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NOと言うために

ここ(毎日書いている「道草のススメ2019」)で、ぼくはよく自分がどう感じているかを問うている自分に気づいている。

この社会では、行動はいつも問題とされるが、どう感じているか、つまり、どういう"あり方"をしているか、を問われることはあまりない。

Twitterをひらくと、"承認欲求"ということばを、ちょくちょく見かける。日常生活の中でぼくは"承認欲求"を聞くことがないし、自分でも使わないので、SNSの上で頻繁に現れるそのことばを不思議な思いで眺めている。

そのことばを使っている多くの人は、"承認欲求"から行われる言動を、よくないものとして捉えているようだ。

"承認欲求"というのは、つまり、他人から認められたい、ということでしょう? 自分という存在を認めてほしい、と。

おそらく誰もが、当たり前にもっている"欲求"だ。"承認欲求"のない人というのは、たぶん生きてない。

"承認欲求"から行われる言動を、よくないものとして捉えているということは、突き進めて考えると、主体的になれ、ということになる。

主体的の反対は、客体的だ。客体性が高まると、自分とは他人から見られる存在ということになる。

たしかに、他人からの評価ばかりを気にするようであれば、きついだろう、と思う。

不思議なのは、しかし、主体的になれ、と言っているはずの人びとが、"承認欲求"をなにか忌み嫌っているような雰囲気だ。

繰り返すと、“承認欲求”は、誰もがもっているものだ。

誰かの言動にたいして、その人がほんとうに"主体性"を求めるならば、その誰かの存在を認めてやらなければならない。

あなたの存在を私は認めるよ。ところで、あなたは実際にはどんなふうに感じているの? と。

主体性・客体性というのは、その人の"あり方"だ。

誰しも、主体と客体の間で、揺れている。

最近の自分を振り返ってみて、ぼくはこんなことを考える。

「それは違うと思う」「それは(自分は)いやだ、やりたくない」と感じる時、自分は「NO」と言えるか?

「NO」と言うことによって、簡単に切れてしまうような関係性の中では、「NO」は言いづらいだろう。

「NO」と言うことによって自分の生活が危うくなると思っていたら、「NO」とは言えないだろう。

"承認欲求"の対極にあるのは、"ほんとうに自分が感じていることを感じる(欲する?)こと"だろう。

その"欲求"を積極的に行動に表せるなら、「NO」と言うこともできる。そして、その人は悩むことが思う存分できる状態にある。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、2月20日。今日は、「子どものケガとレントゲン。透けて見えた未来予想図」の話。※毎日だいたい朝に更新しています。

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