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なぜ文芸からネット創作へと歩を進めたのか。

普通は逆ですよね=ネットで書く(表現する)楽しさに目覚め、文章講座を受講する。それが普通だと思います。私の歩み、言葉による表現を学んだ最初が「短歌」であったことが大前提としてあるのですが、それだけではないのです。


1.文芸からネットへ

私が文章(講座等)を学び始めたのは29才。遅い「再出発」でした。きっかけは友人が「短歌同人誌」を発刊、その冊子(同人)に誘われたことです。
その短歌同人誌には代表が二名いました。そして、その恩師の文芸評論家の方がオブザーバー(助言者)として脇に控えておられました。
私はそこで同人誌の編集を担当しながら、師が講師を務める文芸評論講座を受講し、文章の基礎を学んだのです。

同人誌は1994年から2000年まで季節毎の発行を続け、その役割を終えました。その後、同人達はそれぞれの活動に歩を進めました。さて、自分はどうしようか。そう考えたとき、「目の前にネットの波」が存在していたのです。
2000年。ADSLが始まり、ネットの常時接続環境が整い始めた頃です。私はモバイル機種(sigmarion)を購入(実は携帯を持っていなかったこともあり移動中の連絡手段が欲しかったのです)、sigmarionとPCをネットに繋ぐため、データ通信カードによる常時接続(docomo・@FreeD)を導入することにしました。
sigmarion3、名機だったなぁ。今でもワープロ代わりに使っているのです。この話題は別途ギア話題としてあげてみようかと。

sigmarion3はこんな感じのWindowsCE機です

閑話休題。話題を戻します。最初は閲覧者、寄稿者としての「受け手」でした。当時はウエブログ=Blogサービスが一般化しはじめた頃。ほどなく私もブロガーとなりました。ネットで書くはじまりです。
ネットで知り合う人達は20代の若者が中心でした。当時の私は既に四十路。いわば親の世代、指導者・上司の世代です。ネットに歳は関係ない、平等だ。そう思い、今もそう考えています。その上で「若者に、活字を知らぬ人達の『架け橋』のようになれないだろうか」、そんな不遜な考えでネット上での創作を続け、今に至ります。
 

2.二次創作という「表現」


若者たちが創作活動の主体としていたのはいわゆるファンフィクション、ファンアート、二次創作です。ゲームやアニメ、ドラマの物語を自分なりに再構成する。その情熱と作品のクオリティーは活字時代に出会った作品群と何ら見劣りするものではなく、時には肩を並べるほどの優れた作品もありました。
「よし。ならば自分もファンフィクションを書いてみようじゃないか」。そう思い、原作を見たり読んだりし、その上で自分なりの二次創作小説を発表するようになりました。最初は「寄稿」として交流のある作家さんに拙作を贈る(押し売りとも(苦笑)ことが主体でした。自分の場所で本格的に活動したのは2006~2016まで。アニメとドラマが原作でした。
当時綴った拙稿の一部をnoteに移管しました。数は少ないですが、こちらが一覧です。 


二次創作をする上で留意せねばならぬこと。まず第一にそれは「一個人の創作物であり『原作とは全く関連がない』」ことを明記すること、原作の著作権に配慮を欠かさぬことだと思います。
二次創作のガイドラインが公開されています。以下にリンクを。


それを全うできたかは、自分で完璧な判断などできるはずもなく。時に「勘違いな文章」を綴っていたのかもしれません。それでも「読み終わるのがもったいなから一文字ずつ読んでいるよ」と感想をいただいたことがあり、それで「書いてきてよかった、筆の冥利に尽きる」と思ったのです。
最後の二次創作小説はドラマが原作。ドラマ放映時から一年後、私は二次創作の世界から退くことにしました。
二次創作に関しての私の思いを記事にしてあります。以下にリンクを張ります。


3.明日、何を書こうか?

#100日チャレンジ #毎日note  というハッシュタグを使って、日々拙稿(時折は写真)作成、投稿しています。「毎日書く」のならば、日々の些細なできごとを拾い上げ、「平凡だけれど『当たり前ではない』」彩りで書いていけたらと考えながら。
例えば、拙いながらもこのような記事のように。

そして、根底に敷いた思いは

時に、こんな想いに駆られながらも

こんなことや

こんな風に

書いていこうと思うのです。
自己充足多き記事になり、お目汚しをいたしました。
ここまでお目通しくださった方がおられましたら、そのお心とお使いいただいた貴重なお時間に心から感謝申し上げます。

#あの選択をしたから

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