芸術と大衆の間

 創作活動は時には芸術であり、時には娯楽である。創作者は常に、その芸術性と商業性の折り合いに苦悩することになる。重要なのは、創作者自身の芸術性と作品の商業性を上手く摺り寄せることにある。

 人類の歴史を振り返ってみると、芸術作品や物語は遥か昔から作り続けられ、人間の生活とは切っても切れない存在である。創作物は人類の文化そのものだ。人々は日々創作物を享受しながら生活している。

 しかし、全ての創作物が芸術的価値を持っているかというと、そうではない。クラシック音楽などの芸術だといわれるものもあれば、ロックやポップス、大衆小説や漫画など、世間に広く浸透しているものもある。それらに優劣はないが、性質の相違があるのは確かだ。その違いは何か。

 芸術性が高いとされるクラシック音楽や純文学などの特性は、受け手の対象を絞っているところにある。娯楽の少なかった中近世や近代ならばいざ知らず、娯楽が飽和している現代では、芸術性の高い創作物はそれを享受したい層に届けることがまずもって重要とされる。広く大衆に届けるよりも一定の層に受け入れられる方が需要と供給は安定する。そういった限定された層に向けられた創作物は、創作者のやりたいことがそのまま創作物に反映される傾向がある。多少難解であったとしても顧客が遠のくリスクが少ないからだ。

 一方、大衆向けの音楽や小説はプロデューサーや編集という立場の人間と創作者が、共同で広く大衆に受け入れられるように調整しながら作られている。この場合、多くの人々に聴いてもらう、読んでもらうことが目的の一つなので、本来創作者が描きたかった世界とは異なる場合が少なからず存在する。創作者は自身のやりたいことと売れるための手法との折り合いをつけていかなければならなくなる。

 例えば、ジャズという音楽は20世紀初頭からアメリカ南部を中心に大衆に広まった音楽のジャンルだ。それまで盛んだった西洋のクラシック音楽の理論や楽器とアフリカの民族音楽を融合したジャズは、1960年代までは欧米を中心に大衆音楽の一角を担っていた。戦後、チャーリー・パーカーらが大成させた「ビバップ」というスタイルを頂点に人気を博していたジャズは、「モードジャズ」というスタイルが誕生して以降、その人気をロックやポップスに取って代わられることになる。理由は簡単で、ビバップまでは大衆に浸透していたコード(和音の進行)を用いた音楽であったのに対し、モードジャズはインプロビゼーション(即興演奏)の幅を広げる為に、コードではなく旋法(ざっくりいうと音階の機能)を用いて作曲されるようになったため聴き手が理解するには多少難解で、ある程度の知識が必要になり大衆性が薄れたことに起因する。

 ジャズというジャンルとしては、演奏者のアドリブが洗練され芸術性が高まり、より自己性を主張できるようにはなったが、同時に大衆受けが悪くなり、聴き手を限定していく結果となった。その後はジョン・コルトレーンの「コルトレーンチェンジ」等、それまでの音楽理論に無い進行や、1965年頃にそれまでの形式を否定し理論による束縛から解放された「フリー・ジャズ」が興り、演奏者と聴き手の双方に高度な和声感を必要とさせる高難度の音楽となっていった。白人音楽への抵抗としての側面を持つジャズという音楽が、黒人ルーツの音楽として世界に台頭できると熱を持ち、その結果フリー・ジャズ以降の前衛ジャズが自由な転調や十二音技法などの西洋現代音楽の理論に帰趨するとは、なんとも皮肉なことだとは思うけれど。

 創作物は創作者が作り上げた一つの世界だ。そこに売れる売れないといった観念を追加するのは、第三者の存在である。しかし、創作で飯を食うからには、利益を考慮し、大衆に親しまれるものづくりを心掛ける他にない。殊、現在のようにあらゆる創作物が存在する世界で、受け手の時間を割いてもらえるためには結構な苦難が待っているだろう。しかし、利益を考えると同時に、自分の作りたかった世界、届けたい芸術性をそこに盛り込まなければ、創作活動を続けることは難しいだろう。自己表現と利益の間を上手く見つけることが大切だ。

それではさよなら、また今度。

はるねこ

 

 

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