許容量
私の母校の小学校は、少人数で生徒一人一人に先生方の目が行き渡り、大自然の中のびのびと勉強と運動ができるところだった。
大人になった今思えばとても恵まれた環境で育ったと思う。けれど同時に、とても窮屈で、この山の外へはどこへも行けないような気がしていた。
小学六年生の頃、一度家で爆発した。
確か酷く暑い夏の休日だった。その日は前日に母と揉め(おそらく私が譲れないこだわりを咎められ反抗したのだと思う)、翌日までぎくしゃくとした空気で昼ごはんをかっこんだのだ。あまり覚えていないが、謝って夜が明けてもまだ機嫌が戻らずいつもの優しい春風のような母になってくれないことが、とにかく悲しかった。
大人になれば、謝る=いいよですまないことくらい分かっているが、当時の私にはもうどうしたらいいのかわからない状態で、ぎゅうぎゅう心臓が絞られるような居心地の悪さを感じていた。
さて、我が実家にはオスの茶トラネコが居る。今ではすっかりおじいちゃんで穏やかな性格だが、当時は遊びたいとなると私の足元にじゃれ着いて噛み付いたり引っ掻いたりするヤンチャな部分があった。
よりによってその日、昼食後に居心地の悪さと言いようもない苦しさから自室に戻ろうとした廊下で、茶トラの遊びモードが発動し、しかもよりによって遮ろうとした右の腕の肘をザックリ引っかかれたのである。小学六年生の女児と雄の成猫のガチ遊びの勝敗はいつも決まっていたが、その日ばかりはあんまり痛くて血もいっぱい出て、「もう嫌だ」と思った。
小学六年生にもなればギャンギャン泣きわめくことも無くなりメソメソするくらいのもんだったが、私は爆発した。それはそれは大声で「うわーーーーん」と泣き声をあげた。
私の小学校は人数がとにかく少ないから、1年生から委員会活動に入りそれを全部6年生がまとめあげなければならない。私が頼まれて渋々請け負った委員会の委員長という立場、その学年は問題児が多くストレスマッハの教師や気まぐれに怒ったり優しくしようとしたりする音楽教師らの顧問、頼んで委員長にさせたくせに副委員長の仕事をとにかくしない女の子。毎月の委員会の日の準備を心臓が痛むのを自覚しながら書類を作り、音楽教師に理不尽に怒鳴られ、それを見ているだけの副委員長、そういうのに縛られた結果、当時の私は脅迫的にルーティンを守るようになっていた。これをしないと明日の学校ではなにかしんどいことが起きるのだと信じていたし、守れなかった翌日はちょっとした事でも「ああやっぱり」となるのだった。
うわーーーんと大声で泣いて廊下から母の元へ歩いた。とにかく優しくして欲しかったし、なんで私ばかりこんなに辛いのだと抑圧していた子供らしい、駄々を捏ねたいような感情が爆発したのである。大人になってわかったことだが、私は発達障害でとかくマルチタスクが苦手で人の感情に敏感である。まあそんなこと当時は知りもしなかったが今になって思えば、子供らしく嫌だ嫌だと言わず大人の言うことが正しいのだと納得させながら教師の怒号を聞き、苦手なことを毎月毎月必死にこなし続けた結果、明日の忘れ物がないかどうか何度も何度もランドセルから出してはしまい出してはしまい、寝る前にも朝起きた後にも確認するような状態になっちゃったのだ。
なっちゃったから爆発したし、私は母を心から信頼しているから爆発できたのだが。
ギャン泣きする私に異様なものを感じたのか、母はすぐに私に寄り添い、なだめすかして、私の話をゆっくり聞いてくれた。半パニック状態の子供を落ち着かせて話を聞いてみれば、お母さんと昨日から変な感じなのが辛いこと、猫に引っかかれてすごく痛くてやめてって言ってもやめてくれないし血が出てなんかもう嫌になっちゃったこと、というなんとも子供っぽいことだったが、母は子供は子供でいることが正しいという考えの人だったので、わたしをぎゅーっと抱きしめたあと、一緒にテーブルにつきなんて事ないいつもの仲良し母娘の午後を過ごしてくれた。
音楽教師に嫌な言い方をされたり何度も何度もやり直しを言い渡され、その理不尽に耐えた1年間。母が「大人は子供だったことを忘れてしまうって、星の王子さまに書いてあってね、その先生もきっとそうなんだね。」と言った。すごく腑に落ちて、そっかー忘れちゃってるんだあの先生は、って思った。
でも、今大人になって本心から「子供の頃の感性を忘れられない自分で良かった」と思うけれど、心の端っこの方で黒いトゲトゲした生き物が「子供の頃の感性なんて持ってるから、諦められないから、お前はそんなに生きるのが下手くそなんだ」と、囁く時がある
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