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ご報告  ニュージーランドに引っ越しました 〜一生樹と付き合うために〜

こんにちは。このnoteアカウント「harunire0321」を運営している、三浦夕昇(みうら ゆうひ)です。いつもマニアックな記事にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。

今回は、いつもの樹木ネタではなく、近況のご報告。もしよろしければ、最後までお読みいただけると嬉しいです。

約2ヶ月前、3月初旬に、ニュージーランドの学校で環境学(environmental management,terrestrial ecology)の学士号を取るため、留学を開始しました。高校を卒業してからの2年間、留学が延びに延びたので、「やっと…‼︎」という感じです。留学期間は、いまから3年間。そのため、今後はニュージーランドの森や樹木についての記事をお届けすることが多くなると思います。

樹木に奪われた青春時代

ではなぜ、わざわざニュージーランドまで行って、「環境学」というマイナーな学問を学ぶ決断をしたのか。これを説明しようと思うと少々話が長くなります…(笑)。
一言で言うと、「自分の進路の幅を広げたかったから」です。

僕はいま20歳なのですが、今までの人生の大半は、「樹木」という悪友に吸い取られてしまいました。

そもそもの発端は4歳ごろのこと。その頃から僕は樹木が大好きだったらしく、親と公園や森に行き、一度大木に見惚れるとずーっとその場から離れなかったんだとか。
今思えば、この時点で取り返しのつかない選択をしていた。

普通、小さい頃に何かを熱狂的に好きになっても、その熱はだんだん冷めていきます。思春期になれば、男の子の興味は昆虫や恐竜から、スポーツや恋愛に変わるもの。しかし、僕の場合はそうはいかなかった。

年齢が上がるにつれて、樹木への興味が薄まるどころか、むしろ暴発していったのです。どうやら僕は、とんでもない危険物を好きになってしまったらしい。なんだ、この麻薬のような中毒性は……。樹木の世界の面白さにすっかりハマってしまい、中学・高校に入ってもひたすら樹木を追いかける毎日。樹木に連れ回されて、北近畿のブナ林、各地の植物園等々、いろんな場所に行くハメになりました。


↑「写真」アプリの撮影地マップには、膨大な量の樹の写真が溜められていった。


当時、冗談抜きで僕は樹木にカツアゲされていました。
遠方の樹木に会いにいくための電車賃に、お小遣いの殆どを費やす休日…。奴らには得体の知れない魅力があるので、一種の”催眠状態”に陥り、何回も貢いでしまう。まったく、恐ろしい悪友を持ったものです。

しかし、後悔してももう遅い。なんせ、僕は貴重な青春時代の殆どを樹木に捧げてしまったのです。もう、これから先の人生も奴らと歩むしかない…。

てなわけで、一生樹木とつるみ続けることを決心するわけですが、日本で「樹木が好き」を仕事にするのって、結構難しい。職業の選択肢が少ないのです。

樹木と関わりながら食っていける職業って、「林業」「植木屋」「環境コンサル」「研究者」のだいたい4択。どれも、樹木そのものや、樹木に関する情報をうまく”処理”して、社会に還元していく仕事で、とっても魅力的だったのですが、ふとこんな考えが頭をよぎりました。

「樹木には、ひとりの平凡な男子の青春を丸ごと潰すぐらいの破壊力がある。めっちゃキャラが濃い方々なのに、彼らと仕事でお付き合いする方法が数種類しかないなんてことがあり得るだろうか………?」

樹木と人生を歩むには


いまのところ、世間一般では、樹木の存在感は非常に薄い。そのせいか、「樹木と人間社会の関わり」というと、どうしても”林業””農業”などといった、実利的な方向に偏りがちです。”樹”という物体そのものがお金に変換されていくイメージ。現時点で、樹木に関する仕事に就こうとしたら、このあたりの業界に入ることになるだろうな、というのは容易に想像できます。だからこそ、職業の選択肢も少ない。

僕は、「実利的な方法でしか樹木と関わることができない」という今の状況は、ちょっと危険なんじゃないか、と考えています。
なぜなら、実利的な面を重視した自然(樹木)の利用は、環境問題の引き金にもなり得るから。森林破壊は、結局のところ、森が生み出す”利”を過度に追求したために発生した問題です。

もちろん、自然産物の利用は人間の文明の基礎ですし、社会にとって必要不可欠であることには間違いありません。しかし、これからの時代、実利的な側面のみで樹木を推し量り、利用していたんでは、たちまち森も地球も破綻してしまうと思うのです。
樹木と社会の間の実利的な繋がりは維持しつつ、両者間にもう一つの”別ルート”も構築する必要がある。

この”別ルート”として、僕は「感性的な」樹木の利用を推進するべきだと考えています。

例えば、森を歩いている時に感じる、あのなんとも言えない高揚感。あれをエコツーリズムに昇華させて、お金に変えられないだろうか?
身近な生物の中で、最も寿命が長いのは樹木。樹木の生き様や樹姿を手がかりに、その地域の歴史を読み取るアトラクションがあってもいいのではないか?
街路樹や公園樹を使って、街の風景をカスタマイズし、市民の健康や幸福度を向上させられないだろうか?


滋賀県・芹川のケヤキ並木。木陰を作り出し、夏は人々の憩いの場になる。


こんな感じで、「樹木が生きている」という事象そのものに価値を見出し、人々に還元すれば、社会と樹木のあいだに「感性的な繋がり」が生まれます。樹木から何か物質的なものを得たわけでは無いけれど、目に見えない、”精神的なもの”を受け取れる。そしてそれが、人々の日々の生活を豊かにしていく…。
この流れを、適切な形でお金に変えることができたら、樹木の存在自体が経済的な利益を生み出すことになります。

こういった「感性的な樹木の利用」を社会全体に広めていけば、樹木を愛でれば愛でるほど、人々が幸せになり、さらに自然環境の状態も改善されてゆく…という好循環を生み出すことができます。
感性的な利用と、実利的な利用を両立させることで、社会と自然の間の歪んだ関係性を、解消できると思うのです。
よし決めた、これを実現させるのが、僕の目標じゃ。あとは進路を設計していくのみ……。

っがしかし。そう意気込んだのも束の間、すぐに新たな障壁にぶち当たりました。

そもそも「感性的な樹木の利用」を軸にした仕事って、あるのかな?日本の大学で森林科学を学んで、そこから就職すると、林業や環境コンサルみたいな森林「管理」の世界に入ることになる…。かなり実利的な方向に偏ってしまうな…。
てかそもそも、感性的な利用をお金に変える方法ってなんだろう?たぶん、森林のことだけ学んでも見つからないよね…。社会学とか経済学とか、そっち系の学問も学ばなくちゃいかんよね…。そんなこと、普通の大学ではできんよなあ。

僕の目標があまりにもぼんやりしすぎていて、余計に進路の計画を立てられなくなったのです。

そんな中で出会ったのが、「環境学」という学問。
「自然環境と人間の関係性」に焦点を当てた学問分野で、自然科学だけでなく、社会科学、経済学等、さまざまな分野のミックスによって成り立つ領域です。

これ、いまの僕にぴったりではないか。ほんで調べてみると、最先端の環境学が学べるのはニュージーランドの大学らしい。

もともと、ニュージーランドが進んだ環境保全の取り組みを実践している国であることは知っていました。そこで本格的な環境学を学べば、何か大きなものを得られるのではないか。いままでとは違った観点から、樹木と社会の関わり方を考えられるのではないか。

前述のように、樹木というのは異常にキャラが濃い奴らです。
20歳のうちから、固定した職業に向かって進路を定め、将来彼らとお付き合いする方法をあらかじめ決めてしまうのは、少々勿体ないし、樹木にも失礼じゃないか。これを機に、自分の視野を一気に広めようではないか。

てなわけで、ニュージーランド北島・プレンティー湾地方のタウランガ(Tauranaga)にあるポリテクニック(Polytechnic)に入学。いまから2年間は、このポリテクニックに在籍し、New Zealand diploma of Environmental Management (Terrestrial)Level 5という、准学士にあたる資格をとるべく日々環境学の勉強に励むことになります。

再来年は、ハミルトンにある国立大学に編入し、1年かけて環境学の学士号(Bachelor)をとり、晴れて卒業。ポリテクニック2年、大学1年、というのが現在の僕の留学計画です。

全てのコミュニケーションを英語で行わなくてはならないため、苦労することも多々ありますが、クラスメイトや教授はみんな優しく、いろんな人に助けられる毎日…。当分は語学力アップのため、英語の勉強と環境学の勉強の両方に精進したいと思います。

ニュージーランドの自然は本当に優れているのか


せっかくニュージーランドまで来たのです。日本でやっていたような、森や樹木の観察も続けていきたいと思っています。

出発前、知り合いや友人に「ニュージーランドに環境学を学びに行きます」と報告すると、しばしば「ニュージーランドの自然は日本とは比べ物にならないぐらい素晴らしいよね」とか、「日本の環境保全は全然ダメだからね。ニュージーランド留学は良い選択だと思うよ」というようなコトを言われました。

正直、僕は「日本の自然よりもニュージーランドの自然の方が素晴らしい」とか、「日本の環境保全はダメで、ニュージーランドの環境保全は理にかなっている」みたいな、”ダメな日本を脱出して、海外で学ぶ”という考え方があまり好きではありません。
確かに、ニュージーランドの環境学は世界最先端なのですが、同時に日本の自然、日本の環境保全にも誇るべきところがあると思うのです。”ダメな日本”というのを頭に入れて留学してしまうと、偏った知見・アイデアばかりが集積されてしまって、残念な結果になりかねません。

実際、僕は高校を卒業してからの2年間、青森県のエコツーリズム団体で環境調査のお手伝いをさせてもらったり、日本各地の原生林をめぐったりして、「日本の森」にどっぷり浸かっていました。その旅の最中、日本のどこで、どんな森が、どんな歴史をたどってきて、いまどういう状態にあるのか、という生の情報をたくさん得てきました。

こういった「日本の森についての情報」を頭に入れて、ニュージーランドの森を巡ったり、環境学の授業を受けたりすると、ニュージーランドの自然の素晴らしさとともに、日本の自然の素晴らしさも実感するのです。

例えば、ニュージーランドのトレッキングコース(現地ではwalksと呼ばれる)の運用方法は、本当に素晴らしい。ニュージーランド自然保護局のウェブサイトにアクセスすれば、国内の全てのトレッキングコースのデータベースを閲覧することができ、コースのレベル、長さ等の基本的な情報だけでなく、「そのコースでどんな鳥が観察できるのか」「このコースを歩くことで、どのような知見を得られるのか(◯◯の樹種が優占する森の本来の植生を知れるetc)」「コース沿いの見どころ」等の、大変意義深い情報も得ることができます。
つまり、「自然を楽しむ」という行為に対して、国立公園の管理者側が最大限のサポートを提供しているのです。


↑ニュージーランド自然保護局(Department of Conservation,DOC)のウェブサイト。
ニュージーランド国内のすべてのトレッキングコースが掲載されており、コースの長さ、難易度等から検索することが可能。

また、自然保護の取り組みはやっぱり日本の上を行っています。
ニュージーランドの森には、フクロギツネ、ラット、シカなど、多くの外来種が生息していて、森の樹木が深刻な食害を受けています。これを駆除すべく、自然保護局はさまざまな取り組みを行なっているのですが、中でも「コレ、いいよなあ〜」と思ったのが、一般市民によるボランティア活動。
タウランガ近郊の森林保護区には、ボランティア用のステーションがあって、そこには駆除に必要な物資が全部揃えられています。一般市民は、いつでもそこに立ち寄って、自由に物資を持ち出し、森の中で駆除活動を行えるのです。ステーションの名簿を見ると、結構たくさんの人がボランティアに参加していました。僕も、クラスメイトに誘われて、放課後に駆除活動に参加したことがあります。(これについては後日詳しく記事にしたいと思います)

↑ニュージーランドの樹を枯らしまくる害獣、フクロギツネ。オーストラリアからの外来種。

森の保全に必要不可欠な外来種駆除を、ここまで手軽に、普通の人が行える…。「愛護団体からの抗議が来るから…」みたいな理由でシカ食害対策が一向に進まない日本とは雲泥の差です。

「自然を適切に管理する」ということに対して、一切手を抜かない姿勢には、日本が見習うべきものがあると思います。

一方で、日本の方が優れている点もある。
日本人は、「自然との共生」が非常に得意な民族であるような気がします。

例えば、木曽ヒノキ(長野県)、秋田杉(秋田県)、魚梁瀬杉(高知県)のような、針葉樹の美林。あれは、有用な樹を持続可能な形で管理するべく、先人たちが懸命な努力を重ねて作り上げたもの。数百年先の未来のために、目の前の森を大切に守り育てる。そしてその行いが、脈々と受け継がれ、美しい森林景観が出来上がる…。
こんなミラクルが起こる国は、世界広しといえど日本だけでしょう。

これに対し、ニュージーランドの歴史は、森の破壊の積み重ね。ニュージーランド北島北部の森の極相種は、カウリという針葉樹なのですが、現在カウリが優占する森は200年前と比較して2%しか残っていません。カウリ材は建築に向いており、1940年代に樹が枯渇するまで、カウリの大木は伐って伐って伐りまくられたのです。日本の美林の歴史を知ってからこの現状をみると、「もっとこう、上手くやれんかったんか……」と思ってしまいます。

↑ニュージーランドのコロマンデル(上)と、日本の長野県木曽(下)。両地域とも、それぞれカウリとヒノキという、超有用材を産出する森で知られているが、写真をみるとわかる通り、コロマンデルに関しては森が「あった」地域として、過去形の文を使わなくてはならない。

さらに、”自然に対する感性が鋭い”という点も、日本人の強みだと思います。
昔から、日本人は細やかな自然美をとらえ、それを芸術に昇華させることが得意でした。「朝の雫が茶の新葉に当たったときの輝き」「晩秋の梢に残った、わずかな葉の儚さ」などなど、めちゃくちゃ繊細な視点で描かれた和歌や日本画が多いのは、その証明です。

これに対し、欧米人はとにかくダイナミックなものを好む傾向があります。学校の授業で、開拓時代のニュージーランドの絵画を見る機会が何回かあったのですが、そこに描かれていたのはサザンアルプスの山並み、タウポ湖の湖面等の「大きな風景」。自然の中の、ごく小さいパーツを切り取り、その美しさを表現したような作品は、なかなか見つかりません。

「自然が見せてくれる、繊細な美に対する感度が高い」という日本人の特性は、僕が目指す「感性的な自然利用」と通づるものがあると思います。

こんな感じで、日本とニュージーランドの間に、「どっちの自然が美しい」「どっちの取り組みが進んでいる」みたいな、単純な優劣はないのです。日本の方が優れている点もあるし、ニュージーランドの方が優れている点もある。

そんな中で僕が持たなくてはいけない考え方は、「日本がダメダメだから、ニュージーランドの環境学を学ぶんだ」という偏ったものではなく、「日本の良いところを知った上で、ニュージーランドの進んだ環境学を学べば、どういう知見が生まれるんだろう?」という「疑問」だと思うのです。
自然という、人間とは全く違う時間軸で胎動するモノを扱うのですから、どっちが上、どっちが下、みたいな偏狭な考え方を持つことは、非常に危険だと思います。

たぶん、高校を卒業してそのまま留学をしていたら、日本の森の素晴らしさに全く気づかずにニュージーランドに渡航していたでしょう。そして、「ニュージーランドの環境学が日本より優れている」という”日本オワコン論”に染まっていたと思います。

そう考えると、コロナで2年間、自由な時間ができて、そこで日本の森に浸かれた、というのは、自分にとって必要な経験だったのだな、と思います。
こういう、自由奔放な進路を許してくれた親と周りの方々には、本当に感謝です…。

ここから数年のあいだは、ニュージーランドの樹木についての記事を挙げていくことになると思います。いままでこのnoteの記事を読んでくださっていた、読者のみなさま、本当にありがとうございます。引き続き、よろしくお願いいたします。

<お知らせ>
今年の2月から、「日本花卉文化株式会社」という、園芸・盆栽を扱う会社が管理するnoteアカウントで、連載を担当させていただくことになりました。
日本の樹木や、森に関する記事は、今後こちらにアップされる予定です。
すでに幾つかの記事がアップされているので、こちらのほうもお楽しみいただけると幸いです。


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