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「自分の仕事」を"考えた"6日間のこと②

昨日のつづき。(※ここでは毎日、毎日、「つづき」を書いているつもりではあるのですが… というのも、もはや「いつものセリフ」ですね?)

2009年の12月末、その頃、書いていたブログ「アフリカン・スクラップ・ブック」で、ぼくはこんなことを書いている。その時は会社勤めを止めたばかりで、まだ大阪に住んでいた。

忘年会もひと通り終って、昨夜はM君宅で「最後の忘年会」と称してビールを飲んでいた。ふたりで、しみじみと話していたんだけど、今年は本当に激動の一年だった。辛い出来事も多かったが、終わってみると、今年は明るい一年だったような気がする。まったく思いどおりにはいかなかったが、その分、たくさんの出会いに恵まれて、予想外の出来事が次から次へと押し寄せてきた。すべては「はじまったばかり」だが、たくさんの「きっかけづくり」が、できた。というより、「きっかけ」が向こうからやってきてくれた感じもした。この数年、正月には「一年の目標」をたてていたが、それはもう止めて、「成り行き」に任せてみようと思っている。もっともっと自分の可能性に賭けてみても良いのでは、と思えた一年だった。

年が明けて、その1月の最初の連休に奈良で行われた「「自分の仕事」を考える3日間」にぼくは通しで参加して、いろいろ考えた。で、何がわかったわけでもなかったが、とにかく何か思い切ったことをしたくなった。

それは、おそらく「無謀なこと」と言ってみてよい。

その思いは、学生時代を含め10数年、縁があった大阪、そして関西を離れる、という決断に、あっさり、なった。

「「自分の仕事」を考える3日間」に参加して思ったのは、いろんな人に会って話してみよう、ということだった。それはまぁ、実行に移したと言っていい。

でも、「仕事」という点では、少しずつ、少しずつ始めた、と言うくらいにしたい。当初はほとんど引きこもりのような状態だった。見た目には元気でよく喋るので、そんな状態であることに気づく人はまぁいない(すごく親しい人を除いて)。

それでも『アフリカ』だけは年2回、出していた。しかも妙なテンションで。暮らしてゆくのに苦労しているのにたいして売れもしない雑誌づくりに精を出している。いまでもたいして変わらない? いや、その頃はいまよりも遥かに先が見えなかった、真っ暗闇だった。狂気の沙汰、と言ってもいいような気がするが、出来上がったものからは全然そんな気配がしないかもしれない(そこには自分以外の"仲間"がいるからだ、彼らの存在なしにはやってこれなかった)。東日本大震災から約1ヶ月後、そこに書いていた中から死者が出た。ぼくは、あの頃、死んでいたのが自分でもおかしくなかったような気がしている。でも彼は死に、ぼくは死ななかった。彼が死んだこととぼくが死ななかったことの間には、おそらく相互関係はないだろう。しかしその時、何か大きな犠牲をそこに置いてきたような気持ちになり、それは現在まで続いている。

その東日本大震災が起こる約2ヶ月前に、再び「「自分の仕事」を考える3日間」があり、再び"考えて"みたくなり、こんどは府中から前乗りで出かけて、奈良のゲストハウスに連泊するかたちで参加した。

前年も参加していた人たちとの再会も、あった。

ある人からは、「下窪さんの話は強烈でした。だって、私は自分の仕事を考えたくて来ていたけれど、下窪さんは考えざるをえなくなって来ているんだもの!」と言われた。

2日目に出た、3人のゲストのうち、2人目が山本ふみこさんだった。

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ふみこさんは「成り行き」の話をしていた。事前インタビューを収録した本『わたしのはたらき』によると、こんなふうだ。

──「成り行き」と聞いて、「エゴを手放す」とか「状況に身を委ねる」というニュアンスで受け取る人がいるんじゃないかと思います。あるいは「行き当たりばったり」とか。
山本 それとは違う気がする。もう少し厳しいよ。西村さんだって、成り行きで今日わたしの家に来てるわけじゃないですよね。奈良のフォーラムに集まる人も、ただ成り行きで図書館に立ち寄るわけじゃないでしょう?
 それでもやっぱり人生の感じとしては、とても「成り行き」だと思っていて、それは、与えられたものをどう受け取るか、ということだと思う。与えられるものに敏感になるというか。

書き写しながら「成り行き」の語源を調べてみたくなってきたが、今日は止めておこう。でもおそらく、「変化」を表す方に重心があることばではないか、とぼくは思う。「行き」ということばから、動きを感じるでしょう。「状況に身を委ねる」というふうな言い方をしたいならば、「変化に身を委ねる」と言う方が近い。

西村さんは「成り行き」ということばを、そんなに肯定的に(?)使うとは! という感じで話していたが、ぼくにはそんなふうな驚きはなかった。1年前に自分が考えて、話していたことにものすごく近かったから、むしろ、へぇ、そんなふうに考える人が(自分以外にも)いるんだ? と知って励まされたのだった。

2010年〜2011年頃の自分からしてみれば、「止むを得ず」という感じも強かった。しかし止むを得ず成り行きの風に乗って進むことが、消極的な生き方だとも思っていなかった。

昨日はその2人が話すのを、2011年1月の奈良以来、8年ぶり、いや、9年ぶりに聞かせてもらった。その時の思い出話もたくさん出て、懐かしい気持ちにもなった。9年前に感じたモヤモヤ(みんな"モジョモジョ"と呼んでいた)も、あまり変わっていないと気づいた。西村さんが何か「◯◯とは◯◯だと思う」と言うたびに「うーん」となり、ふみこさんが「◯◯とは◯◯だと思う」と言うたびに「むむ」となる。「うーん」や「むむ」は、疑問のようなかたちで生まれるのではなくて、むしろ「そうですね!」と思っている後ろに「ちょっとまてよ?」という感じで生まれている。なので、消化するのにものすごく時間がかかる!

もっと違うことばで話せばいいんだろうか。いや、ぼくはもっとゴツゴツした方へ語りを進め、もっと遠くまでゆきたいということだろうか。

昨日はそんなことを考えるきっかけとなった。

(つづく)

日常を旅する雑誌『アフリカ』最新号(2019年7月号)、相変わらず発売中。在庫が少なくなってきたので、お早めに。

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダーは、1日めくって、12月22日。今日は、冬至。「まずいよママ今日が終わっちゃう!」

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