悲しみと喜びはいつもセット。
亡くなった父の字はタイプライターかのような、几帳面な字で、
この字を見れば、どんな人かすぐわかるような、そんな本人を映し出すような字だ。
私が父を語るとき、それは私の数少ない記憶や、数少ない形見から語っている。それは、どこまで真実で、どこまでが私の頭の中で作り上げた父なのか、その境界線は、年を重ねるごとに曖昧になっていく。
父の最後の姿を見ていない私にとって、そもそも父が亡くなってしまったかどうか、ということも、正直ずっと曖昧なままでいる。
そして、その曖昧さが私を今日まで支えてきたとも言える。
「もしかしたら、世界のどこかに生きていて、どこかですれ違っているかもしれない」
そんなあり得ない妄想をする余地が、父の最後を見せないと固く決めた当時の母や祖母のおかげで、私にはいまだに残されている。
元気な姿しか記憶にない私にとっては、
「父が亡くなった」ということは「見て」理解したことではなく「聞いて」知ったことでしかない。
だから、私の中で今も生きている父も、亡くなった父、というのも、
私にとってはどちらも想像なのだ。
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