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【本紹介】子どもと学校(2)


河合隼雄著

「教える」と「育つ」

教育とは何か

教と育に分けることができる

どうしても教える行為に重点が置かれがちだが、教育される側に潜在する「育つ力」を無視することはできない

教える側が生徒に何ができるかといった教師→生徒の一方向の働きかけが目立つ

疑念
生きていくためには膨大な知識と社会的スキルを必要とするから教えるに一生懸命になるのは当たり前だが、
❶「教え」に乗っかれない子どもがいる。
❷そして、既成概念を注入しすぎて子どもの「個性」を壊していないか?

個性が強い子どもほど「教え」に乗りにくいという意味で両者は関連している

「教える」ことを焦るより、「育つ」ことを待つ 

「個性」は何を必要とするか

子どもの好きなことをやらせてやる
自ら「教える」ことを放棄してでも、個性を「育てる」場所を提供する

大切なのは子どもの個性をのばすことにどれほど役に立ったかということ

子どもの個性をのばす教育をするためには、教師地震が画一的な方法にしがみついていたのではダメである

臨床教育学の成立

一見負の価値があると見えるものが、その子どもの個性を伸ばす上で大きな価値を持っていることもあるというパラドックスを大切にする

教育はいま

現代における教育の課題


国際化 個性の伸長 生涯教育

国際化
文化の異なる人たちを本当に理解し、本当に付き合うことの難しさ

→帰国子女問題
アメリカの帰国子女の少年が、日本の製品がアメリカに輸出されているという授業の中でアメリカにいかに日本製品が溢れているかを発言しようとしたら、それは「授業外」のことをみなされて言い合いになった。
アメリカの感覚では「外れている」とみなされて同級生にも暴力を受けるようになってしまう

個性の伸長
日本は先進国の中でも、個性や創造性を伸ばすことにおいて劣っている

→日本の教育がそれを招いているが、一方で数学や理科の学力は他国よりも高いことによって、欧米の教育方法を真似ると教育水準が下がると恐れている大人が多い

生涯教育

生涯教育を単純に進歩しつづけることと捉えると老人の中に「落ちこぼれ」を生むリスクがある(老化は多くの能力を失うという事実は避けられない)

生涯教育には「死」の概念をとり入れ、いかに死ぬかということについても考えることが重要である

教育を考え直す

教育を「育」の方からみる

現在は子どもを育てる上での「自然破壊」が生じている
→子どもが自然に育つ上での干渉があまりにも多い
Ex塾、習い事、家庭教師

個性を尊重するには?
→個人のもつ可能性が顕在化してくるのを待つ
→自ら育つことの良さを体験してもらう

科学的に研究した教授法だけでなく、個々の人間に注目する
全体的法則を個々に適応しようとすることは個性を奪うことになりかねない!

放任の害

じゃあ自由に放任していればいいのか?→NO

自由放任の多くは親としての責任の回避であり、尊重しているふりをしている
放任された子どもは非行や問題行動にはしる(アピールする)

→自然に育つには傍に見守っている大人が必要

育つことは大切だが、教えることも必要であり
教えることが可能になるように育っていることの必要性がある
という矛盾の内包されたものが教育

学ぶ側の視点から

教育を学ぶ側の視点から捉え直す
単に新しい知識を得るだけでなく、学部ことで新しい領域を切り拓いてゆくことが望ましい

日本の大学・大学院教育は海外と比べて見劣りしている
→夜間大学院を作ることをもっと推奨すべき
→もっと大学を開放すべき=主体的に学ぼうとする人を受け入れる

個性と教育

個性の尊重は重要だとわかっているが、日本の教育において相当に困難な問題

日本人の一様序列性を好む傾向が強い
→例えば大学受験では海外に比べて大学を細かく順序づけてなるべく上位の大学にみんな行こうとする

大学側がより大学としての個性を持っているべきだが、多少の個性の違いを出したとしても日本人はどちらにせよ順序づけを行うだろう

日本人と個性

自我の確立を日本人はまだ成し遂げていない
→個人的な能力の多様性、個別性を認めるのではなく能力の一様な順序をつけることになってしまう

例えば、教師が「君のこの成績だと教育学部なんかに行くのは勿体無い。医学部にしなさい」と言う言葉もこれの表れである

日本人の自我は母性原理が優位だから、常に開かれた形で作り上げられてゆく
→自分の意見を述べようとすると、全体から切れてしまう(外れた人になる)

日本人の体質は個性を育む上で阻害要因となっている

「個性的」であること

では、自分の意見を発言するアメリカ人は絶対に個性的なのか?

→例え意見を発言できていたとしても、個人個人の同調性が高く同じような意見を言う結果になっているとそれは個性の発展に結びつくとは言えない

アメリカ人は意見の表明という点では日本人より優れているが、アメリカであっても一般的傾向と異なる生き方をすることはなかなか難しいことは一緒

日本人=創造性がひくい 訳ではない
日本の今まで生み出してきた芸術文化などがそれを示している
しかし、自然科学という意味では西洋の文化を基盤としているためまだ未開花といえる
→自然科学の発展の基礎となる近代自我が育つ環境が阻害されている

創造性が高い人が伸び伸びと活躍する場が奪われてしまう

では近代自我を確立するためには西洋的な教育のあり方にすればいいのか?
→否!たちまち時代遅れになってしまう

従来のあり方でもなく西洋の近代自我でもない個性の形を見出していかないといけない

創造活動としての教育

「家族的な」集団という言葉が自分達のグループをよくいう言葉として使われている
→家族的集団の中には、自分の本当に言いたいことを圧殺してしまう人が生じる

集団のリーダーが家族的であることを誇りに思っている集団ではメンバーの多くが表現の不自由さを感じているだろう

考える道徳


今だからこそ必要なのは
人間いかに生きるべきかを考えるための道徳
である

どのように教えるといいか
単に決まりきったことを学ぶのではなく、自ら悩み自ら考えることが課題となる

当然と思っていた自分達の生き方が
異なる観点から見ると全く違っていることに気づく→何をするべきかを自ら考える力を身につける

例えば1人の生徒が異なった意見を出したときに、さらにその意見をみんなで深掘りすることが必要

創造活動の意義

答えが決まっているようなものでも創造的な教育活動はできる

例えばある子どもが
大きいキューピーと小さいキューピーを並べられて、「この二つのキューピーの違いは何?」と聞かれた時にその子どもは2つのキューピーの大きさの違いではなく心に違いがあるのではないかと考えた
→「この二つのキューピーを解体しないとわかりません」と答えると知的遅れと判断されてしまった

このように、誤りの答えの中に多様な面白さが潜んでいる

子どもたちができるだけ個性を伸ばせるように教師が努力をし、もし事故などがそれで生じたときに教師をできるだけ守れるように教育行政が努力をすべき

→しかし、今はむしろその逆の努力(危険性を最小限に抑えるための努力)をしてしまってはいないか。それは創造活動を阻害する方向の努力である

男性の目、女性の目

客観的観察の問題点

ある子どもが幼稚園に入ってから何ヶ月たっても話そうとしなかった
幼稚園の先生はその子どもに発達検査を受けさせた結果IQ60と低い数値が出た
また普段の様子をじっと観察していると他の子どもと混ざって遊ぶ能力もないことがわかってきた
→先生は、この子はおそらく卒園するまで口を開くことはないだろうと判断し、その子に無理をさせないようにと当てて発表させる時もその子を飛ばしたりなどした
→結果その子は先生の思っていた通り、卒園まで口を開くことはなかった

科学的に見れば先生の観察した結果の仮説は立証されたといえるが
それは果たしてこの場合、正しい行動だったといえるのか?

この子に無理をさせないことはいいことだが、結果放棄されたと子どもに思わせた可能性もあるし、じっと観察されていることによる圧で自由に自分を出せなかったのかも知れない

→大切なのは、先生が考え行動したことがその子にどのように影響しているのかを考えること

ある緘黙の子を別の先生が見ていた時、先生は観察しているとその子が小動物が好きであることに気づいた
なので、水槽にいろんな魚を入れて、特に亀の飼育をその子に任せることにした。その子も、他の園の子どもたちもその亀を大層可愛がった。そんなある日に、亀が突然水槽からいなくなってしまった。みんなで探したが見つからなかった。その子は先生に抱きつき「私の亀がいなくなってしまった」と大声で叫んだ

その悲劇は、結果としてその子が他の子どもと話すきっかけになった

→無理強いをしないのは先ほどと同じだが、この先生はこの子のことを見捨てずに、この子のできることを見出している
先生や周りの子どもたちの支えがその子を変えた

子どもに対する私たちの態度は、その後の現象に影響を与えてしまう

男性の目、女性の目

男性の目・・・対象を自分と切り離して客観的に見る
→普遍的な知識を供給してくれる学問体系の成立には必要な目
自然科学はこっちが優位

女性の目・・・自他未分化な状態のまま、主観の世界を尊重しつつものを見る目。明確さを犠牲にしてでも全体を把握しようとする
→人間が人間に対する時に必要となる。看護や保育といった領域ではこちらが優位。臨床心理学も。


このような女性の目が優位な領域においては学問の構築が遅れる
「男性の目」を借りてきた借り物の学によって間に合わせようとしてきた

例えば臨床心理学も精神医学という比較的男性の目を優位とする学問から借りてきた学であるといえる

新しい保育学

現在の課題は
女性の目を優位とする領域において、独自の体系を築いていくこと

しかし、女性優位の領域においては「偶然」を生かすということが意識される
(偶然亀が逃げ出してしまったことが子どもの会話のきっかけになったことのように)
対して男性の目は「偶然」を排除して一般化する

「女性の目」で見たものを一般化する時には最新の注意が必要


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