普通の術式なら、こんな醜い傷は残らないのに、と思います。だが、こちらのほうが痛みも少なく苦しくないと直感した。


 彼女と私鉄の駅で待ち合わせて、私の実家へ向かいます。約束通り、今日、母に会いに行くのです。彼女の顔も一瞥以来、薄化粧の下の素肌が透けて見えるほど、すっかりと血色もよくなり、溌剌としています。他人のそんな姿は自分にも投影され嬉しくなるものです。
 下車した私たちは、華やいだ気分のまま道を辿ります。ほどなくして到着し、呼び鈴を押すまでもなく、唐突に玄関の扉は開いて母の満面の笑みが迎えてくれました。恐らく窓際に立って私たちの訪問を待ち侘びていたに相違ありません。
 居間に通された私たちはソファに並んで座りました。しばらくして母が盆にお茶をのせて現れ、それぞれの前に置くと、自分は向かい側に腰かけます。
「ようおいでなさいました」
 しみじみとした口調で彼女を歓迎します。 
 談笑の間じゅう母は彼女に幾度となく謝意を述べ、いたわりの眼差しを投げかけていました。母のそんな姿を目にするにつけ、私は思うのです。母の彼女への慈愛は、同時に我が子にも向いているのだと。
「おまえ、この人を大切にするのですよ。我が身のように」
 母に言われるまでもなく、彼女を愛おしく思います。それは自己愛と同義なのです。彼女の中の自分。自分の中の彼女。彼女の存在は私そのもの、まるで己の分身のような感覚で陶酔してしまうのです。
 人間、同じ痛みを経験しないと、真には他者の痛みなど分からない。相互理解なんて生まれないのでしょう。私は痛みの数だけでも、優しくなったのではないでしょうか。
 彼女の中の自分。自分の中の彼女。混沌とした思考の中、ひとつの疑問がよぎりました。
 私の本体はどこへ行ったのでしょう。

   〈了〉


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