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他者への「怒りの感情」と「期待」が表裏一体であるかを考えて現時点でみえてきたこと

怒ることあるんですか?ってよく聞かれる。

私は自称ご機嫌人間で、きっと人を怒らせてしまっていることにさえ気づかずに生きているかもしれない。

それくらい、怒の感情に無関心。
なんでですか?って聞かれていつもは、「怒るのって体力使うじゃないですか?私の少ないエネルギー使いたくないんですよね。」ってよく話します。

でもたぶん、怒る感情って期待と表裏一体で、私は期待の感情が薄いかもしれない。

あ、そういうことね。
あ、そういう人なのね。
あ、そういう感じね。

たぶん、実はとっても冷たい人で、それを冷たい態度で表していないだけ。かもしれない。いい言い方をすれば、事実は事実として、受け止めているということになるのかもしれない、けど単純に考えると、冷たいよな、って自分でも思う。

ただ、そのあと、どう関わるかは人それぞれ。
お店の人とかだと「頑張ってください〜」って心の中で応援することが多い。アルバイトの子とか。私もそういう時期あったよ〜みたいな。

となりの人が飲み物を倒しちゃって床にぶちまけた!しぶきが飛んできた!

そんなときも、私もやってしまったことある〜って思いながら、隣にいたのが私で、怖い人じゃなかったから良かったね、怒られたりとかしなくて良かったねって思って「大丈夫ですよ〜」って声かけるかな。
自分が怒られることが嫌いだから、怒られるのって嫌だよね、って思うと怒らない、というか怒れないんだと思う。

あとは、作家の朝井リョウさんの言葉を借りると「ご機嫌なおばさん」になりたいんだと思う。

ただ、身近な人とは、対話する必要があることも多くて、それはとても力を使うので、対話をしない選択を取ると、本当にただ相手との間に線を引いてしまうことになる。
私ははっきりと言葉で人を傷つけてしまった経験がたくさんあって、この歳になってもただ話をするということだけでも、とても頭を使う。
頭を使わないといけないと気づいただけ良かったんだと思うけど。

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こどものときは、2つ上の姉と喧嘩ばかりしてた。
ずるい!みたいな感情で怒ることもたくさんあった。
でも一回も勝てたことがない。
今も昔も姉は本当に口が達者で強い。

よく覚えているのは、遊びに誘ったのに付き合ってくれず、考えた結果「拒否権にはお金がかかります!」と言ったら、折れて遊んでくれたこと、小学校3年生とかかな。
感情でぶつかるのではなく知性で勝負しなきゃこの人には勝てないとわかったときかもしれない。

そのあと中学生になって友達とうまくいかなくなったときに、期待をしても他者はそう簡単に変えられないことを知った気がする。
「自分がどうするかしかできることはないんだよな。」という感じを悟ったタイミングがあったというか。それも他者に影響を受けての話ではあるんだけども。

謝ってもそれまでの過去は消えないし、あんまり悪いと思ってないでしょ?みたいな関係性も、お互いにぜんぜんあった。
起こってしまった出来事の行き場は、いいことも、悪いことも、悲しいことも、辛いことも、すべて自分に帰結する、という感じのことに気づいたのかも。
当時はそんな綺麗に整理していたわけではないけど。

だから、必要な関わりは持ちつつ、うまく付き合う方法を必死に考えた気はする。
人付き合いがうまくなかったから、付き合い方を頭で考えないとどうしたらいいかわからなかったんですよね。

案外14~15歳くらいで、この感覚は身に付いていたかも。
そこに伴う感情の処理を教えてくれたのは、作家さんたちと、図書室の先生と、ジャニーズアイドルだったと思う。
星新一、森絵都、石田衣良、綿矢りさ、あさのあつこ、そして、図書室という空間と先生。
NEWSを中心にYou&J関連の曲を聞き、雑誌を読み漁り、webのブログを記録し、ラジオを追いかけ、ブログサーフィンをしていた。まだ「ジャニーズオタク」と言われていた時期で、公言できずに家でひとり推し(当時は担当といっていた。)を推したり、歌詞カード読みまくって意味を考えたり。

そういう経験が体現されているのかもしれないけど、こういう感情処理ができるのは、きっと怖い人だと思われるだろうなというのはわかっている。人間味がないというか。
実際にそれに似たようなことを言われたこともある。
「嫌いな人がいない人なんていなくない、普通?」的な。

でも、嫌いな人はいないかなと思う。
苦手な人というか、苦手なタイプはあるけど、 まわりに嫌いな人はいない。
何事に対しても、嫌いは作らないと決めた節もあるかもしれない。
嫌いをつくらないための距離感はめちゃくちゃ考える。いい塩梅でお互いに付き合えるようになりたい、という反省もあると思う。

「それはどうなの?」というピンポイントな行動に対しての違和感があることはあるけど、怒りの感情で処理することはない。
どう伝えたらいいかを考える。

できるだけ、私はこう感じた、こういう風にとらえる人もいる、あなたが不利になることもある、だからこうした方がいいのでは?という提案をしたり。

でも、ファーストコンタクトは「そういう感じね」で終わる。
たぶん、ぶつかって嫌われたくないんだよね、自分が。と思うと、わー圧倒的なエゴだなぁと思う。

でも、だから、責任転嫁はしないように気を付けている。
事実に対して、自分が行動するときは、その行動の選択は私がしたもの。
私の意思によって行動を選択しただけ、それ以外の理由はつけない。
あとたぶん、こういう私みたいなのが嫌いな人はいると思うので、嫌われることもきっとあるとは、わかっているつもりです。

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若干削ったりもしつつ、SNSで個人発信したのがここまで。
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でも、そのあとよくよく考えると、期待できるな、と思うことは日々よくあるし、心から期待してワクワクするし、「期待してる!」「期待しちゃいます!」と相手にも伝えているなと思った。

この違いはなんだろう、と思うと、自分ががっかりするかどうか、という視点があるかどうかだとふと気づく。

期待をする、というのは信頼関係があるからできることで、私は他者に対してある種ドライな部分があると同時に、だからか、勝手に期待して勝手にがっかりするのは自分勝手だ、と思っているようだ。

期待を抱くというのは仕事でも遊びでも、楽しみにしている、ポジティブな何かが生まれる、という予感が高まることであって、勝手に思うのは自由だが、それを押し付けるのは違う。
だから怒りの感情というよりも「がっかりする」という感情をあまり抱かない、という方が正しそうだ。(とはいっても、怒ると疲れるという感覚は事実なので、あまり怒りの感情もないんだけど。)

特に仕事などの「成果」に対して期待をするのであれば、相手を信頼して任せた上で、相手が期待に応えられるように相談にのり、必要に応じてサポートやアドバイスをし、時には育成の期間を設けて成長できるように環境を作る。

そういう覚悟がないまま、任せっぱなしで期待をする、というのは本当の期待ではない。ただのこっちの尺度で測ったエゴになるのではないか、と。

「ふーん、じゃあ育てるから頑張れよ。」

と思うのも、ちょっと違う。一方的な思いでしかないから、それは押し付けだ。

仕事を任せた相手が、この人の期待に応えられるように頑張りたい、この人のもとで成長したい、このチームで頑張りたい、そう思っているか、思ってもらえているかが、「期待」の成り立つ関係性の前提。

そう、だから私はいつだって、そう思ってもらえるような関係性作りからスタートしたいんだな。

社会人5年がそろそろ終わりを迎える今日。
まだまだスタート地点から何度だってスタートする必要があることもたくさん。
そんなことをふと、考えたりする。

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