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結局"ひとり"を選んでしまう

"友達"って、どこからどこまでなのか。いるのといないとだと、何がどれほど違うのか。

「この人といると楽しいな」
「趣味が合うな」
「話がよく弾むなぁ」
「なんか好きだな」

そう感じる相手に対して、勝手に"友達"だと思ってもいいものなのかもわからない。

特に私の場合、今家族以外の人と接するのはほとんどが職場で知り合った人だから、「職場の人」から「友達」に切り替わるタイミングが難しく感じる。

相手にはちゃんとした「友達」がすでにいて、私は「ただの同僚の一人」としか思われていないかもしれないのに、勝手に「友達」なんて思い込んでしまうのはすごく図々しい気がする。

それでも、今の職場に入って、ハッキリと「(私たちは)友達でしょ」と断言してくれた人が二人いた。(「いた」って過去形なのは、最近色々あって、状況が少し変わったから)



ここ数年の間で少しずつ、私なりに失敗したりそこから学んで変えたり試したりして、前よりちょっとは対人関係のコツのようなものを掴めできていると思ってた。

ちょうどいい距離感は相変わらずわからないものの、「こんな風にしてみたら上手くいった! 」っていう小さな達成感みたいなものは積み重ねてこられた。

だからこそ、その成果として「友達」と認めてもらえるようになれたんだと思う。

その瞬間はすごく嬉しかったし、「こういう人達のことを大事にしなきゃ」って決意した。

それまでの私は、とにかく人から嫌われることを恐れるあまり、皆に愛想を振りまきまくっては、評価を気にしてビクビクして疲れてた。

そんな私に「友達」は、

「なんで全員から好かれようとするの?(少なくても)自分のこと好きになってくれた人から好かれる方が嬉しくない?」

と言われて、「たしかに」と納得した。

私は体力は人並み以上にあるし、風邪も怪我も滅多にしない超絶健康体ながら、心のキャパは極小で、ちょっとのことですぐ限界がくる。

だからこそ、ごく一部の人を大切にするためには、心にかかるストレスや疲労を最小限にしなきゃいけない。



・・・とは言うものの、結局この半年間(奇しくも「友達」認定された時期もちょうど半年前くらい)はそれができなくて、皆に愛想ふりまく八方美人を続けてた。

疲れて、今は結局自分から「友達」と距離を置いて、一人でいることを選んでしまってる。

友達付き合い自体に慣れてなくて、友達ならどうするべきかとか、どれくらいの頻度で何をするべきかが全く分からず、ひたすら相手のペースに合わせて任せた結果、しんどくなってしまった。

それに、恋人とかと同じで、結局そういうコミュニケーションは双方向じゃなきゃうまくいかないわけで……

私からのアクションが全然なかったからなのか、相手からのアクションもだんだん消極的になっていった。

そうなったらなったで「嫌われた?」「私が何かしちゃったのかな?」と、勝手に想像して不安がる始末。

こういうとき、対等な「友達」なら、相手に今の不安を打ち明けて、自分が消極的すぎたことを謝ったり、相手の気持ちを聞いたりするべきなのかな。

ただ、こういうとき、私は「0か100か」で考えてしまうのです。(自覚あるんかい)

状況がここまで変わってしまった以上、もうどう足掻いても無駄(元の「友達」には戻れない)だと、諦めてしまう。

消極的だったのも自分のエネルギー不足だし、ここにきて、相手の気持ちを確認や謝るといったアクションを自ら起こせば、きっと摩擦が生じる。そこに、もうすでに使い切ったエネルギーを使わなきゃいけなくなるなら…「もういいや」と、やる前から断念したくなる。

こうして私の「友達」関係は長続きすることなく自然消滅してしまう。

(それでもごく一部の友達は、こういう私のどうしようもなさを受け入れて(?)、いきなり連絡しても変わらず接してくれたりするけど、それでもだんだん関係は薄くなっていく。当たり前か…)



今読んでる小説は、そんな「友達」から借りたもの。

まるで私!?と思ってしまうくらい社会性のない(使い方合ってるかな…)50歳の男性が主人公で、ひょんなことから突然、外の世界の人とつながりを持ち始め、それまでとは違う毎日が始まる…みたいな話。

初めてのことだらけで色々悩みながらも、初めてのことにちょこちょこ感動しながら、そんな不器用なところも周りの人が温かく受け入れてくれる様子を読んでいると、「現実の世界も、こんなふうならいいなぁ」と微笑ましく、羨ましく思う。

だけど、自分のこれまでの経験を振り返るとやっぱり、「こんな良い人そうそういないよ」「頭の中では何を考えてるかわからない」って、否定的な考えがすぐ浮かんできて、それまでのあったかい気持ちがスッと冷める。



「友達」と距離を置いて、楽になった。

一人で、フーッと息をつける瞬間や、スーパーで買うお菓子も皆に配る前提の太りそうなものじゃなく、自分用にヘルシーで味気ないやつを買っておくだけでいい。休憩時間はイヤホンを耳に挿してYouTubeや読書に逃げられる。朝起きてLINEの通知が来ているかいないかでビクビクすることもない。

ほとんど、私が勝手に「(友達なら)やるべき!」と自分に課していたことなんだけど、そういうことから解放されて、何にも縛られなくなると、本当に楽になれた。

ただ、何も言わず急にそんなふうになったからには、「友達」から何を思われているか、どう感じさせてしまっているかは分からない。


対人関係の悩みから解放されるには、「嫌われる勇気」を持つこととはいえ、嫌われる覚悟を持ったつもりで一人を選んだ今も結局、人目を気にしてるのは変わらなくて、なんならもっと過剰に気にするようになっている。


私は今の職場では、「人気者」「誰とでも仲良く話す」「愛されキャラ」だと思われているらしい。(お世辞かもしれないけど、そんな風に言ってもらえた)

でも実際は、気を抜くとすぐ一人ぼっちになってソワソワキョロキョロしてる。



誰とも接することなく、仕事だけして家と職場を往復していれば、対人関係からは楽になれる。傷つくことがあるとすれば、自分の妄想で自分を傷つけるくらいだと思う。

一方、「友達」を作ったり人と接していたら、良くも悪くも摩擦が生じて、傷ついたり傷つけたりは避けられない。

その中間の、自分にとってちょうどいい人付き合いの仕方を見つけられればいいんだろうけど。


結局、「全く人と関わらない」か「(無理してでも)人と付き合う」かの二択でぐるぐる悩んで、お腹いたくなっている。


双方向、それも同じくらいのバランスでコミュニケーションを取らないと、「(相手を)大事にしていない」ことになるんだと思うと、「友達」ってめちゃくちゃ難しい。

一人でも難しいのに、いっぺんに二人も三人も…

そして、いつ「友達」の勲章を外されて、相手の中の「大事な人達」から除外されるのかと思うと、相手がしてくれる以上に頑張らなきゃっていうプレッシャーを感じざるを得ない。

なぜなら、「私なんかと」友達になってくれたんだからっていう、自信のなさとか相手を信じきれない弱さがあるから。


実際、先日「友達」と他の人との会話の中が耳に入ってきて、その中に聞き捨てならないセリフがあった。

「(先日の飲み会の後)挨拶するべき人に挨拶して、帰ったー 」

言うまでもなく、私はその日、その友達から挨拶されていなかった。

つまり、その時点できっともう、私はその人の中の「相手するべき人(大事な人)」から外れてしまっていたんだと悟った。


飲み会の前と飲み会の後で、私のひとり上手っぷりは加速した。

さっきのセリフのことや飲み会で疎外感を感じたことで、傷ついたのもそうだけど、もう、「嫌われる(た)かもしれない」と常に緊張し続けるのが嫌だった。

こんなに緊張して、常に気を使っていなきゃいけないならもう一人でいいや、って。



でも、それでも、今読んでる小説とか、人と人との心の通わせ合いみたいなのを見聞きすると、憧れる気持ちは捨てきれない。

自分には難しすぎることだから、諦めた方が楽だと思う。



・・・という、堂々巡りの思考を今日も繰り広げていました。

無表情で打ち続けてたら、家に着いたので、今日はここまで😂



友達付き合いは、疲れるのが当たり前なのか。健全な友達関係なら疲れないものなのか?

友達がいる方が幸せなのか、いなくても幸せになれる人生もあるのか?

私は私みたいな人とは友達になりたくないと思う。

だとしたら、私と友達になりたい人がいると信じられないのも当然か…



今日のnoteもいちだんと意味不明でしたね😂

人とまともに接してないと、こんなふうになっちゃうのかな。

最後まで読んでくれて、いや…解読しようとしてくれて(!?)、ありがとうございました。



とりあえず、今はこの小説の主人公が、ここからさらにどう変わっていくのかや、最終的にどんな結末を迎えるのかを楽しみに、大事に大事に残りを読み進めていこうと思います。

(その感想とかもそのうち話せたらいいな)


それではまた!

良い週末を(`・ω・´)





P.S. 札幌は今年もいつもより早めに桜が咲きました!先週末はつぼみだったけど、今はちょうど満開の模様。サムネは先週末にかろうじて見られた桜です🌸

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