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「当たり前」は、やがて奇跡になる
LINEアプリ内にある「知り合いかも?」というページをぼんやり眺めていた。
ずらりと並んだ名前。「元気にしているかなあ」と懐かしく感じる人もいれば、名前は覚えているけれど、どういうつながりだったか思い出せない人もいる。
学校?バイト先?習い事?
当時は私の生活に、それなりの頻度で登場していた人物のはずなのに、がんばってみても思い出せない。複雑な気持ちになった。
「当たり前」じゃなくなったこと
自分の子育てを振り返ってみると、いつの間にか「しなくなったこと」がたくさんある。
歯ブラシの仕上げ磨き
外出中に手をつないで歩くこと
朝食後に私の膝に乗りたがること
寝る直前に私の二の腕を、ふにふにすること
数えだしたらきりがない。幼稚園の頃のタイムスケジュールなんて、まあ見事に思い出せないよね。
何時に登園して、いつまでにお迎えに行くのか。あの頃は私の生活の中心であり、娘の幼稚園に合わせて、家事も仕事も計算してやっていたのにな。
きっと、これからも知らないうちに多くの記憶は消えてしまうのだろう。忘れたくない娘との瞬間も。
自分にとって「当たり前」であるのは、ほんのわずかな時間だけ。気づいたときには二度と戻れない場所にある。
もっと大切に味わっていたかった。
もう一度、あの頃の娘に会いたい。
それは決して叶うことのない「奇跡」。
当時はこんなにも愛おしく思う日がくるなんて、想像もしていなかっただろう。それが「当たり前」というものなのだ。
「当たり前」を心に刻みたい
どうすれば「当たり前」を記憶しておけるのか考えてみる。
一番に思い浮かんだのは、文章にすること。全部を書き留めるのは無理かもしれない。でも、忘れてしまうはずだった「当たり前」が100個あったとして、1個でも記録しておけるなら実行する意味はあるはず。
あとは、そうだなあ。スマホやパソコンに打ち込むのではなく、手を動かして紙に書けば、もっと深く心に刻めるかもしれない。
とはいえ、「当たり前」を記憶する、完璧な手段はなさそうだ。
「当たり前」に目を向けて
今夜も私は2冊目の10年日記を開く。
これまでは何の迷いもなく「その日の出来事」を書いてきた。
けれど、今は少し違う。その日の天気や食べたもの、出かけた場所だけでなく、そばにある「当たり前」に意識を向けてみる。
何年か後に振り返ったとき、奇跡ではなく「宝物」になると信じて。
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